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時は遡り――。
自分にとっての神絵師「ouma」が魔王であるとニトが知って寝込んでから、数日。
既にヴァレードが魔族と魔物の軍勢について偵察し、それをトレイルに伝え、各国協力の下で魔族と魔物の軍勢に対抗するための多国籍軍が組織されていく最中――。
「はあ……はあ……はあ……」
荒い息と共に、ニトは目覚める。
それこそ、悪夢でも見ていたかのように、これまでかいたことがあっただろうかと疑いを持ってしまう汗を大量にかいていた。
ニトが汗を拭うと――。
「お目覚めですか?」
まるで、常にそこに居たかのようにベッド脇で控えていたヴァレードが声をかける。
「どうぞ」
冷たいおしぼりを差し出しながら。
まるで執事のような行動であるが、それがまた妙に堂に入っているというか、様になっていた。
ニトはおしぼりを受け取り、顔に当ててさっぱりとした気分を得る。
「……ふう」
「大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。悪夢を見ていただけだ」
「悪夢ですか?」
「悪夢だ。神絵師『ouma』が魔王だなんて、そんなのある訳がない」
「ニトさま。一ついいですか?」
「なんだ?」
「失礼ながら、現実を見ましょう。ニトさまの言う神絵師『ouma』は魔王アルザリアさまご本人です」
ヴァレードがハッキリと告げるが、ニトは両目を瞑り、両手で両耳を塞いでいた。
完全に、まったく聞く気がない体勢である。
そんなニトの行動に、ヴァレードは「ぷっ」と小さく吹き出す。
ただ、ヴァレードからすれば想定内。
ニトがもう終わったか? と目を開ければ、ヴァレードはあちらをご覧くださいと指し示す。
その誘導に従ってニトが指し示された方へ視線を向ければ、そこには紅茶カップと茶菓子のセットが置かれた丸テーブルがあり、その周囲に置かれている四脚ある椅子の内、二脚にはそれぞれ赤髪の女性と金髪の女性が座っていた。
アルザリアとセクレである。
また、隠すつもりは一切ないと、アルザリアの長く禍々しい黒角、セクレの黒い巻き角が、二人は魔族であると主張していた。
いや、二人だけではない。
私も魔族ですよ、とヴァレードは黒く歪な角を隠していなかった。
「………………まだ、夢を見ている最中だったのか、俺は」
「現実です」
ヴァレードは冷静にそう告げた。
―――
しばしの沈黙のあと、ニトはベッドから起き上がり、ふらふらとした足取りでアルザリアとセクレが居る丸テーブルのところまで行き、空いている二脚の椅子の内の一脚に深く座る。
「どうぞ」
なんでもないようにヴァレードはニトの側に控え、紅茶と茶菓子をニトの前に用意する。
ニトはもくもくと、無意識下で動くように口にして、人心地つくように放心。
そんな様子を――正確には、ニトではなくヴァレードの行動に、セクレが驚きの視線を向ける。
「まさか、貴様がそのような真似をするとは!」
「そう言うのは普通口にせず、内に秘めておくものだと思いますよ? セクレ嬢。でなければ、時に円満な関係を崩しかねませんので」
「それは私と貴様が円満な関係であると言いたいのか?」
ヴァレードにジト目を向けるセクレ。
「おや? 違いましたか? おかしいですね。セクレ嬢を『セクレ嬢』と呼んでいるのですから、そこから親愛の情を感じ取ってくれていると思いましたが?」
「思う訳ないだろう。それに、そもそも貴様と慣れ親しんでいる覚えはない」
「おやおや、一方的な思いでしたか。残念です。ですが、こうして口にしてハッキリした訳ですし、これがきっかけとなるかもしれませんね」
ニッコリと、どこか胡散臭い笑みを浮かべるヴァレード。
そんなヴァレードを見て、セクレは本当に嫌そうな表情を浮かべる。
実際のところ、ヴァレードにとってセクレはお気に入りの一人であった。
嫌そうであるとはいえ、素直な反応を返してくれるからだ。
それに、今は嫌そうであったとしても、あとで好転させればいいだけ。
いや、そもそも、セクレの嫌そうにする反応も、ヴァレードは面白がっているので、これはこれで構わないのがヴァレードの本音である。
そんなヴァレードとセクレのやり取りを、アルザリアはニコニコとした、ヴァレードの浮かべる笑みとは違う、楽しそうな笑みを浮かべて見ていた。
仲が良いな、と。
「……アルザリアさま」
アルザリアの視線とその意味に気付いたセクレは、頭が痛いと額に手を当てて息を吐く。
そんなセクレの態度に、アルザリアは少し慌てる。
「セ、セクレ? ど、どうかした? もしかして、私、何かやってしまった?」
「いえ、何もしていません。それと、その態度も、まあ理解はしています。そちらが本来のアルザリアさまである、と。ただ、それでも、これと仲が良いと思うのは違います。決して仲良くありません」
セクレがヴァレードを指し示しながら、ハッキリとそう告げる。
それは残念です、と悲しそうに頭を振るヴァレード。
そういう芝居はやめろ! とセクレは言及する。
まあ、まあ、とセクレを落ち着かせるアルザリア。
ニトが寝込んでいた間に、アルザリアとセクレの関係はもう解決していた。
アルザリアが魔王であることを嫌うというか、辞めたいと思っていたとしても、絵を描くのが好きで、それで生きていきたいと思っているということも、セクレはすべて理解した上で、尚も変わらぬ忠誠をアルザリアに誓ったのだ。
