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「……フェンリル?」
ニトが首を傾げ、疑問のように言葉を発する。
それに答えたのは呟いた冒険者ではなく、魔族の男性。
「ふふふふふ。もちろん、本物のフェンリルですよ。私にかかれば、神獣と呼ばれる存在であろうとも、このように躾けることができるのです。魔物は所詮魔物ということですよ」
魔族の男性が勝ち誇った笑みを浮かべる。
それも当然だった。
何しろ、フェンリルは魔族の男性が言ったように神獣と呼称されるほどに強い魔物の代表格。
並だけではなく、歴戦であろうとも、それこそ英雄であろうとも、その牙が命を砕き、その爪は魂を裂いてもおかしくない。
フェンリルとは、それほどの存在である。
言ってしまえば、そこらの魔物とは格そのものが段違いなのだ。
場所が場所でなら、崇め奉られてもおかしくない。
「……躾け、ね。たとえば、その似合わない首輪がその証なのか?」
「その通り。所有物であるという証です」
横に並んだフェンリルの首輪を、ぽんぽんと触れる魔族の男性。
フェンリルは唸るが、それだけ。
いや、より殺意の密度が増した。
冒険者たちと使者が息を呑む。
その心中にあるのは絶望だった。
元より強さはもちろんのこと、たとえこの場から逃亡できたとしても、逃げ切ることはできないのが確定しているからだ。
逃げ足の速度はもちろんのこと、フェンリルの嗅覚から逃げ切ることはできないだろう。
ただ、そんな絶望の中にも、本当に一粒の希望は残っていた。
冒険者たちと使者の視線がニトに向けられる。
周囲の魔物たちを瞬きの間に倒してしまったニトなら、もしやフェンリルにも対抗できるのではないか? と。
視線を向けられているニトは、フェンリルが現れても平然としていた。
この場の空気が殺意で重くなろうとも一切気にしておらず、ジッとフェンリルを見ている。
(……殺気は殺気だが、こちらに向けられていない。意識も。寧ろ……)
ニトがそう感じているのは正しかった。
フェンリルの殺意と意識が向けられているのは、魔族の男性に、である。
魔族の男性は躾けたと言うが、殺意を向けられている状態を躾けたとは言わないだろう。
また、殺意を向けていて、それを実行できる力も有しているのに、それを行わないということは、そこに何かしらの理由があるのは明白。
フェンリルの状態を見れば、そこから導き出されることはそう難しくない。
「……強制的に従属させている訳か」
ニトの呟きに、魔族の男性の口角が上がる。
「ふふふふふ。その通りですよ。魔物版『隷属の首輪』に、私の能力『魔物使役』で完璧に操っているのです」
……完璧ね、とニトは内心で呟く。
フェンリルの殺意というか意識は魔族の男性に向けられている。
それのどこが完璧なのかと、問いたいくらいだった。
寧ろ、不完全。
それに、二つで縛っているということは、一つでは縛れないということ。
つまり、首輪か、能力か、どちらかでも欠けてしまえば……言うまでもないだろう。
「それにしても、随分と調子よく喋るんだな」
「ふふふふふ。自ら話さないと、私という存在の偉大さがわからないと思いましてね」
「……まっ、偉大とはまったく思わないが、要は自分の能力はこれだけすごいのだと自慢したいだけだろ?」
「どう取ってもらっても結構。どうせ死ぬのですから。さあ、あの男を噛み殺しなさい」
魔族の男性の命令に従って、フェンリルがニトに襲いかかる。
その速度は先ほどのニトと遜色ないレベルであり、冒険者たちと使者はまったく反応できていない。
声を上げる間すらなかった。
反応できていないのは魔族の男性も同じだろうが、脳裏に映るヴィジョンは明確。
フェンリルによって、ニトが噛み砕かれている姿である。
実際フェンリルが口を開くと、人一人の頭部だけでなく上半身すら含んで噛み砕けそうなほどに大きく、そのままその巨躯故に上から丸呑みしようとして――。
「さすがに殺意どころか敵意に意識すら向けられていない動物を殺すのはな」
ニトがフェンリルの鼻先を押さえると、まるで砕けない壁でもあるかのように、フェンリルはそこから先に進めなくなる。
必死に押そうとするが、ニトと押さえている手は微動だにしない。
フェンリルが押す力と同等に張り合っていた。
逃れようと暴れるが、ニトはフェンリルの動きを読んでいるかのように完全に押さえ込んでいる。
