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盤上遊戯は計算通りに

作者: 上田 成

チェス用語が作中に出てきます(冒頭以外、ほぼチェスをしてると言っても過言ではない位)ので、ご存じない方のために一応ざっくりと補足を書いておきます。覚えなくても読むのに支障はないはずです……が、チェスそのものをご存じないと訳がわからないかもしれません。会話文だけでも成り立つようには書いているつもりですが……。


・キャスリング…キングとルークを一手で二回決まったマスへ動かせるお得技。一度しか使えない上に色々制限がある。序盤で使用するのがセオリーらしい。

・ステイルメイト…引き分け。

・パスポーン…敵のポーンが周囲からいなくなった、いいかんじの自軍のポーン。

・プロモーション…ポーンのみ可能。敵陣最奥のマスまで到達するとキング以外の駒に昇格できる。将棋でいう成金みたいなもの。

 

「真実の愛のためなら仕方がない! ミランダ・オットー公爵令嬢、前に出たまえ!」


 学園の卒業パーティーの会場に響き渡る王子の声に、名指しされたミランダは訝る様子で前へ出る。


「レイドリック殿下、何用でしょうか?」

「ミランダは公爵令嬢という身分を笠に着て、ライラ・ゴドフリー子爵令嬢を虐めていたそうだな!」

「!?」


 レイドリック王子の発言に周囲の貴族達が困惑の表情を浮かべる。

 確かに数ヶ月前からそんな噂が立ってはいたが、公爵令嬢がたかが子爵令嬢如きを相手にするわけがないと思っていた。

 またミランダの学園での様子は物静かで常に影のように薄い存在感しかないが、彼女が孤児院や教会を積極的に支援してきたことは有名で、その方面からは聖女と呼ばれていたりする。そんな慈悲深く大人しい令嬢であるミランダが、身分を笠に着て虐めをするとは考えにくかった。


 今も王子に糾弾されたミランダはショックを受けた表情で、隣に立つ弟のウーゼルの腕に掴まりガクガクと身体を震わせている。

 この場にいるのはミランダとは挨拶程度の言葉しか交わしたことがないという生徒がほとんどだったが、彼女のその様子に憐みを覚えた。

 だが絶句した後、反論もできず弟に縋りついたミランダに、不快も顕に舌打ちをしたレイドリックは声高に言い放つ。


「証拠も証言もあるから言い逃れはできないと思え! ここに私はミランダ・オットー公爵令嬢との婚約を破棄し、ライラ・ゴドフリー子爵令嬢との婚姻を結ぶことを宣言する!」


 レイドリックはそう言うと、傍らに立つ小柄な少女へ手を差し出す。

 ライラと呼ばれた華やかなオレンジの髪と愛らしいピンクの瞳をした令嬢が、レイドリックから差し出された掌に自分の手をそっと置いた。


 ライラは子爵家出身ながら才女として有名であった。

 自国の最高学府であるこの学園でも入学以来首位から陥落したことはなく、勉学が好きで夢は王宮の官吏になることらしいと専らの噂である。

 同じ生徒会の役員であるレイドリックとは一緒にチェスを興じるほど親密で、二人で時間を忘れて白熱したバトルを繰り広げていることは有名だった。


 尤もレイドリックの方の学業の成績は中の中といったところで、生徒会役員になれたのも彼が王子だからというだけである。

 またレイドリックは幼い頃は意気軒高とした活発な子だったが、年齢を重ねるごとに病弱になってゆき、今では月に数度は必ず寝込むようになっていた。そのため公務も欠席しがちで、母親である王妃の美貌だけは受け継いでいるが、いつも顔色が悪く不機嫌そうな顔をしている。当然、王子としての評判はあまり良くはなく、陰では無能王子と蔑まれていた。


 そんなレイドリックが起こした婚約破棄騒動に、周囲にいた生徒達は不快そうに眉を顰めるが、当の王子はお構いなしに婚約者へ向けて人差し指を突き付ける。


「ライラを虐めていたミランダには罰を言い渡す!」


 罰と聞いて、サッと青褪めたミランダの前に彼女の弟であるウーゼルが進み出る。


「レイドリック殿下、不出来な姉は二度と社交の場へ出られぬよう、我がオットー公爵家が責任を持って生涯幽閉処分といたします。どうかそれでご容赦いただけないでしょうか?」