セクレは、アルザリアが魔王だから忠誠を誓ったのではない。
魔王ではなく、アルザリアという存在に忠誠を誓ったのである。
アルザリアは、嬉しかった。
正直なところ、正直に言えば愛想を尽かして居なくなると思っていたのだ。
それでも伝えたのは、この状況において、今しかないと――自分が魔王として君臨しなくても済むようになるかもしれないと考え、そのために動くと決めたから。
なので、自分のことを、思いを、正直に口にして、それでもセクレが自分の側に居てくれると決めたことが嬉しかったのである。
そうして、アルザリアとセクレの新たな日常と言ってもいい光景が広がっている中――。
「……魔王は、倒せない。……俺に、神絵師を倒すことなんかできない」
現実を見て、ニトはそう口にした。
今まで寝込んでいたのは、神絵師「ouma」が魔王であったことに対する部分が大半ではあるが、他にも芸術祭の間――特に後半はしっかり寝ていなかったということもあって、慢性的な寝不足であったための解消で眠っていた部分がある。
つまり、寝込むのと同時にしっかりと眠ったため、ニトの意識は今ハッキリとしている上での決断であった。
世迷言ではない。
何故なら、それはニトが女神と交わした約束の破棄も意味しているのだ。
苦渋の選択であったことは、ニトの表情がそれを物語っていた。
そんなニトを見かねてか、アルザリアが声をかける。
「あの……大丈夫ですか?」
「はい! 大丈夫です!」
直立不動の敬礼付きという反射行動で答えるニト。
それが可笑しかったのか、アルザリアは小さく笑みを浮かべる。
一応ではあるが、アルザリアはニトが寝込んでいる間に、話のタネの一つとして、ヴァレードからニトの目的については軽く聞いている。
なので、正直なところ、ニトの魔王――アルザリアとは戦えない、戦わないという決断は、アルザリアにとって喜ばしいモノだった。
何しろ、アルザリアは自分を魔王と思いたくはないが、誰が魔王かと問われれば、魔族であれば誰もがアルザリアであると言うことは間違いなく、それに自分が強いことは知っているが、それでもニトと戦った場合……どうなるかわからない――明確な勝利の光景が思い浮かばないのである。
そのため、いざ戦いとなれば分が悪い――自分が敗北すると思っていた。
だからという訳ではないが、何よりもアルザリアはニトと敵対したくない、というのが一番強い思いである。
何しろ、ニトはアルザリアにとって、初めて面と向かって自分の描いた絵が好きだと言ってくれたファンなのだ。
そのような人物と戦いたくはない。
なので、敵対したくないというのが、アルザリアの偽らざる思いであった。
そうして、戦わなくて済むとわかったからこそ、アルザリアは気兼ねなく聞くことができる。
「ところで、その……目的が魔王討伐というのは聞きましたが、何故そのような目的を? えっと……何か、魔王に対して思うところが?」
アルザリアはそこが気になっていた。
何か、やってしまったのだろうか、と。
ニトは別に隠すことでも――そもそも別に隠してもいないので、洗いざらいを口にする。
つまり、アルザリアに――神絵師「ouma」にお願いしようとしていたことを。
聞き終えたアルザリアは――。
「……私が描いた絵の世界」
夢想して、ぽわわ……とどこか恍惚とした表情を浮かべる。
完全に魅了されていた。
ニトも、素晴らしい世界になっていた、と思い浮かべて笑みを浮かべる――が、次には意気消沈する。
それでアルザリアも気付き、同じように意気消沈した。
魔王討伐がなくなった以上、もう叶わない世界だ、と。
落ち込むアルザリアに対して、セクレがあわあわしつつも元気づけようと声をかける。
同じく落ち込んでいるニトに対してセクレは何も行わない。
そこはやはりアルザリアが優先だからだ。
その代わりという訳ではないが、ヴァレードがニトに声をかける。
「しかし、その女神との約束事ですが、討伐するのは大魔王では駄目なのですか? まあ、自称ですが」
「………………え? どういうこと?」
さっぱり意味がわからない、とニトは首を傾げる。
それはそうだろう。
何しろ、神絵師が魔王だと知ってから今まで寝込んでいたのだ。
その間に発覚したことや現状など知りもしない。
なので、今度はヴァレードがセクレからもたらされた情報と、自身が見に行って伝えた情報に、現状についても、ニトに余すところなく教える。
「魔王ではなく大魔王か……それも自称……」
自分は魔王よりも上の存在であると名乗っている者が現れ、魔族側が一斉に動いたという状況を聞いても、ニトに焦ったところはなかった。
大魔王だろうが魔族全体だろうが敵ではない、と。
だからこそ、気にするのは一つ。
「どうだろうな。あの女神がそれでなんと言うか………………直接聞いてみるのが早いが……試してみるか」
ニトがそう口にした瞬間――この場からその姿が消えた。
―――
「ふ~ん、ふん、ふふ~ん」
神界にある一室。
女神が鏡を前にして欠かせないお肌のケアをやっていると、ふと――背後に何かの気配を感じる。
気になって振り返れば、片手を上げて挨拶をするニトが居た。
女神はどうもと軽く頭を下げて、お肌ケアに――。
「いや、なんでここに居るの! ここ、神界よ!」
「なんでって送り出された時の感覚を思い出して、それを逆に辿るようにしたらこうしてこれたというだけだ」
「……もうなんでもありね。あんた」
女神は呆れたように、そう口にした。




