15
味わい深い紅茶を楽しみつつ、優雅な一時を過ごすヴァレード。
その光景はまるで嵐の前のような静けさと言えるくらいに穏やかであり、窓の外から聞こえてくる、どこか遠くの方の喧騒が耳をくすぐる。
心が落ち着く一時。
休まる心と精神を自覚して、それを楽しむ余裕すらある。
ヴァレードは今、自分の心身が非常に休まっていると実感していた。
しかし、先ほど嵐の前と表現されたように、いつまでもこのままとはいかない。
不意に、ヴァレードは自分に向けられている二つの視線を感じる。
一方は、時間が経ったことで本能より理性が上回って意識を取り戻したが、その間の記憶がないために状況がわからず、知っていそうなヴァレードに説明しろと訴えるニト。
一方は、ド緊張から緊張状態へと戻ったことで話せるような精神状態になったが、頭の中が真っ白になっているのは継続中で、何を話せばいいのかわからずに助けを求めるアルザリア。
両者の視線の意味を正確に把握したヴァレードは、おっと休み過ぎましたか、と行動を起こす。
間に立ち、一礼。
「ヴァレードと申します」
それは知っていると、ニトとアルザリアは思った。
ただ、ヴァレードとしては、こうしてまずは自己紹介から始めるべきでは? という意図があったのだが、どうやら通じなかったことを理解する。
両者共にまだ動けるようになったばかりで精神が一杯なのだ。
察せ――という方が、無理があった。
普段手間がかからない分、こういうところ、時ではかかるのだろうと、ヴァレードは一つ頷いて互いの紹介を始める。
「では、まずこちらは現在私が仕えていると言っても過言ではない存在。ニトさま」
ヴァレードの紹介を受けて、ニトがぺこりと頭を下げる――が、頭の上に疑問が浮かぶ。
仕えているか? と。
その割には自由にさせているし、動いていると思う。
ヴァレードは気にせず次へ。
「次いでこちらは……こちらは……どう説明しましょうか。思えば、特にその辺りを相談することなく連れてきてしまいました。さすがにすべてを明かす訳にはいきませんし……」
「?」
ヴァレードの困惑にニトは首を傾げる。
何か問題があるようだが、どういうことだろうか? と。
アルザリアが急いでヴァレードを引き寄せ、今の自分がどう名乗っているのかを伝える。
ちなみに、その際の行動速度はそれこそ魔王的速度であったのだが、ニトはそれに気付かない。
見えている、というのもあるが、まだそこまで頭が回っていないのである。
ヴァレードが改める。
「こちら、時代が生んだ傑物。世紀の天才。他に類を見ない新進気鋭の美女絵描き。『ouma』でございます」
「いや、ちょ!」
アルザリアが慌てる。
何しろ、ヴァレードに伝えたのは、絵描きということと「ouma」という名だけなのだ。
つまり、それ以外はヴァレードが付け足したモノであり、誇大表現に慌てたのである。
そんなアルザリアに向けてニトが口を開く。
「……え? いや、え? まさか、本当に、『o……u……ma』?」
それが自分に向けられているとわかったアルザリアは、素直に頷く。
瞬間――ニトは自身の胸部辺りの服を掴み、心臓がこれまでで一番強く脈動した。
「……ぶはあ。危ない。一瞬、心臓がとまった」
死ぬところだった、と告げる。
それは嘘偽りない事実であった。
だが、その脈動は同時にニトに理解させる。
本能が、体が示していた。
目の前に居る赤い髪の女性が、自分が探し求めていた絵描き「ouma」である、と。
「えっと……大丈夫、ですか?」
一瞬心臓がとまるとは只事ではないと思ったのか、アルザリアが心配するように声をかける。
だが、これは悪手だった。
ニトは余計に混乱して、本能のままに跪くよりも先に口が開く。
「あ、いや、その、えと、大丈夫です! それと、好きです! いや、違くて、いや、違わなくて、好きというのは本当で、そこは真実で、ただ、そう、好きというのは、絵が好きで、本当に好きで! 特に『ouma』さんの絵が本当に好きで! タッチというか、表現というか、とにかく好きです! 大好きです!」
ただ、口が開いたからといって、それは混乱中のニトである。
そこに語彙はなく、ただ気持ちだけが――好きだという思いだけが目一杯に詰まっていた。
だからこそ、アルザリアに届く。
これまでファンに出会ったことはなく、特にこれといった評価を受けた様子もない。
もしかして自分の絵は駄目なのかも――と何度も思ったことがある。
そういう経験があるからこそ、気持ちだけが詰まった言葉は、その気持ちが真実であると伝わって届く。
アルザリアは胸が――心が温かくなり、泣きそうになるのを堪えながら笑みを浮かべる。
「あ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございます!」
こちらこそお礼を言いたいと、ニトは直ぐに返した。
そして、直ぐに気付く。
「はっ! 頭が高くなってしまっている!」
跪こうとするニト。
何しろ、相手は「ouma」なのだ。
ニトにとってそれは神に等しい。いや、それ以上。
