数日後、僕は彼女に告白する。
数日後、島崎 凪は今朝もいつも通りだった。
自分の部屋で目を覚まして、両親に挨拶をして。
「気が付いたら作りすぎちゃった」と泣き笑いの表情の母さんを宥めて、用意された朝食を食べる。
それから、ニュースを見る。
「今日は午後から雨が降るみたいだ。
父さん、念の為に傘を持って行こうね。
ご馳走様です。
今日も美味しかったよ、母さん」
「凪……」
外に出る準備を整えて、家を出たら水乃を迎えに行く。
これが島崎凪の毎朝のルーティンなのだ。
そしていつもよりも意志を固く持って、凪は待ち人を待ち続けた。
水乃が少し前まで元気が無かった事を思えば、どんなに辛くても大変でも、暑くても外に出てくる今の方がずっとマシな方だと思ってしまうのだから、つくづく島崎凪と言う男は水乃に甘く、弱いのだろう。
彼女の元気な姿を見続けられるのなら、僕の願いなんか叶わなくても……。
凪がそう思ったと同時に、扉がガチャ、と開く音がした。
出てきたのは水乃ちゃんのお母さんだった。
この時、凪は一足出遅れたのだと知った。
今年の梅雨入りは少し遅い。
雨は空気が涼しい時と涼しくない時があるのは勿論、天気に変動が起きやすく、晴れていても暫くすると雨が降る。
台風も来てるみたいだし、迷惑な夏休みになりそう。
水乃ちゃんは傘を持ってきただろうか。
僕は市の図書館を目の前に、そう思う。
水乃ちゃんが何故ここに居るのが解ったのかについては、結論から言うと僕が幽霊だからだった。
好きな人にに会いたいと思ったら、距離なんて関係無いよね。
少し大きめな図書館を一周する頃、本棚の横のソファーに座る水乃ちゃんを見付けた。
少し分厚い小説を集中した様子で黙々と読んでいた。
時々時計を見ながら、水乃ちゃんの近くで本を探す。
水乃ちゃんの周りの本は小説ばかりだった。
少し離れて目に付いた地域に根付いた歴史の所を見てみる。
そこには数々の記事や論文、果ては歴史ガイドまであった。
何も無い所だと思っていただけに、歴史がきちんと残されていた事に少し感動する。
何となくのつもりだった。
何となく、知りたいという興味のままに本棚を指でなぞる。
『〇〇市●●町△△村に古くから伝えられてきた口伝が存在する。』
そんな一文から入る、ある記事を見付ける。
この地域に残された、伝えられてきた口伝というものに興味が湧く。
実際には口伝ではあるが隠されていた訳ではなく脈々と語られ、言い伝えられていた物らしい。
『昔、森の近くに若く美しい夫婦が住んで居ました。
夫は若いながらも手練れた狩人として村では多少名前が知れていました。
二人は慎ましく、幸せで比較的穏やかな生活をしていました。
ある不幸に見舞われるまでは。
ある日の夜。
その日は非常に暑かったのでおそらくは夏だったのでしょう。
例え狩人や盗賊とはいえ人間、獣よりも弱いのは自然でした。
夜目も無い人間には夜の森はあまりにも不利なのです。
だから、人間である夫婦は家の中では当然囲炉裏で火を燃やすのです。
それが最も火を嫌う獣を避ける方法だった為に。
いつも通りの狩りの後、日が長くなり油断した夫は急に暗くなった森を戦利品であった猪を担ぎ帰路に着く。
しかし、囲まれている事に気付きます。
恐らくは狼だったのでしょう。
家の近くまで来た所で家の灯りに安堵した夫は躓いて転んでしまいます。
それを見ていた狼によって夫は殺され、己が狩った筈の猪まで奪われてしまいます。
夫が死んだ事を知らずに朝を迎えた妻は森の中に夫を探しに出て行くも、迷子になりかけてしまいます。
その時、妻は夫に助けられました。
幽霊である等と知らず、妻は夫に声を掛けます。
あなた、一緒に帰りましょう。
けれど返答は無く、ただ黙って首を振るだけでした。
そんな事が数回あって、妻はやっと見付けてしまいます。
家の近くで無残な姿の夫の残骸を。
妻を森で助け続けていた存在に妻はやっと、やっと気付いたのです。
妻は夫の形見として端切れの様になってしまった着物を抱き、家に帰ります。
後日、昼の内に夫を家の隣に埋めました。
それからでした。
妻が家で夜を過ごしていると、時々家の囲炉裏の火が風もなく消える日が在りました。
静かに。
小さな声が聞こえました。
すると家の近く、森の方で茂みが揺れるのです。
狼の遠吠えが聞こえ、近付いたかと思えば急に遠ざかる様に。
後日妻が村に買い物で降りた時、村の人が近くに盗賊が出ていたのだ、と心配して伝えてくれました。
村からの帰り、妻の後ろにはいつの間にか一匹の狼が付いて歩いて居ました。
