5
空から飛来してきたのは、ニトだった。
ニトは魔族の男性に視線を向ける。
「黒い角……確か、魔族の特徴、で合っているか? つまり、お前は魔族か?」
「おや? もしや魔族を見るのは初めてですか?」
「ああ、そうだ。漸く会えたというところだが……」
ニトは観察するように魔族の男性を見る。
直ぐに結論を出した。
「駄目だな。小物レベルとしか思えない。大した情報は持ってなさそうだ。漸く魔族と会えたと思えば……これか」
やれやれ……と息を吐くニト
「まっ、こういうのにも運は絡んでくるだろうし、仕方ない。引きが悪かったと諦めるか」
ニトの態度は、非常にがっかりだ、と如実に語っていた。
魔族の男性がひきつく笑みを浮かべるが、直ぐに気を取り直して余裕のある態度に戻った。
「私を前にして、面白いことを言いますね」
「いや、私を前にしてとか言われても、誰だよとしか思えないな。あっ、魔族ってことはわかっているから、その答えはなしな」
「ふ、ふふふ……」
魔族の男性は笑ってはいるが、怒りを我慢しているのは誰の目から見ても明らかであった。
ただ、次の瞬間にはその怒りは消え、笑みを浮かべてニトに尋ねる。
「それで、何人ですか?」
「……は? 何がだ?」
「これだけの数を前にしてそのような無礼な態度なのですから、さぞかし大人数でも連れてきているのでしょう? でなければ、そのような態度を取れるわけがありません。さしずめ、あなたは先行し、時間稼ぎが役目、といったところですか?」
魔族の男性の言葉に希望を抱いたのは、冒険者たちと使者。
救援を求めに行って救援されるというのは皮肉な話かもしれないが、それでも現状の打破には繋がる。
リーン救済への希望が、心の中に芽生える。
しかし、それは直ぐに砕かれた。
「は? 何を言っているのかわからん。そもそも、ここには俺一人で来たしな」
……は? と冒険者たちと使者は呆気に取られ、ニトの言葉の意味を理解すると、そうそう上手くはいかないかと、悔しそうな表情を浮かべる。
そんな様子を見て、魔族の男性は喜色満面の笑みを浮かべた。
「そ、そう! その顔です! いいですよ! さあ、もっともっと絶望してください! そのためにわざわざここまで舞台を整えたのですから! さあ! さあさあさあ!」
「……お前、なんか気持ち悪いな」
至って真面目な顔でそう言うニトに対して、魔族の男性は額に青筋を立てるという返しを行う。
何故なら、魔族の男性にとって、現状は自分が有利というか絶対であり、人は獲物――自分の趣味として楽しむためだけの存在でしかない。
言ってしまえば、魔族の男性にとって人は取るに足らない存在。
格下である。
そう思っている、あるいは認識している存在から、自分にとって無礼な言葉をかけられ……ニトの態度から、自分が格下であると見られている。
それが、魔族の男性として許せないことだった。
許容できない。
「先ほどから生意気な口をききますね。これだから状況の見えていない者を相手にするのはイヤなのです」
「いや、状況は見えているから」
「どこが、ですか? あの町に、あなたたちでいうところの冒険者の中で、Bランクはそれなりに居るようですが、Aランク以上の者は居ない。最初の襲撃ならまだしも、ここに居る魔物たちの質と数に勝てる者は存在しません」
それは、ニトよりも冒険者たちの方がよく理解していた。
魔族の男性が言った通り、リーンにAランクの冒険者は居ない。
元という意味ではギルドマスターがそうだが、現状では居ないという意味だ。
そのクラスとなれば当然数も少なく、依頼の途中でというならまだしも、常時滞在するとしたら最低でも都市クラスでなければ難しいだろう。
そのことを理解しているからこそ、冒険者たちの心の中は暗くなる。
Bランクでも強者は強者だが、それでも、ここに居る魔物たちが一斉に襲いかかれば、結末は決まっていることが、体験しなくてもわかるからだ。
使者は、そんな冒険者たちの様子を見て、絶望しかないことを悟る。
ただ、ニトは別のことを気にかけていた。
「そういうことは調べないとわからないことだ。つまり、町について調べた、と?」
「当然です。相手を知れば、より絶望させることができる手段がわかりますから」
「ふーん……魔族全体がどうかは知らないが、とりあえず、お前はそういうタイプってことか」
「……知ったようなことを言いますね」
「知ったようなも何も、そのままだろ。自分の手は汚そうとせず、他の者にやらせて高みの見物。所謂『雑魚』ってことだ……いや、『かませ犬』? 『やられ役』? それとも『モブ』?」
どれが適切だろうかと、ニトは悩み始める。
直ぐに答えが出なかったため、ニトは気付かなかった。
魔族の男性の口角が歪み、引き攣っているのを。
確実に魔族の男性は怒り――いや、既に憤怒しているであろうことは、誰の目から見ても明らかだった。
だからこそ、冒険者たちと使者は気が気ではなく、何故わざわざ怒らせるようなことを、とニトを見る。
ニトは未だ考え中であったため、視線が集まっていることに気付いていない。
「い、いいでしょう。そんなに死にたいのならあなたから殺してあげます。あなたの死に間際の顔で、怒りを鎮めさせてもらいましょう。あれを殺しなさい」
パチン、と魔族の男性が指を鳴らす。
軽い音一つで、周囲を固める魔物たちの中から、一体の魔物が前に出てくる。
それは人の数倍は大きな体躯に黒ずんだ鎧を身に纏い、左手には分厚い盾、右手には人を容易く両断できそうな牛刀のような大剣を持つ、豚頭の魔物――オークキングであった。
