2.死体令嬢は契約する
「騒ぐな。こんな薄い胸で勃つか」
「な、なんだと――」
「静かにしろ」
この野郎! 静かにしろって無理に決まってんだろ‼ こんなわけのわかんない状況、怖いに決まってんじゃん。声くらいあげるし、心臓だって大暴れ……って、あれ?
「……よしっ!」
失礼男あらためセクハラ野郎は、顔を上げると嬉しそうにガッツポーズを決めやがった。
でも今はそんなことより、もっと気になることがある。
「なんで……」
知らない男の人に押し倒されて、普通こういうときってドキドキしない? いや、ときめきとかじゃなくて恐怖で。なのに私の心臓ってば、さっきから微動だにしないんだけど……
「おまえ、出ていかなくていいぞ」
「は?」
セクハラ野郎はふんぞり返って私を見下ろすと、クマの浮いた顔にまたしても悪役って感じの笑みを浮かべた。
「心臓は動いてなかった。もちろん脈も体温もない。やっぱりおまえは、正真正銘本物の死体だ。なら、ここにいてもいい」
「……した、い?」
棺桶、蝋みたいに白い肌、どきどきしない心臓……いやいやいや、でも、いくらなんでもありえない。だって私、今ちゃんと動いてるじゃん!
「ああ、死体だ。空っぽになったその体に、どっかの野良魂が入り込んだらしいな。しかし興味深い。普通そういう自然発生の“起き上がり”は理性がぶっ飛んじまってるってのに、おまえはどうだ! 面白い‼」
面白くない! 全っ然、一ミリも面白くない‼
何言ってんのこの人。頭おかしい。そんなのあるわけないじゃん。どこのファンタジー世界だよ。
「もうやだ帰りたい! 帰る‼」
意味わかんないしセクハラ野郎は頭おかしいし、もうほんとやだ! こんなとこ一秒だっていたくない‼ さっきの鏡だってきっとなんか細工とかしてあったんだ。これ、たちの悪いドッキリとかでしょ。
付き合いきれないって思いで棺桶を飛び出すと、はだしのまま走り出した。捕まえようと駆け寄ってきたセクハラ野郎には思い切り頭突きをお見舞いして、そのまま開いてたドアから一気に廊下へと飛び出す。
外は踊り場になってて、すぐに下り階段が見えた。蝋燭の灯りだけの狭い螺旋階段を全速で駆け降りる。途中途中にあった扉は全部無視。
階段を降りきるとそこはがらんとした何もない部屋で、ドアがぽつんと壁に一つ。セクハラ野郎は追いかけてきてない。扉にかかってた古めかしい閂を外すと、思いっきりドアを開け放ってやった。
「…………嘘」
けど、目の前に広がってたのは予想もしてなかった光景で。
満月の光に浮かび上がってたのは、真っ暗な夜の森。公園みたいにきれいに整えられた木じゃなくて、もっと鬱蒼とした、自然そのままって感じの木の森。
下を見ればむき出しの土と雑草だらけの地面。道なんてない。アスファルトもなければ街灯もない。もちろんコンビニもないし、それどころか町明かりのかけらさえ見えない。
「もしかしてここ、すっごい山奥?」
「山じゃねぇ、森の中だ」
セクハラ野郎の声に振り向いた瞬間、腕を両側からそれぞれがっしり掴まれた。慌てて顔を上げたら――
「ほ……⁉ っやぁぁぁぁぁ、はな、離してぇぇぇぇ‼」
骨が! 人間の骨が両脇に立ってて、そいつらが私の両腕をがっちり掴んでて。
ありえないありえないありえない! こんなのありえない‼
「やだやだやだ離してぇぇぇぇ! 助けてお母さぁぁぁぁん‼」
「落ち着け。だいたいおまえも死体だろうが。そいつらとの違いなんて、肉がついてるかついてないかの差だろ。いや、肉がついてるから喋れるし見たとこ自律型だし、色々と違いはあるが……」
セクハラ野郎がなんか言ってるけどそれどころじゃない。怖い怖い怖い怖い――
「あーあーうるせー」
唐突に。セクハラ野郎の顔が視界いっぱいになる。
近い、近すぎる! なんでこんなに近づくの⁉ しかも顎クイとか! ……いや、違うなこれ。思いっきりほっぺた掴まれてる。やめてよ~、その持ち方ヒヨコになるし、めっちゃ不細工になるから。
「汝、真名を失いし者よ。彷徨える魂よ」
セクハラ野郎がいきなり変なこと言い出した。それに合わせるように、ヤツの灰色の目がじわじわと黒に染まっていく。
目の色が変わるとかなんの冗談? さっきからありえないことの連続で、もうどうしたらいいかわかんない。
「レナートの名において、汝の魂に仮の名を与える」
レナートってコイツの名前? でもこいつ、さっきから何ぶつぶつ呟いてんの?