「生涯幽閉?」


 ウーゼルの言葉をオウム返しに聞き返したレイドリックに、周囲から「本当に虐めていたの?」「重すぎるんじゃ」「確たる証拠はあるのかしら?」など、ミランダへの同情の声があがる。

 しかし、その周囲の声を遮るようにミランダはその場で深々と頭を下げた。


「私は弟の進言に従い一生涯幽閉先から出ないことを誓います。ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした」


 王子の一方的な婚約破棄と断罪に反論どころか弁解も弁明もしないミランダの殊勝な態度に、周囲からは益々同情と憐みの眼差しが向けられる。

 レイドリックも素直に罪を受け入れ謝罪したミランダに渋々といった体で頷くと、顎をしゃくった。


「ならば早々に立ち去れ。今後一切他者との関わりは禁ずる」

「かしこまりました。……それでは皆様、もうお会いすることはございませんでしょうけれど、ごきげんよう」


 微笑を浮かべ優雅にカーテシーをしたミランダは弟と共に静かに去ってゆく。

 その背を苦々しい顔をしたレイドリックが見送り、ライラはその傍らで一言も発することなく不安そうに成り行きを見守っていた。


 ◇◇◇


 卒業パーティーの会場から逃げるように走り去る馬車の中、弟の対面に腰掛けたミランダが肩を震わせる。


「……ふ、ふふふ。上手くいった……上手くいったわ! 婚約破棄イベントが始まった時は上手くいくか不安で震えちゃったけど、これで私は快適引き籠り生活エンド突入よ!」


 淑女らしからぬ様態で拳を突き出しガッツポーズを決めた姉に、ウーゼルがヤレヤレといった体で返事をする。


「はいはい」

「ありがとうウーゼル! これも貴方が協力してくれたおかげよ! 転生したことに気付いた時に弟の貴方に相談して本当に良かった! 持つべきものは頭が良くて話の分かる可愛い弟だわ~。もう本当にウーゼルが私の弟で良かった」


 ミランダは満面の笑みで弟の頭を撫でると、ゴソゴソと馬車に置いてあった荷物の中からチェス盤を取り出す。

 このチェスはミランダが作らせた特注品で盤面と各駒の下に磁石が付いているため、揺れる馬車の中でも遊ぶことができる代物だ。


「んじゃ、円満解決エンドで決まったことだし、私の明るい未来を祝して一局付き合ってね。ウーゼルは強いから勿論私の先行で!」


 そう言って、嬉しそうにいそいそと白の駒を並べ始めたミランダにウーゼルが苦笑する。


「数年前に、いきなり姉さんが『私、転生者なんだけど、殿下の恋路を邪魔したら死刑になるから助けて』なんて言ってきた時は正直面食らったけれどね」

「私だって混乱してたのよ! ある日寝て起きたら乙女ゲームの世界の悪役令嬢に転生してたことに気づいちゃったんだもん!」

「まぁね。でもレイドリック様のことは良かったの? 最推しとかいうやつだったんだろ?」


 ウーゼルの指摘に、盤面に横一列に並んだポーンの駒を前に進ませたミランダが、不貞腐れたように口を尖らせる。


「だって仕方ないじゃない。私が乙女ゲームの悪役令嬢のままレイドリック殿下とライラの邪魔をしたらギロチンよ! ギロチン! かと言って何もしないで殿下との婚約を継続していたら、ライラと結ばれたい殿下に冤罪を擦り付けられて国外追放されるなんて、どっちにしろ破滅エンドだったんだから!」

「ギロチンはともかく、国外追放なら姉さんは庶民だった前世の記憶があるんだから、何とかなったんじゃない?」


 定石通りに中央を固めようとポーンを動かしたウーゼルに、ミランダが反論する。


「甘いわ、ウーゼル。いい? ここは異世界。しかも私がいた世界でいえば中世ヨーロッパ。私が生きてきた現代日本とは全く違うの! 事務仕事だってパソコンじゃないし、工場の流れ作業もなければ、スーパーのレジ打ちの仕事もない! 前世で運転免許を持っていたけどそもそも車がないからドライバーだって無理。侍女になるにしても、ガスも電子レンジも掃除機も洗濯機もミシンもないからお手上げで、更に今世は庶民の生活とはかけ離れた公爵令嬢ときたもんよ? そんな私が国外追放されて生きていけるわけないでしょう!?」