何事が! と冒険者たちと使者は思う。
馬鹿な! と魔族の男性は思う。
そう思っている間にニトはフェンリルを押さえている手は位置もそのままに、体ごと動いて空いている方の手でフェンリルの首輪を掴む。
この時ばかりは、魔族の男性もニトが何をしようとしているのかを理解した。
「や、やめなさい。その首輪を不当に少しでも外そうとすれば、瞬時に締まって圧迫し、窒息死させることになりますよ。それはあなたの手で殺すことと同義です」
魔族の男性の言葉に、ニトは、何言ってんだ、こいつ……と思った。
言ってしまえば、それは口を滑らせたようなモノ。
何しろ、弱点を自ら作り出して、それを口に出してしまったのだ。
本来なら一般知識、この世界の常識として、どうしようもない強さ――それこそ国を動かさなければならないレベル帯の強さを持つとされているフェンリルに対して、少しでもいじってしまえば窒息死してしまうような弱点を作り出している。
それを自ら教えてしまったのだ。
いや、普通はそれでも問題ない。
フェンリルの強靭な肉体によって発揮されるスピードは、ニトに襲いかかった時のように普通は知覚すら難しい神速レベル。
触れもしなければ、それは弱点にはなりえない……はずだった。
しかし、触れることができるのであれば、それはまさしく弱点。
フェンリルの速度であれば、そのような存在はそこらに居る訳がないため、元々の強さも相まって、切り札と呼べる存在なのは間違いないが、今回は居たのだ。
それも、片手でフェンリルを押さえられるだけのレベルの者が。
それで、魔族の男性は動揺したのだ。
あり得ないことに直面して、心が大きく乱れたのである。
だから、首輪のことを口走ってしまった。
殺そうとした相手に、それをしてしまうと死んでしまうから殺さないで、と言ってしまったようなモノ。
といっても、何を言われようがニトは取ろうとした行動をやめない。
フェンリルの首輪に触れ――。
「瞬時に締まるらしいが、それよりも速く外せばいいだけ、だ」
めきり、と歪な音を立てて首輪の一部をそのまま握り潰して砕き折り、そのままフェンリルから引き外す。
といっても、実のところは引き外す必要は既になかった。
幸か不幸か、運がいいのか悪いのか、ニトの握り潰した部分が隷属の首輪にとって重要な部分であり、そこが握り潰された時点で機能停止していたのだ。
もちろん、そのことをニトは知らないし、この場に居る誰も気付いていない。
事実として、フェンリルが隷属の首輪から解放されたという出来事の方が目に付いて、大きく意識するからだ。
「……ば、馬鹿なっ!」
驚愕の声を漏らし、表情も同じように驚きに満ちている魔族の男性。
ニトがぽいっと引き外した隷属の首輪をそこらに捨てると、のそり……とフェンリルがゆっくりと動いて魔族の男性の方を向く。
フェンリルの表情は先ほどまでよりも如実に物語っていた。
殺意と怒りを。
「くっ。大人しくしなさい! 『魔物使役』!」
魔族の男性が手のひらをフェンリルに向けると、波動のようなモノが照射されてフェンリルの身を襲う……が、まったく意に介していない。
寧ろ、煩わしさを与えられてより怒りを買ったようなモノだった。
鋭い歯を剥き出し、先ほどニトに襲いかかった時以上の速度をもって、フェンリルは魔族の男性に襲いかかる。
当然、反応できる速度ではない……ニト以外は。
フェンリルが魔族の男性に襲いかかった瞬間に、ニトがフェンリルの尻尾を掴んでとめる。
魔族の男性の目の前で、ガチン! と音を立ててフェンリルの口が閉ざされた。
己の命が容易に噛み砕かれていたかもしれない現実を否応なしに理解し、恐怖で魔族の男性はその場にへたり込む。
フェンリルとしては、そのまま前足で薙いで魔族の男性の命を刈り取ってもよかった。
けれど、その前に言いたいことがあると、フェンリルはニトに視線を向ける。
「……何故邪魔をする、小童」
「喋れるのか。なら、意思疎通は問題ないな。俺をどう呼ぼうが勝手だが、まだそれを殺してもらっては困る」
「これを助けるというのか?」
なら敵だと、フェンリルがニトを睨む。
ニトはフェンリルの尻尾を掴んだまま、やれやれと息を吐く。
「ちゃんと俺の言葉を聞いていたか? まだ、と言ったんだ。そいつには聞きたいことがあるから、そのあとなら好きにしてくれて構わない」
「聞きたいことだと? こんな小物にか?」
