二つの約束
敬語を上手に話せる自信の無かった私は、お嬢様のその問いにどう答えるべきか分からず、ただただ眉根を下げてランプの灯りを受ける空色の瞳を見つめることしか出来なかった。
永遠とも思える一瞬の後、ドアの向こうに例の執事が現れ、室内の状況を瞬時に確認しこう言った。
「お嬢様、侍女を撒いて階下に来るのはおやめくださいと何度も申し上げております。ここには貴族との接し方を知らぬ者しかおりませんので、困らせないでください」
「あら、迷惑を掛けてしまったから一言お詫びをと思ったのに。ねぇエドワード、この子の名前を教えて?」
執事が答える前に今度は侍女が到着し、あっという間に彼女を部屋から連れ出して行った。
固まったままの私は未だ動くことが出来ず、ランプをぼんやりと眺めたままで、その様子を見た執事は呆れたような声で話しかけてきた。
「フィリップ、お嬢様とは何か会話をしましたか?」
「いや……あ、いえ。敬語が話せないから、どう答えるべきか分からなかった、です。せめてこの場で跪けば良かったのに、動けなくて。ごめんなさい」
「なるほど。それでは、あなたはこれからどの使用人と会話する時も、敬語で接することを心掛けなさい。そして手が空いている時は他のボーイの仕事を手伝い、一つでも多くの技術を学びなさい。あなたをスチュワーズ・ルームボーイに任じます」
何がどう評価されたのかは全く分からないまま、聞いたことも無い知らない仕事を命じられた時、恐らく私は迷子の子供のような表情をしていたのだと思う。
執事や侍女などの上級使用人に仕える使用人のことで、本来は10歳の子供に任せる仕事などではなく、また既にこの仕事を受け持っている先輩がいたので、任じるとは言っても実際は名ばかりだった。と言うのも、空いている時間に他のボーイの仕事を手伝うどころか、常時誰かから雑用を言いつけられ、たまに先輩が空いている時間に少しずつ給仕の仕方を習って行ったというのが正しい表現だっただろう。
しかし私はこの雑用の中でも「磨く」という仕事は大変気に入っており、大量の靴や大量の銀器を美しく仕上げることにやりがいを感じることが出来た。ランプ磨きも、匂いであの出会いを思い出すことができるから苦行ではなくなった。
なぜか私が何かを磨いていると、いつの間にかお嬢様が現れ空いている椅子に座っている、ということがよくあった。そして彼女は執事の言いつけなど守る気もなく、積極的に話しかけてくる。
「ねぇフィリップ。あなたは執事になるつもりなのよね? 私には男の子の兄弟がいないから、お婿さんを取るのよ。だから、ずっと私に仕えてね。旅行にも着いてきて、たくさん私のわがままを聞いてね」
私は、はいともいいえとも返事が出来なかったのだが、言い切ったお嬢様は完全に約束をした気分の目をしてしまっていた。
お嬢様と会話をしてしまうと、欠片も表面に出してはならない恋心が大きくなってしまうような気がして、私はいつまでも返事が出来ないままだった。
しかし給仕の練習では、ここに座っているのがあのちょっとガサツなお嬢様だと思えば、彼女が喜んでくれるようにと指の先まで美しい所作を意識出来る気がしたのだ。
数年が経つ頃にはスチュワーズ・ルームボーイの先輩はフットマンになるべく転職して行き、上級使用人からも給仕への苦言などが殆ど聞かれなくなった。
ある日のこと、いつものように執事のエドワードに給仕をしていた時、彼は改まった様子で私に尋ねてきた。
「フットマン達や私の仕事をよく観察していますね。あなたは執事を目指しているのですか?」
私は、はい、とだけ短く答える。
「もうあなたも分かっているでしょう。この屋敷にいては、執事までキャリアアップすることはできません」
そうだ。同じ屋敷でキャリアアップをするとかつての同僚が部下になり、そこに軋轢が生まれる。そして何より、上のポストが空かない限りはそもそもキャリアアップなどはできない。
「サード・フットマンを募集しているお屋敷があります。あなたが望むのなら、紹介状を書きましょう」
これは喜ぶべきなのだろうか。それとも半ば解雇通告な気もするから悲しむべきなのだろうか。どう受け止めるべきなのか分からず、ただじっと執事の瞳を見つめることしか出来なかった。
「今あなたは17歳。2年ずつ転職しながら、確実にキャリアアップをしていきなさい。私は解雇されない限りあと10年ここで勤めるつもりです。ここを辞する時、あなたがしっかりと実力を伴った素晴らしいフットマンかヴァレットになっていれば、後継のリストに入れますから」
エドワードは常に仏頂面というか全く表情の変わらない人だったが、この時私に初めて別の表情を見せた。とても穏やかな笑顔だ。
「あなたは気付かなかったでしょうけど、私はあなたを評価しています。学ぶ姿勢、どんな雑用も腐らず真面目に行うし、周りをよく観察している。執事になれる器なのかもしれないと、そう感じたのです」
17歳、身長がフットマンに必要とされる180センチになった時のことだった。
これまで何十回と数え切れないほどお嬢様から話しかけてくださったのに、一度も会話はおろか返事もまともにできないまま。こうして私は適度におだてられながら、まだ見ぬ次の主の下へ向かうこととなった。
5話で終わらないかもしれません、すみません。2話くらい延びるかも……
使用人はほとんどの場合同じ職場ではなく転職をしながらキャリアアップをします。
2年勤めると紹介状を書いてもらうことができ、転職はエージェントを通じて、もしくは知人を通して紹介されます。
通常は面接をしてから採用となりますが、今回は省いています。