「パソコ? スーパ? ドライバン? ……何?」


 聞きなれない言葉に眉を顰めたウーゼルをスルーして、ミランダはナイトの駒を進ませる。


「そこで私は考えたわけよ! 推しであるレイドリック様のことは早々に諦めて、自分の未来を大事にしようって! だって死んだら推しも何もないもの!」

「まぁ、確かに死んだら終わりだからね。前世を思い出してからの、姉さんの変わり身は素早かったよね」


 自軍のナイトを動かすために突出していたミランダの白いポーンを摘み上げ、その場所へ黒いビショップを置いたウーゼルは、取り上げたポーンの駒を指で弾いた。

 盤面から退場したチェスの駒は二度と元には戻れない。獲られたポーンを横目で見ながら、ミランダが自軍のビショップへ手をかける。


「私だって足掻いてはみたのよ? 国外追放でも何とか生きていけないかと孤児院と教会を慰問しまくったけど、結局この世界では自分は一人で生きていけないってことが解っただけだったわ。あんなに奉仕活動したのに無駄な労力だったわよ」

「うわ~、聖女とは思えない発言。姉さんの崇拝者が聞いたら卒倒するんじゃない?」


 ナイトとビショップが出撃していった空間を見ながらキングに手を伸ばし、キャスリングをきめたミランダがビシッと指をウーゼルへ突き付けた。


「誰だって自分の命は大事なの! でも断腸の思いだったのよ? 最推しであるレイドリック様とヒロインのライラが親しくなってゆく過程を間近で見るなんて、何度リセットボタンを探したことか!」

「推しとヒロインがくっつくのを見るのはプレーヤー? の醍醐味なんじゃなかったっけ?」

「他の乙女ゲームならね! でも、よりにもよってここは、私がジャケットに描かれたイケメン王子とツボ過ぎる悪役令嬢に惹かれて衝動買いした乙女ゲームの世界なんだもの。ヒロインよりもレイドリック様と悪役令嬢をくっつけたくて試行錯誤しては撃沈した世界なのよ!」

「はぁ、そういえばそんなことを力説してたっけ?」


 溜息を吐きながら、自身もキャスリングをしたウーゼルにミランダはビショップを進めて攻撃の布陣を敷きながら、馬車の窓に映った自分の顔にうっとりと微笑んだ。

 窓には青銀色の真っすぐな長い髪に琥珀色の大きな瞳をした美しい女性が映っており、ミランダが口角を上げるとその女性も微笑む。


「そうよ! レイドリック様は神の如く尊いし、ミランダのこの顔、この声、このスタイル、全てが私の好みドストライクだったの! あぁ、何度見ても惚れ惚れするわ~」

「姉さん、自分で自分に見惚れてどうすんの」

「ついね、つい!」


 明るく笑うミランダに苦笑したウーゼルが、ルークを動かす。どうやらミランダのビショップを潰す気になったらしい。

 ウーゼルがルークを動かすのはそろそろ反撃体勢に切り替えようとしている合図なのである。


「まぁ、弟の僕から見ても姉さんは美人だと思うよ。レイドリック殿下だって数ある婚約者候補の中から姉さんを選んだのは容姿が気に入ったってのもあると思うし。婚約者になってからだって仲は悪くなかったでしょ? わざわざ虐めを捏造してまで婚約破棄させる必要はなかったんじゃないかな? その虐めだって『嫌味を言った』程度のものだし」


 ウーゼルの言葉と反撃が始まった盤面にミランダは小さく唸る。

 そうなのだ。ミランダはライラのことを虐めていない。

 虐めの証拠や証言は、全て目の前にいるウーゼルがでっちあげたもので完全なる冤罪だった。そのせいなのか糾弾された時に思いのほか周囲の同情の声が大きくて、ミランダは焦った。

 あそこで王子の言うことを否定してミランダを庇う輩や弁明をする者が現れて、王子の不興を買うような真似をしていたら生涯幽閉という計算通りに進んだ盤面がひっくり返されるところだったのだ