「小物なのは知っている。だから、差し当たってはもっと知っているヤツ……こいつの上に居る魔族の場所を教えてもらうつもりだ」
「………………」
フェンリルがニトをジッと見る。
その目に殺意や怒りはない。
ただ、値踏みをしているような、真意を推し量るような、そんな目でニトを見ている。
「……なら、これから教えてもらう必要はない」
「あんたが知っているって言いたいのか?」
「どこに潜んでいるのかを知っているよ。私もそこに用があるからね。なんだったら、小童を連れて行ってやってもいい」
フェンリルの狙いを、ニトは理解していた。
襲撃を完全に封じ込め、尻尾を掴んで動きをとめたのである。
もちろん、フェンリルも本気ではなかったし、それはニトも同様。
要は、ニトであれば、何かしらの手助けになるのではないか? とフェンリルは考えたのだ。
また、ニトからしても、そこに用があると言うフェンリルの言葉には真実味を感じていた。
何かしらの目的があるのは間違いない。
目に見えてわかっている殺意と怒りから、復讐か……それとは別の何かが。
少しだけ考えた素振りを見せたあと、ニトは口を開く。
「それは、この国の王都……と言っても通じないか」
「言いたいことはわかるさ。要はこの辺りの人間共が居る場所の中で、一番大きく、一番多く集まっているところだろう? 私の目的地もそこだよ」
この辺りがどの辺りまでを指し示しているかはわからないが、フェンリルという存在の行動範囲をおおよそで考えた場合、言っている場所が王都だろうとニトは思う。
「……いいだろう。なら、連れて行ってもらおうじゃないか。ただし、もしそれが嘘であれば、それ相応の報いは受けてもらう」
「ふんっ! 生意気な小童だね。たかが人間如きに嘘を吐く理由はないよ」
はいはい。言うことは言ったし、あとは好きにすればいい、とニトは尻尾から手を放す。
それは合図。
魔族の男性の命が終わることを告げていた。
「本当ならじっくりと死を実感するように殺してやりたいが、今は時間が惜しいからね。さっさと死にな」
フェンリルが前足を薙ぐ。
なんの障害も抵抗もなく、魔族の男性の上半身は下半身と引き離され、そこらに転がっている魔物たちの死体の中に紛れこむように転がっていった。
「薙ぐついでに爪で心臓を突き刺していたようだけど……あれで死んだのか?」
「見えていたようだね。魔族といえど、心臓をやられれば死ぬよ」
「そっか………………」
「何か言いたそうだね?」
「いや、さっきは噛み殺そうとしていたから、なんでやめたのかと」
「……小童が私の勢いをとめたことで少し冷静になっただけさ。上から噛み殺すと、あの角が喉に刺さりそうだってね」
「……ああ、なるほど。それは気にするべきところだな」
うんうん、と頷いて同意を示すニト。
「されじゃ、時間も惜しいし、さっさと行くよ。連れて行ってやるから乗りな」
フェンリルが地面に伏せて、ニトに背に乗るように促してくる。
ニトとしては自力でも十分付いていけると思っているし、実際に付いていくことはできるのだが、乗せてもらえるならと乗ることにした。
それに、既にこの場の脅威はすべて排除されているので、冒険者たちと使者は放っておいても大丈夫だろうと判断したのだ。
ここから先の行動まで面倒を見るつもりはない。
「……あ、あの」
そこに冒険者たちの一人が声をかけようとする。
できればこの場に残って欲しいとか、状況やその他諸々の説明をお願いしたいとか、本当に色々と聞きたいことがあるのだろう。
けれど、フェンリルが急かしているのも目に見えてわかっているため、どうしたものかと思わず声が漏れたのだ。
そんな冒険者たちと使者に向けて、フェンリルの背に乗ったニトが視線を向ける。
「とりあえず、ここに来るまでの進路上の魔物はぜんぶ倒したし、魔族が死んだことでリーンの魔物大氾濫の方も何かしらの変化が起こっていると思う。まっ、元々どうにかなっていたと思うけど。大まかな魔物もここで死んでいるし、進むも戻るもあんたたちの好きにすればいい。ここでの出来事は……あんたのことは伝えていいのか?」
ニトがフェンリルにどうする? と尋ねると、フェンリルは鼻を鳴らす。
「ふん。好きにすればいいさ」
「だ、そうだ。じゃ!」
ニトが軽く手を上げると同時にフェンリルが一気に駆け出し、冒険者たちと使者の視界から瞬く間にその姿を消した。