自分をこの世界に送り出した女神よりも神格の高い――頂点に位置する女神である。
実は魔王だが女神なのだ。その魔王の部分をニトは知らないが、ニトからすれば神なのだ。唯一神の女神なのだ。
送り出した女神が知れば、不敬だと怒るのは間違いない。
「いや、え! そんな! そこまでしなくてもいいですから!」
ニトの行動に再び慌てるアルザリア。
それが自然なことであると、あまりにもスムーズにニトが跪こうとしたので、一瞬出遅れてしまうが、どうにか引き留めようとする。
その行動はアルザリアにとっても重要なことだった。
何しろ、目の前に居るのは初めてのファンなのだ。
アルザリアにとってもニトは大切であり、跪いてもらうなんてとんでもないのである。
それに、ファンを跪かせる絵描き、と思われるのもどうかと思う、といった思いもあった。
なので、ニトが跪こうとするのをとめるため、アルザリアは魔王的速度でもって近付き、ニトの両肩を押さえる。
魔王であるからこそ、アルザリアはニトの行動をとめることができた。
けれど、ニトの、跪きたいが「ouma」を振り払うことはできないためにどうにもできない思いと、アルザリアの跪かせたくないが下手に魔王的膂力を発揮すると危険だという思いが重なり、ほぼ90度腰を曲げているニトを、その両肩を押さえることでそれ以上の進行を阻止しているアルザリア――という珍妙な光景が展開される。
「ぶふぅ!」
ヴァレードが堪えられないと吹き、近くにあるソファーの背をバシバシと叩く。
ニトはアルザリアを至高の絵描きとして見て、アルザリアはニトを初めてのファンとして見ている。
今この場で両者の正体を唯一知っているヴァレードは、耐えられなかったのだ。
そんなヴァレードに向けて、ニトとアルザリアは視線を向ける。
再び両者から視線を向けられたヴァレードは、その意味を正しく理解した。
――どうしたらいいのかわからないから助けて、と。
「ぐっ。少々、お待ちを……」
時間をください、と伝えたヴァレードは、ソファーの背をバシバシ叩くのは継続して、さらに体が小刻みに震え、バンバンと足踏みをしたのち――。
「お待たせしました」
なんでもないように――それこそ、いつもの姿で立つ。
普通であれば、「遅い!」といった言葉が投げかけられるだろうが、ニトとアルザリアの精神は既に一杯一杯でそれどころではないのだ。
「といっても、どうしましょうか。このまま会話を続けていただくのもいいのですが、それで落ち着かれるのもつまらないですし……どうせなら、もう何回かこのやり取りで楽しませてもらいたいところですから……」
なので、ヴァレードがこのように呟いても、聞こえてはいるが意識できないというか、右から左に流れ出ていっていた。
まあ、それがわかっているからこそ、ヴァレードは声に出したとも言える。
つまり、一旦落ち着きはしたものの、両者共にもう限界なのだ。
肉体ではなく精神が。
ヴァレードがニトのうしろに回り、よいしょ! とニトの姿勢を正す。
「それでは、今日はこの辺りにしておきましょうか。また話がしたいのであれば、私に言っていただければ予定を組みますので」
ヴァレードの提案は両者の耳に届いた。
両者共に心の休息が必要だと思ったからである。
不思議と、これで終わり、とニトとアルザリアは思わなかった。
なので、これで一旦解散となり、ニトとヴァレードはアルザリアを見送ろうとするが、その前にニトが動く。
「いや、えっと……その……一つお願いしたいことがあって……できれば、本当にできればでいいのですが……」
意を決したように、ニトは懐から一枚の紙を取り出す。
それは、ニトが運命的に邂逅した「ouma」の絵。
鉄面姫を描いた「ouma」の絵である。
その絵を取ったアルザリアは直ぐに気付く。
紙質の問題もあるが、何度も見返していたことを示すように、その絵の端の方、それと折り目が少し痛んでいることに。
それだけ何度も見てくれたのだとわかって、アルザリアは自然と笑みが浮かんだ。
ヴァレードがなんでもないようにペンを用意して、受け取ったアルザリアは「ouma」というサインを描く。
「私の絵を気に入っていただき、ありがとうございます」
満面の笑顔と共に、アルザリアはニトにサインした絵を渡す。
ニトは震える手で受け取り、描かれたサインを見て、大切であると優しく畳んで懐にしまう。
そのまま流れるように敬礼。
「いつまでも応援しています!」
それは偽らざるニトの本心である。
絵を描いていて良かった、とアルザリアが思った時、ふと思い出した。
「そういえば、この芸術祭の警備をされているとか。頑張ってください」
「はい! 頑張ります!」
頑張らない理由がなくなった。
ある意味、これが決定打となる。
これまでであれば、まだ手心は加えられたかもしれない。
多少かもしれないが、事実として絵画以外であればまだその可能性はあったのだ。
しかし、これでその可能性はなくなったのである。
芸術祭で行われる犯罪行為に対して、ニトが警備として本気になった瞬間であった。