 そうなると我儘王子の口からギロチンや国外追放の言葉が発せられるのは必定で、理不尽に死にたくないミランダは、一気に詰むべく弁解も弁明もせずにさっさと負けを認めて退場したのである。


「だからこそよ! 何せレイドリック様は、その『嫌味を言った』程度の噂で衆人環視の前で婚約破棄をするようなヒロイン命の危険人物なのよ!? 悪役令嬢のテンプレ『ワインをかける』『階段から落とす』『悪漢に襲わせる』なんて極刑まっしぐらな行為をしたら一発ギロチン、即アウトよ! どんだけライラが好きなのよ! って前世で思わずゲーム機にツッコミを入れたわ」


 息巻くミランダにウーゼルは首を傾げる。


「確かにライラ嬢とは親しくしていたようだけど、恋人というより友人の一人みたいなかんじだったけどなぁ。現に前世を思い出してから姉さんに避けまくられて、レイドリック殿下は酷く落ち込んでいたようだったよ?」


 ウーゼルのルークを潰そうかと自身のクイーンへ手を伸ばしたミランダは頭を振った。


「同情はいらないわ。無理なものは無理なのよ。所詮乙女ゲームはヒロインが幸せになるための物語。前世の私が幾ら頑張っても、悪役令嬢と王子をくっつけることなんてできなかった。つまり決められたストーリーを変えるなんて、どうしたって無理なんだからさっさと諦めるのが賢明ってもんでしょ。

 大体王子妃とか私には荷が重いわ。だって私の前世の夢はお金を貯めてヒッキーになることだったのよ? コミュ障だし社交とかマジで勘弁してくれってかんじ。ゲーム設定の高スペック悪役令嬢ミランダならともかく、平凡ぐうたら女の私が中身じゃ王子妃なんて務まるわけないのよ。その点、ヒロインであるライラは頭脳明晰で社交性もあるし王子妃になるに相応しいわよね。ちょっと悔しいけどこれが現実ってやつなのよ」


 クイーンへ伸ばした手を引っ込め短期決着の姿勢を諦めたミランダは、無難にポーンを進めていくことにする。いつもと違う堅実な布陣にウーゼルが暫し考え込む。


「なるほどね。姉さんが僕に断罪の場で生涯幽閉処分を申し出てくれと言った意味がわかったよ。普通の人にしたら幽閉なんて屈辱で絶望的だけど、ヒッキーが夢である姉さんにしてみたら衣食住が確約された快適スローライフってわけか」

「そういうこと。レイドリック様の結婚式スチルが見られないのは残念だけれど、計算通りに事が運んで今はとても幸せ。幽閉最高!」


 屈託なく笑ったミランダはウーゼルといい勝負になっている盤面に満足そうに頷いた。

 王子妃なんて面倒そうな人生は嫌だったので、ざまぁ返しなんて考えもしなかったし、王子はヒロインとくっついて悪役令嬢である自分はスローライフ、これぞ計算つくされたミランダのみんなウィンウィン作戦! である。


「幸い私一人食っちゃ寝生活してもオットー公爵家の財力なら何てことないし、お父様もお母様も王子に婚約破棄された私には興味も感心も無くなっただろうから、死ぬまで幽閉生活を満喫させてもらうわ」