「囀る者、ラーラ」
白目まで真っ黒に染まった、ホラーすぎる目が近づいてきて。
蛇に睨まれた蛙? その目に見つめられて私は、物理的にも精神的にも、まったく動けなくなってた。
「汝ラーラ、我レナートと、ここに血の契約を交わす」
直後――私の口はふさがれ、自分のものではない異物に蹂躙されていた。
「んんんーーーーー……んん?」
そのあまりの一方的で理不尽な行為に、もちろん私は抵抗した。いや、しようとしたんだけど……
やっばい。なにこれ、脳みそ痺れる。
ヤツから流し込まれた甘い、なんかめちゃくちゃおいしい何かが、私の抵抗する力を一瞬で奪いさってった。ほんと瞬殺。キスされてるとかそんなん、もうどうでもよくなってきて。頭が痺れるくらい甘くておいしくて、もっと……もっと、欲しいって気持ちが止まらなくって……
「仮だが、これで契約は成立だ」
終わりは、与えられたときと同じくらい唐突で。まだぼうっとする頭でセクハラ野郎を見ると、ヤツは口の端から垂れた血をぬぐっていた。
……血? え、待って待って。まさか今のって……嘘でしょ?
「私、何飲まされて……」
「俺の血に決まってんだろ。契約に必要だったからな。ちょうどさっき、おまえの頭突きで口の中切ったんで使った」
めっちゃ事務的に返された。
人に無理やりキスしといてそれかよ! ちょうどとか、ほんとなんなの⁉
この流れ、清純な乙女的には大問題なんだけど。なんだけど……でも、今はそれより気になることがあった。今飲まされたのがアイツの血だったとしたら……私、なんで? なんで、血が甘くておいしいなんて感じちゃったの?
「来い、ラーラ」
セクハラ野郎の呼びかけに、瞬時に反応した私の体。
待て待て、ちょっと待て私の体。なんで素直にあんなヤツのとこへ行こうとしてんの?
無理やりその場に踏みとどまると、セクハラ野郎を睨みつけてやった。
「仮契約だと完全な支配は無理か。めんどくせぇな……素直に支配を受け入れろ、ラーラ」
「やに決まってんだろ、バーカ。あと私は、ラーラなんて名前じゃない」
動き出しそうになる足を無理やり抑えつけて、鼻で笑ってやった。全部が全部、おまえの思い通りになるなんて思うなっての。
「知ってるっつの。だから仮の名だって言ってんだろ。いいから来い!」
セクハラ野郎の目がまた真っ黒に塗りつぶされて、抵抗むなしく、私はヤツの前にひざまずかされた。ムカつく!
「手間かけさせんじゃねぇ。いいか? 仮とはいえ、おまえはもう俺と契約を結んだんだ。俺から離れることは許さん」
「勝手なこと言うな! クーリングオフさせろ‼」
「くーりんぐ……? なんかわからんが却下だ。つーか無理。諦めろ」
「横暴だ! なら弁護士を――」
あれ? 興奮したせい? なんか目の前が……暗く、なって――――