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ニトが異世界「ヴェルドゥス」に転移してから、数カ月が経っていた。
その間、ニトは特に行動を起こしてはいない。
というのも、女神から与えられた情報に齟齬がないかを確認していたのだ。
与えられた情報が実は違う、なんて事はよくある事。
自ら確認してこそ、その正当性は証明される。
そんなニトが異世界転移してからの行動は、まず女神の計らいで、とある町の近くにその姿を現したところから始まった。
町の名は「リーン」。
領内に地下五十階まであるダンジョンを抱える、世界一の強国だとも言われている「オーラクラレンツ王国」にある町。
比較的平和であり、魔物の脅威に晒される方が稀だろう。
そこでニトは最早定型文である「田舎から出てきた」と告げてリーンに入り、行動の自由性を求めて、冒険者となった。
といっても、冒険者としての活動は、この数カ月ほぼ行っていない。
本来なら生きていく上で、生活を続ける上である程度の金が必要であり、冒険者の中でも下位、それこそ成り立ててであれば、日々追われるように活動していかないと、直ぐに生活が立ちいかなくなる。
それでもニトが特にそういった日々の活動を取らないのは、ある程度纏まった金を持っているからだ。
それこそ、無駄に消費し続けなければ、数年はのんびりと暮らせるだけの金を、ニトは女神から受け取っていた。
この世界を救うための支度金として。
それが少ないかどうかは個人の判断によるが、少なくとも、ニトは特に気にしていなかった。
いざとなれば、そこらの強い魔物でも狩れば、それである程度纏まった金が手に入るのも、冒険者の強みの一つだろう。
もちろん、それ相応の強さが必要になるのだが。
そして、ニトはこれまでに得た情報を照らし合わせ、齟齬があまりない、と結論付けた。
あまりというのは、やはり変動する部分は出てくるし、どうしても一つの出来事に対して、視点が変われば見え方も認識も変わってくる。
そういう部分であり、これ以上はもう必要ないと、ニトは判断したのだ。
あとは世界を救うために行動を開始する……だけなのだが、この数カ月で、ニトに深刻な問題が発生していた。
―――
リーンにある宿の一つ。「恵みの森亭」。
元冒険者の夫婦と数名の従業員によって営まれている、所謂安宿である。
といっても、安い値段なのは、元冒険者という事もあって、その経験から金のない新人冒険者でも利用できるようにするためだった。
また、元冒険者という肩書は宿の安全性にも貢献しており、新人女性冒険者でも利用できると、評判のいい宿として知られている。
二階建ての建物の一階の一部が食堂となっていて、お昼を少々過ぎた辺り。
食堂には数人しか残っておらず、その内の一人。
黒髪黒目。可もなく不可もなくといった顔立ちの、十代後半の男性。
恰好はフード付き黒革ジャケットに、中は白シャツ、下は黒パンツにブーツ。
武器の類いは一切身に付けていない。
それが、ニトだった。
ニトはお昼を済ませ、食器を片付けられてもその場に居座り、もう何度目かになるコップに注がれた水をチビチビと飲んでいる。
その様子は明らかに項垂れていた。
「はあ……」
ため息まで吐く始末だった。
そんなニトに、三十代の恰幅のいい女性が声をかける。
「こんな天気のいい日に、景気の悪い顔してため息なんて吐くもんじゃないよ」
「……ああ、女将か。そりゃ、ため息も吐きたくなるというモノだ。俺は重大な事に気付いてしまった」
「重大な事? なんだい?」
「……潤いが足りない」
ニトの口から漏れ出たその言葉は、本当に渇望しているような、そう思わせるだけの雰囲気があった。
女将は、何言ってんだ、こいつ? と呆れた視線を向ける。
それでも客は客、と会話に付き合う事にした。
丁度お昼の忙しい時間帯を過ぎて、少しばかり余裕があるというのもある。
「潤いって……なんだい。あんたも男だったんだね。大体部屋に居たから、そういうのに興味ないのかと思ったよ」
「そりゃあるさ」
「そうかい。なら、冒険者らしく、依頼でも受けてきたらどうだい?」
「依頼を? どうしてだ?」
「出会いがどこにあるかなんてわからない。なら、まずは行動するべきだと思うけどね。それに依頼をこなせば金も手に入る。いい事尽くめじゃないか」
「行動するべきという意見には同意するが、出会いなんてそこらに転がっているようなモノじゃない。それに、そもそも潤いが足りない影響で、行動するための活力も湧かない」
「だからといって、ここでこうしていても仕方ないと思うけどね」
「それはそうだが……そもそも、依頼というのがな。大した依頼がない」
「そんなのは成り立てなんだから当たり前。依頼達成という信頼を積み重ねていく事で次に、それこそ大きな依頼に繋がるんだよ」
「積み重ね、ね」
「そういや、ほとんど部屋に居たね。あんた、これまでにどれだけ依頼を受けたんだい?」
「薬草採取、迷い猫捜し……引っ越しの手伝い……あとあったか?」
ニトは指を折りながら数えるが、直ぐにとまる。
女将は呆れたように息を吐いた。
「普通この数カ月があれば、誰だって一ランクくらいは上がっているもんだけど」
そこで、店の奥から女将を呼ぶ声が届く。
確かに客足は落ち着いたが、それでも仕事がない訳ではないのだ。
「……まっ、宿代は前金でもらっているし、こちらとしてはここでこうしていても一向に構わないよ」
女将はそう結論付けて、店の奥へと引っ込んでいく。
引っ込んでいく女将を視線で見送ったあと、ニトはそのまま項垂れていたが、このままここに居ても仕方ないと腰を上げ、宿を出て、町中に出る。
―――