「幽閉を満喫とか意味がわからないけれど、まぁ、僕は姉さんが幸せならそれでいいけどね」

「ありがとう、ウーゼル!」


 破顔したミランダにウーゼルが視線を逸らし盤上のルークを見つめて小さく溜息を吐く。


「婚約破棄も幽閉も全ては計算通り、か……ごめんね、姉さん」


 ウーゼルの呟きは、ミランダを幽閉するために造らせた塔へ向かう馬車が走る蹄の音に掻き消されて、彼女に届くことはなかった。


 ◇◇◇


 昨夜の婚約破棄騒動が嘘のように快眠したミランダは朝食を済ませると、部屋に置かれた卓でチェスの駒を並べていた。

 ウーゼルが用意してくれた別宅は、外観は高い塔のようで幽閉地らしい佇まいであったが、入ってみれば案外快適で、セキュリティも万全のようだった。

 難点といえば思ったより王宮に近いということだが幽閉の身分では外出することもないし、誰かが訪ねて来ることもない。


「快適ヒッキー生活突入~、イエーイ!」


 そう言って昨晩はステイルメイトになってしまった勝負の要因を探るため、一人チェスを興じようと顔をあげたミランダは、そのままの姿勢で固まった。


「な、何で、ここに殿下が?」


 微笑みながら入室してきた元婚約者の王子にミランダの琥珀色の両目が見開かれる。

 ミランダの質問には答えずレイドリックは卓の上に並べられた駒に気付くと、当然のようにミランダの対面に腰掛けた。


「チェスか、そういえばミランダとは対戦したことなかったな」

「え? あの? え?」(まさか、やっぱりギロチンとか言わないでしょうね!? どうしよう……逃げる? でもどうやって?)


 出入り口の方向へ瞳を向けたミランダの視線を追ってレイドリックは笑みを深める。


「ここの設備って外部からの侵入者を完璧に阻止できるんだ。でもね、それって内部からも決して脱走できないってことなんだよ。だって幽閉地だからね」

「はあ、そうなんですか」(って、待って待って待って! ということは逃げられないじゃない。誰? 幽閉最高とか言ってたの!? 私か! だって逃げる必要性があるなんて考えもしなかったんだもん! そもそも婚約破棄したこの人が何でこんな所に来るのよ!?)


 青褪めるミランダにレイドリックはトントンと卓を叩くと、チェスの駒を指でなぞった。


「ミランダが白でいいよ。私は後攻でじっくりと戦術を練るとしよう」


 並べられたチェスを眺めて瞳を細めたレイドリックに、とにかく今は下手に逆らわない方がいいと判断したミランダは怖々と白のポーンへ手を伸ばす。

 戸惑いながらもゲームが始まり、定石通りにポーンを進めキャスリングをしたミランダは、ルークとビショップで次々に黒のポーンを蹴散らし自軍のポーンを進めてゆく。最初は怯えていたが次第に盤面に夢中になってゆくミランダを、優しい笑顔を湛えて眺めていたレイドリックが苦笑する。


「ミランダは結構強いね。もっと早く手合わせすれば良かったな」


 レイドリックの呟きにミランダがルークの駒を動かしながら、意を決したように訊ねた。


「あの、殿下はどうしてここに? ライラ様はこのことをご存じなのですか?」


 まさかやっぱりギロチンするとか言わないですよね? という言葉を呑み込んでルークで撃破したポーンの駒を盤面から外に出したミランダを一瞥したレイドリックは、少しだけ思案気な表情をするとにっこりと口角を上げた。


「この離宮は私が君と過ごすために造らせたものだから私がいても問題ないだろう?」

「は?」


 レイドリックの言葉が理解できずにポカンと口を開けたミランダに、彼はクスリと笑う。


「君は本当に素直で解りやすいけど、目的のためなら周囲が見えなくなっちゃうのが心配かな? そこもまた可愛いんだけど、私との婚約破棄を願うような言動を聞かされた時は結構頭にきたんだよ? あぁ、ほら、パスポーンばかりに気を取られていると大駒が危うくなっちゃうかもよ?」


 話の途中でカツンッという渇いた音が響き、置かれた黒いナイトの行く手に佇む自軍の白いクイーンを見てミランダは眉を寄せる。

 慌ててクイーンを引っ込めると、レイドリックはあっさりと攻める矛先を変えた。


「そういえば東方の将棋というチェスによく似た盤上遊戯では、盤面から追い出した敵の駒を自軍の駒として使えるらしいよ? ま、これは将棋じゃないから使えないけど、ほいほい主を変えるなんて現実世界の戦争だったら、その兵の忠実さを疑ってしまうよね」


 そう言って黒のクイーンの先にいた白のナイトを指で摘み上げて退場させると、レイドリックが不敵に笑う。


「ミランダにも忠実なナイトがいたよね? でも、知ってた? ウーゼルって20歳も年上の人妻にずっと叶わぬ恋をしていたんだよ」

「う、嘘!? あのウーゼルが不倫!?」


 突然、弟の秘密が暴露され、ミランダは動揺した拍子に再び白のクイーンを黒いナイトの移動可能位置へ置いてしまうという悪手を打ってしまう。そこをすかさずレイドリックに付け入れられ、敢え無くクイーンを奪取されると有利だった盤面が塗り替えられてゆく。白のポーンがあらかた無くなるとレイドリックは一息吐いた。


