プロローグ
定刻より10分程遅れた蒸気機関車が駅へと到着し、私はやれやれと思いながら、あるいは少し緊張を感じながら列車へ足を踏み入れる。
幼い頃に交わした他愛もない約束、それを遂げるための旅に、期待とも恐怖とも言えない初めての感情を胸に抱く。年齢を重ねても新しい感情を抱くものなのだな。
荷物置きに荷物を収め座席に着くと、何の気もなしに窓からホームの風景をぼんやりと眺める。家族の別れの抱擁であったり、友人への激励、一人で決意を胸にした旅立ち。傍から見るだけでもたくさんの人生があり、またその内側には計り知れない感情や思いがある。
ここにいる人たちは皆、人生の分かれ道に足を踏み出している所なのかもしれない。
やがて発車を告げる笛が鳴り、警笛が響く。そしてそれと共に慌しい足音が私の方へ向かって来た。
息を切らせながらチケットと部屋番号を確認した青年が、朗らかな表情で話しかけてくる。
「騒がしくてすみません、どうやら同室のようですね。短い時間ではありますがよろしくお願いします」
「いえいえ、間に合ったようで良かったですね。フィリップです、どうぞよろしくお願いいたします」
青年は手際よく荷物を片付けると、ピーターと名乗り行儀良く座席に座る。服装は高級ではないがきちんと手入れされており、特に靴はその値段には若干不相応なほどに艶々している。手袋を脱ぐと、指先はひび割れ黒ずみ、そして皮膚が固くなっているように見えた。
「もしかしてピーターさんは、フットマンでいらっしゃいますか?」
少々不躾だとは思ったが、思わずたずねてしまう。するとピーターは目を瞠って、やがて笑顔で答える。
「ええ、そうです。とは言っても2年勤めて現在転職先を探しているところでして、面接に向かうところなのですよ。やはりこの指先は汚いですよね……」
「指先は銀器を磨くとどうしても汚れてしまいますからね。しかしフットマンかなと思ったのはそれではなく、所作が美しいですし、ピーターさんは長身でしかも脚が長いので」
執事を目指す者が、キャリアを積むために務めるフットマン。
仕事内容は多岐に渡り、またその屋敷によっても大きく異なるが、銀食器の手入れ、給仕、馬車の共など色々ある。
しかし採用時に重視されがちなのは外見である。フットマンを雇えることはすなわちその家が豊かさを象徴すること。見目が良く、そして時には複数人のフットマンが同程度の身長や体型であることまで求められる。
フットマンを経て執事になるには、努力だけではなく才能や天性の体格、そして運が必要なのだ。
「気を悪くされたのでしたら申し訳ありません。あなたを見ていると、どうしても私の若い頃を思い出してしまいまして」
「すると、フィリップさんは執事の方でしょうか?」
「ええ、昨日まで」
ピーターは先ほど私が彼にしたように、今度は私の頭の先からつま先までをじっくりと眺める。
「なるほど、たしかによく観察すると同業者の空気というのはあるかもしれませんね。もし、よろしければ……」
先輩として、まだ道半ばの私にその生き方を教えていただけませんか?
次の職場が決まるかどうか。この先執事にキャリアアップできるのか。期待と焦燥を抱いている若者に聞かれ、私は人生を振り返りながら語ることにした。
列車はいつの間にか走り出しており、窓は町並みではなく長閑な林を映し出している。
執事になるためには、ボーイ→フットマン→執事、と転職しながらキャリアアップしていきます。
久我真樹様著「英国メイドの世界」(講談社)を参考に職業を書いています。