町中に出たからといって、ニトに目的地のようなモノは存在しない。
ただ、ぶらついているだけ。
言い換えれば、運命の出会いを求めて、といった思いだろうか。
ふとぶらついた時、視点が変わるからか、見慣れたところでも思いがけない発見をする。
ニトはそれを求めているのか、ぶらついているといっても周囲の確認はしていた。
それでも早々見つからないのが、運命の出会いである。
特にこれといった発見がなかったからか、ふと、ニトは先ほどの女将との会話を思い出し、ジャケットの内ポケットから、一枚のカードを取り出す。
カードの表面には、二か所が目立つように書かれている。
一つは、名前「ニト」。
もう一つは、「F」という単語。
名前は持ち主を示し、単語は冒険者ランクを示している。
冒険者ランクは上から「S・A・B・C・D・E・F」と表記され、「F」は当然一番下。
言ってしまえば冒険者成り立てを示すランクであり、女将の言葉通りなら、誰しもが数カ月で脱するランクである。
それでもニトはそんな「F」ランクであろうが気にしない。
そもそも、このカード――冒険者を取りまとめる組織である冒険者ギルドが発行しており、その規模は世界中である。
世界中、どこにでもあるからこそ、冒険者ギルドカードは、本人確認の証明として利用できていた。
ニトにとって、冒険者ギルドカードはそのためのカードであり、ランク上げ自体には興味がない。
なので、依頼を進んで受けていない。
やる気になった時にやるだけ。
冒険者ギルドカード自体には、他にも受諾した依頼の内容と成否率などの詳細を確認できる機能があるのだが、それは冒険者ギルドの関係者でなければ確認できないのでニトには関係ない話。
という訳ではないが――。
「やっぱいいや」
そもそも冒険者活動に精を出す気はなかったため、思い出しはしたが特に何も引っかからずに素通りして、ギルドカードをジャケットの内ポケットにしまって歩を進める。
そして、その行動が運命の分かれ道だった。
僅かでもやる気を出して冒険者ギルドに向かっていれば、ニトは出会っていなかったのだ。
――運命に。
それは、露天商だった。
扱っている商品は、一種類。絵画。
作風が様々なので多くの絵師の絵が飾られているのだが、そのどれもが一人の女性を描いていた。
共通しているのは、金色長髪の白ドレスを身に纏う、若く美しい女性が豪華なソファに座っている姿で、絵師がどうにかその美しさを描いているという事。
ニトは吸い寄せられるように、素早くその内の一枚を手に取ってジッと見る。
そんなニトの様子に、露天商の男性は客が来たと笑みを浮かべた。
「なんだい、兄ちゃん。もしかして、絵のモデルである『鉄面姫』さまの素顔を見るのは初めてかい?」
「……ん? 何? 鉄面姫? それは別に……いや、参考にはなるか。誰だ。それは?」
「誰って、兄ちゃん、どこの田舎から出てきたんだい? 本当に知らないのかい?」
「……知らないな。というか、随分と物騒な名だな」
「鉄面姫――『イリス・オーラクラレンツ』姫さまは、この国の姫さまさ。『世界一の美姫』として有名で、この絵はその姫さまの素顔を描いたモノ。どれも複製だが、これだけの数を集めるのもそれなりに苦労したよ」
いやあ~、大変だったと、露天商は思い出したかのように何度も頷く。
「その世界一の美姫が、どうして鉄面姫なんて呼び名に? もっと他のよさそうなのが付きそうだが」
「そりゃ決まっているさ。実際は、常に鉄仮面を被っているからさ」
「……は? なんだそれは。どういう状況なんだ?」
「美し過ぎるのさ。それこそ、誰が見ても一目で心を奪われるほどに。ただ、それだけ美しいとなると色々と支障が出るって事で、普段は鉄仮面を被っているという訳さ」
「なるほど。それはこれを描いた絵師さまも大変だっただろうな」
「ああ、実際、何度も筆をとめるとか、美しさを表現できないと挫折したのも居たらしい」
「……それで、あんたは見た事あるのか?」
「鉄面姫さまをかい? 俺のような庶民に直接お顔を見るような機会がある訳ないだろ。ただ、会う機会がない訳じゃない。……興味あるかい?」
露天商が何かを窺うようにニトを見る。
何を望んでいるのか、ニトにはわかった。
それに、元々そのつもりだったので、別に断る気はない。
「この手に持っているのをもらおう」
「毎度あり!」
ニトは手に取っていた絵画を購入する。
まだまだ蓄えはあるのだ。
絵画自体も複製されたモノという事もあって、そう高くはなかった。
「それじゃあ、話の続きを聞こうか」
「そりゃもちろんですよ。お客さまには優しくしないとね。といっても、この国に住んでいる者なら誰だって知っている話ですけどね」
つまり、知ろうと思えば、それこそタダで知る事ができる情報だという事である。
「別に気にしない。さっさと話せ」
「はい。なんて事はありません。その機会とは、鉄面姫さまの婿取りが行われているのです」
「婿取り?」
「ええ。鉄面姫さまの父親、つまりこの国の王が定めたのです。王都・ヴィロール近郊にあるダンジョン。そこから指定されている五つのアイテムを持ち帰る事ができれば、お目通りができるのです。何しろ、この国は世界一の強国と言われている国。まずはその強さを示せ、と」
「ふ~ん……」
少しの間、ニトは考える仕草を見せる。
ただ、答えは既に決まっているので、考えているのはその過程。
つまり――。
「ついでにもう一つ聞くが、ここからその王都まで行くには」
言い切る前にニトは言葉をとめ、ある方向をジッと見る。
露天商も気になってその方向を見るが、特に何かがある訳ではなかった。
ただ、ニトが見ている方向の先にあるのは、この町の正門。
そこから、異変を告げる声が響く。
「魔物大氾濫だあー!」