「だから不倫じゃなくて片思い。ちなみに相手は王妃である私の母親ね。その母なんだけど無能王子が公爵令嬢へ勝手に婚約破棄したせいで王妃の位を追われて国王と離縁することになったんだ。息子の監督不行き届きだってさ。傍から見たら可哀想な王妃だけど、母上はずっと政略の道具として望まない王妃の役割を果たしてきたから、この辺りで自分の幸せのために生きるのも悪くないよね。今頃はきっと優秀なナイトがクイーンを掻っ攫った頃合いかな? 彼にお願いしていた聖女の監視の任は解いたし、立場と年齢が離れているから遠慮してただけで実は両思いだったし。

 ねぇ? ミランダ、ナイトは見事にビショップを監禁エンドに持ち込んでクイーンを得たと思わない? 全ては私の計算通りだけど、これも真実の愛がなせる業だよね」

「ウーゼルがナイト……王妃殿下がクイーンで、聖女はビショップ? ナイトは聖女を監視していた? 聖女は……まさか……!?」


 レイドリックの話から弟のウーゼルが王子と繋がっていたことに気がついて、ミランダは愕然とする。そんなミランダにレイドリックはにこにこと微笑む。


「あぁ、ウーゼルを責めちゃダメだよ。だってミランダが白いナイトと思い込んでただけで、元々彼は黒のナイトだったんだから。それから、ミランダの夢、ヒッキーっていうんだっけ? ウーゼルから聞いた時はなんて素晴らしい夢なんだって思ったよ。そのためにここを造って、婚約破棄までしたんだ。これから二人で仲良く引き籠ろうね」

「へ?」(ヒッキーはダメ人間の部類だと前世で親に口煩く言われてましたけど? てか王子が引き籠っちゃ拙いでしょうが? そもそもライラに夢中のレイドリック様が何で私と引き籠ろうとしてるわけ?)


 最早、頭の中が大混乱をきたすミランダは、呆然と盤面のチェスを眺めた。

 仮令、王子と繋がっていても自分の希望を叶えてくれたウーゼルを憎む気持ちにはなれなかったが、何だか少し悔しい気がして自軍の白いビショップの駒で黒のナイトを捉える。するとレイドリックの瞳が怪しく煌めいた。


「王子って結構多忙だから嫌だなって思ってたんだ。ましてや国王になんてなったら最悪の一言に尽きるってね。聖女なんて持て囃されていたからミランダは働くことが好きなのかと思っていたけど私と同じ気持ちで良かったよ。それにしても卒業パーティーのミランダも美しかったな。他の男に見せたくないから早々に帰ってもらったけれど、幾ら弟とはいえ他の男の腕に触れる君を見るのは苦痛だった。だからもう私以外を見てはダメだよ」


 優しく語りながらも瞳が笑っていないレイドリックだったが、ミランダはその表情には気づかずに、王子の言葉と己の思考が全く嚙み合わないことに思わず本音が漏れる。


「あ、あの、殿下はライラ様と結婚なさるのでは? 私は確かに昨晩真実の愛とやらを理由に婚約破棄をされましたよね? ここへ来たのは私を断罪するためなのでは?」


 余計なことまで聞いてしまったミランダがしまったと口元を押さえたが、レイドリックはキョトンとした顔になると黒い笑顔を見せた。


「ライラ? ああ、彼女とは取引をしたんだ。私も彼女もどうしても欲しいものがあったからね。確かに表向きはライラを王子妃に据えるけど、真実の愛が私とライラだなんて一言も言った覚えはないよね? ミランダはそろそろ私の愛に気付いてくれてもいいんじゃないかな?」


 レイドリックがゆっくりとルークへ手を伸ばす。黒のルークはポーンが無くなり空いた盤面を真っすぐに白のビショップへ向けて移動を開始した。ミランダは慌てて防衛策をとり、辛くも逃げるが黒のルークは執拗に白のビショップを追いかける。