妻は確信します。盗賊を追い払ったのは、この狼だと。
それからでした。
妻の家の前に獣の新鮮な死体が置かれる様になったのは。
妻はお礼に、と自分が食べる分以外の全てを切り分けて入り口の横に置く様になりました。
狼はそれを喜んで食べるのです。
そんな事が続いたある日。
妻の前に夫が姿を現しました。
夫は死に際に狼と契約を交わしたのだそうです。
自分を殺すのなら、代わりに妻を助ける様にと。
妻が転んでしまうその時までは守る様にと。
夫は妻に転んでしまわない様にと伝えました。
夫はこれで安心して成仏が出来るかと思われましたが、妻は夫ともう少しだけ一緒に居たいと言いました。
夫としても妻と共に居たい、と思いました。
しかし夫には、ある焦りが心の内に在りました。
その焦りの訳を知らないまま、妻と時間を過ごしました。
それから少しの時が経ち、妻は幸せそうに過ごしていました。
しかしふと、徐々に夫の心に魔が差す様になりました。
ある夜には、隣で眠る妻の首に手を添え、夫の殺意を察知した狼に追い払われました。
ある時には、森に山菜や、薬草を摘みに共に出掛け、獣を唆したり、川に連れ込もうと妻を殺してしまいそうになりました。
何れも狼によって阻止、又は追い払われました。
正気に戻った夫は、焦りの正体に気付きます。
悪霊化、夫は気が付けば悪しき者に為りかけているのです。
夫は妻との別れを覚悟しました。
夫は妻に伝えました。
幸せだった。もう一緒には居られない。
貴女を不幸にしない為にも、自分の為にも。
そろそろ、行かなければならない。
留まれる時は有限だった。
それに、自分の未練はもう無い。
ありがとう、愛してくれて。
愛してる、さようなら。
願わくば、来世でまた______
夫は、狼と妻を見て安心した様に成仏しました。』
どこか不思議で、どこか昔話のように聞いた気がする話だった。
言い伝えと言う事もあり、妻には夫との子供が居て、実は狼は妻の子供だったとか、一部違う姿形で伝わっている物や考察もされている様だが、内容の伝えたい部分は変わっていないらしく殆どがこの形で言い伝えられるか、簡潔に伝えられるらしい。
簡潔な物だと、
『現世に未練を残した幽霊は約30~45日の間だけ留まって未練を解消する事が出来る』
物語の先にこの様に簡潔な形での言い伝えが存在するのも、わからなくも無い。
気が付けば夕方だった。
時間を忘れる様に読み込んでしまっていた。
窓を見ると、外は雨が降っていた。
きっともう少し後で帰れば涼しいだろう。
一段落付いたのか、分厚い小説を閉じて立ち上がろうとする水乃ちゃんを見掛けて声を掛けた。
「水乃ちゃん
まだ雨が止んでません
閉館までには雨も止むと思うので、それまではそちらの小説を楽しめますよ」
僕も、もう少し知りたい事がありますし。
水乃ちゃんは周囲に人が居るのを知ってか僕をじっと見つめ、それから思い出した様に鞄を漁る。
目当ての物が無い事に気付いたらしく、一瞬硬直する。
水乃ちゃんは諦めた様に椅子に座り直して小説を開く。
図書館の閉館間際、慌てた様に水乃ちゃんと外へ出る。
さっきまで強く雨が降っていた様で、空気も冷たく地面が湿っていた。
どうやら周りもちらほらとこれから帰る人が居る様で、僕をすり抜けて行く。
そんな僕を見た水乃ちゃんは一瞬目を見開き、それから俯いて「もう暗いし帰ろう」と呟き足を進める。
僕はたったそれだけの事も、水乃ちゃんだけは僕が見えていると言う事実が再認識出来て嬉しく。
同時にただ人が、僕を認識しないからすり抜けただけなのに驚いてくれた事に若干の悪戯心が湧いて、楽しそうな顔をしてしまう。
そうして僕は水乃ちゃんの隣を歩いてしまう。
水乃ちゃんの家に着いた。
さぁ、水乃ちゃんに伝えよう。
今度こそ、彼女が僕とお別れ出来る様に。
「僕、水乃ちゃんが好きです」
「そう、でも残念ね
何度も言うようだけど私は貴方の事嫌いよ」
ある日を境に、僕は水乃ちゃんを口説く様になった。
水乃ちゃんはまるで当然の事の様に僕の告白を切り捨てる。
水乃ちゃんの意思の強い瞳と一瞬目が合う、が。
ふい、と水乃ちゃんは玄関前で立つ僕をそのままに、家に帰ってしまう。
また、失敗した。
さっき、図書館で見た、《《あの記事》》に書かれていた事が本当ならば、僕に残された時間は予想以上に少ない。
僕の心の内の焦燥感が、止まった筈の僕の心臓をドクンッと擬似的に鳴らす。
タイムリミットを過ぎれば僕は________。