「フシュウゥ……」
大気が汚れそうな息を吐き、オークキングがニトに向けて大剣を振り上げる。
危機を察して、冒険者たちは使者を抱えて飛び出すように場を離れた。
といっても、周囲は魔物たちに囲まれているので、そこまで離れられた訳ではない。
それでも逃げずにはいられなかった。
何しろ、オークキングからは濃密な殺気が漏れ出ていて、その殺気が大剣にも纏わりついているように感じられたからだ。
理性で判断しただけではなく、本能が訴えた行動を冒険者たちは取った。
けれど、ニトは一切そういう行動を起こしていない。
その場でそのまま考え続けている。
そこに、オークキングの大剣は振り下ろされ――ニトはなんでもないように片手で受けとめた。
受けとめた手は少しも切れておらず、オークキングがそのまま押し切ろうと力を込めるが微動だにしない。
「……う~ん。妥当な言葉が思い浮かばないな。より強いを表現するよりも、より弱いを表現する方が難しいかもしれないな。まっ、別にいいか。これから倒すモブに手向けの言葉は必要ないだろ」
そう結論付けたニトは、受けとめた大剣を掴み、引き寄せる。
それが自然な動きであったために反応できなかった訳ではない。
あまりにも速過ぎて反応できず、オークキングは大剣から手を離せず、つんのめるように前へ数歩踏み出し、頭を突き出すような前傾姿勢でニトの前に。
そこに、ニトの拳がオークキングの頭部に向けて放たれる。
特に力を入れた様子は見えない。
ただ、ニトの放った拳はそのまま振り抜かれ、オークキングの頭部だけが吹っ飛び、周囲の魔物たちのところまで重い音を発しながら転がっていく。
ニトが掴んでいた大剣を離せば、頭部を失ったオークキングの体は支えを失ったかのように倒れ、少しばかりの土煙を巻き起こし、頭部を失った首からはドクドクと血が流れ出て、大地を赤く染めていく。
「………………」
突然の出来事によって、場に沈黙と静寂が訪れる。
冒険者たちと使者は目の前の出来事が信じられず、魔族の男性は理解ができずに。
けれど、それは悪手。
特に、周囲の魔物たちを魔族の男性が従えているというのなら、即座にニトを殺れと命令を出すべきだったのだ。
それで殺れるかどうかは別だが。
そんな僅かな隙を突くように、けれど、ニトからすれば呼吸をするといった当たり前、自然なことのように行動を起こす。
冒険者たちと使者、それと魔族の男性からすれば、ニトの姿が消えたように見えた。
それほどの速度をもってニトは動き、オークキングを屠った時同様、一撃の下に周囲を取り囲んでいる魔物たちの命を殴殺していく。
本当に、僅かな間。
瞬きを数度行うくらいの時間。
たったそれだけの時間で、ニトは元居た場所――オークキングの傍に戻り、周囲を取り囲んでいた魔物たちは頭部が吹き飛んでいたり、胸部に大きな穴が空いていたりと、それぞれ状態は違うが、どれもが絶命していることだけは同じだった。
理解する前に理解できないことが起こり、まさしく放心する魔族の男性。
そんな魔族の男性に、ニトは声をかける。
「……ああ、そういえば、俺の死に際の顔が見たいんだったな。だが……これは困った。見せようにも、周りがこんな状態では難しいな。なんだったら、お前が自分の力でやってみたらどうだ? まあ、できるかどうかは別だけど」
どうせお前にはできないだろ? と、魔族の男性を見るニトの目はそう物語っていた。
放心状態から少しずつ戻っていた魔族の男性は、ニトから向けられている視線の意味に気付くと湯沸し器のように怒りが沸き上がり、激昂する。
「貴様っ! 下等な人族の分際で、私に勝ったつもりかっ!」
「下等って。この状況でそんな言葉が出てくること自体、お前が大したことないって証明だろ。というか、この状況、見えてる? わかってる?」
「……わかっているとも」
大きく深呼吸をして、落ち着きを取り戻す魔族の男性。
先ほどと同じく、余裕の態度をニトに見せる。
「いくらでも補充ができる魔物を倒しただけで、調子に乗せてしまったようだ」
「……ああ、そっち。見事なまでの勘違いだな」
いや、俺の動きについてこれていなかったことの方が重要だろ、と思うニト。
といっても、それを訂正する気はニトにはなかった。
どうせ、何を言っても認識しないというか認めないだろうから、無駄な労力だな、と。
ニトがそう思っている間に、魔族の男性が動く。
「勘違い? まあ、確かに、勘違いをしているな。これらが、私の手駒のすべてだと思っていたのか? 切り札は、取っておくモノだ」
パチン、と指を鳴らす魔族の男性。
決して大きな音ではなかったが、その音が鳴り終わると同時に周囲の空気が一変する。
濃密な気配が場を満たし、並の者では呼吸すら満足に行えないほどに重くなった。
一番影響を受けたのは、使者である。
何しろ冒険者たちとは違って普通なのだ。
呼吸が満足に行えなくなるが、そこは冒険者の一人がどうにかとりなして落ち着きを取り戻す。
だが、その落ち着きも長くは続かない。
――それが、現れたからだ。
使者だけではなく、冒険者たちですら息を呑む。
何しろ、それはそれだけの存在感を、恐怖を、殺意を振りまいていたからだ。
それは、白銀のような純白の毛並みをたなびかせ、人の何倍も大きな体躯を持つ――巨狼だった。
その目は怒りと殺意に染め上げられ、その身に似つかわしくない首輪が嵌められている。
「……フェ、フェンリル」
巨狼の姿を見て、冒険者の一人がそう呟いた。