 この時ミランダは混乱する頭の中でビショップの逃げ場だけを模索していた。

 追い詰められてあたふたするミランダにレイドリックが愉快そうに笑う。推しの笑みにミランダの心臓が高鳴るが、勝負は勝負。負けたくはない。

 最後の手段として守備の要にとっておいた自軍のもう片方のルークを動かし反撃しようとしたところで、ミランダは目を瞠る。

 レイドリックが一度も自軍のクイーンサイドのルークとキングを動かしていないことに気が付いたのだ。


「まさか……」

「キャスリングをいつ行うかは指し手次第だからね。じっと待った甲斐があったよ。私はね、ミランダと共に過ごせるなら王子としての名声も誉れもいらないんだ」


 ニヤリと笑ったレイドリックが黒のキングとルークを動かす。


「王子ならば当然熟さなければならない鬱陶しい公務も煩わしい社交も全て放って、ミランダと怠惰で濃密な時が過ごせるように画策したんだ。これからはずっと一緒だよ? 一生私とここで過ごそうね」

「ちょ、ちょっと何を仰っているのか解らないのですが……? 何故、私と婚約破棄した殿下が、私と一緒に過ごすのです?」

「だってミランダは王子妃になんてなりたくなかったんでしょう? だから私の愛妾としてここで囲うことにしたんだ。言っておくけど絶対に逃がさないよ? だってビショップは何手かけても、決まった色のマスにしか動けないんだから、縦横無尽に動けるルークからは逃げられない運命なんだ」


 そのレイドリックの言葉通りに、黒いルークの遥か先にはミランダの白いビショップが逃げ場を塞がれた状態で立ち尽くしていた。

 ミランダといえば俄かには任じられないレイドリックの言葉と、ビショップのピンチに呆けた頭で、じっと盤面を凝視する。ふと、彼女の瞳に唯一の逃げ場が飛び込んできて、すぐさまそこへビショップを動かした。

 するとミランダの刺した手を見たレイドリックは、あれほどビショップを追い回していたルークではなく、放置していたポーンへ手を伸ばし苦笑する。


「この子のこと、忘れてない?」


 ポーンを摘み上げたレイドリックにミランダは思わず「あ!」と声を挙げた。


「この子はプロモーションでクイーンにさせる。東洋の将棋で言うところの成金だね」


 ひとマスしか進めず、斜め前の駒しか取れないポーンは弱い。だが相手の陣地の最奥に達した場合、好きな駒に成り代わることができた。

 そしてレイドリックの長い指に摘み上げられたポーンは、今まさにミランダの陣地の最奥へ到達しようとしている。それはまるで下位貴族の令嬢が王子に見初められて妃になる乙女ゲームのサクセスストーリーに似ているとミランダは思い、ヒロインであるライラの顔がチラついた。

 そんなミランダの考えが解ったのか、レイドリックは可笑しそうに口角をあげると彼女の琥珀色の瞳を覗き込む。


「ライラにはね、双子のレイラっていう我儘な姉がいたんだけど、彼女は壊滅的に頭が悪くて学園の試験で不正を繰り返していたそうだ。しかも妹のライラを怪しげな薬と催眠術で自分の身代わりにしてね。

 当然そんな不正がいつまでも隠せるはずはなく、ある日替え玉がバレた姉は遠い他国の親戚に引き取られて行った。一方、知らぬ間に不正の片棒を担がされ夢だった王宮官吏への道が閉ざされたと自暴自棄になっていたライラを待っていたのは、最高学府への編入案内だった。貴族の子女が他国の貴族の養女となる申請書を目にした国王が事件の真相を聞き及び、不正の是非はともかくずば抜けて成績の良かったライラを推挙してくれたんだって。それを知ったライラは自分を救済してくれた尊敬する国王の許で仕事をしたいと切望したんだけど、如何せん下位貴族の、しかも不正という瑕疵が付いた令嬢では国の要職には就けないだろう? だから王子妃になってもらうことにしたんだ。王妃が不在で、王子は無能で愛妾と引き籠り、それなら自然と国王と王子妃の距離は近くなるからね。だってまともに公務を熟す王族が二人しかいないんだから」


 悪戯が成功した時の子供のように笑うレイドリックにミランダは開いた口が塞がらない。


「ナイトはクイーンを封じ込めた。ルークはビショップを逃がさない。そしてポーンはプロモーションでジョブチェンジして……」


 レイドリックはそう言うとポーンからプロモーションしたばかりの真新しい黒のクイーンを配置する。新しくクイーンになったポーンの行く手には守備兵を失った白いキングがひっそりと佇んでいた。


「はい、チェックメイト。序盤はミランダが優勢だったのに逆転だね。それに、さっきのキャスリングに焦って、最初からビショップを狙っていたルークの存在も忘れちゃった?」


 そう言われてミランダは盤面を注視する。

 キャスリングしたルークから逃げられたと思ったビショップのマスをよく見れば、執拗に追ってきていた方のルークの射程範囲内だった。

 計算ずくされた盤面に、無能王子の皮を被ったレイドリックの本性を垣間見た気がしてミランダが戦慄する。


「君の負けだね。さぁこれから私との蜜月を堪能しよう。私が最推しだったのだろう? ミランダの想い人が私で良かった。無駄な血を流すのは本意ではないからね。

 衆人環視の前で婚約破棄なんてしたから私の評判は地に落ちたし、学園での成績だって芳しくなかったから王位継承権は剥奪されるだろうけど、王家の血筋だけは残しておかないといけないからね。君と私の子供なら、とびきり可愛い子が生まれるよ。ふふ、楽しみだな。

 これから二人だけの時間がたっぷりあるから盤上遊戯もまたやろうね。今回のチェスではたまたま私が勝てたけれど、別の遊戯ではわからないしね。なにせ私は病弱な無能王子だそうだから」


 クククと嗤ったレイドリックの黒い笑顔にミランダは引き攣った。

 ゲームではヒロインに一途過ぎる体はあるが、真っ直ぐな気性の爽やか系イケメンだったはずである。それが一体いつの間に腹黒化したのだろうと頭を抱える。

 実際、レイドリックがミランダに執着しだしたのは、前世を思い出した彼女が避け始めたせいだったのだが、まさか自分が原因だとは思ってもみなかった。


「絶対、勝てる気がしないわ……何でこうなったのかしら?」(無能も病弱も婚約破棄さえ引き籠るためのお芝居だったなんて。それにしても、乙女ゲーム的には監禁ってバッドエンドなんじゃない? でも最推しと一緒ならハッピーエンドなのかな? え? これどっち? 私は素直に喜んでいいの?)


 微妙な顔つきになったミランダの手をレイドリックが握りしめて囁く。


「ミランダの希望を全て叶えてあげたのに、まだ不満?」


 耳元で聞こえた推しのウイスパーボイスにミランダが前世で諦めた夢が蘇った。

 ゲームでどうしても叶わなかった最推しカップルが、転生先の世界で結ばれようとしている。しかも自分が推しの一人になって、だ。これを奇跡と呼ばずに何と呼ぶ。

 だがレイドリックの言うとおり一ファンとしては不満がないわけではない。だからミランダはレイドリックのご尊顔を拝謁しながら、素直に心情を吐露した。


「不満? そうですね……最推しの王子様に手を取られた、これまた推しの悪役令嬢のスチルを自分の目で見られないことだけが残念です。この離宮って大きな鏡がないんですもの」


 執愛する元婚約者の言葉にパチクリと瞬いた最推しの王子は、やがて前世で衝動買いしたパッケージに描かれた顔と同様に極上の笑みを浮かべると、悪役令嬢を引き寄せ青銀色の髪へキスを落としたのだった。


 

 婚約破棄騒動後、公の場で王子の姿を見た者はおらず、数十年後に国王となった青銀色の髪の王太子の傍らには寄り添うように微笑み合う前国王と王子妃の姿があった。


王子とライラの設定が気に入っていたので短編で書こうと思っていたら、『婚約破棄は~』の方の感想で見事に二人の関係性を言い当てた方がいて吃驚した経緯があります。なろう読者の妄想力パネェ……って、ちょっとビビりました。

あれから数ヶ月、何でこんなに遅筆(&飽きっぽい)なのか……と呆れますが、何とか書き終えることができて良かったです。

ご高覧くださり、ありがとうございました。

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