化野吟 ③
一日に二回も外に出られるとは。吟はまだ暑さの残る夕暮れの空気を肌に纏わせ、周囲を見渡す。
ここは、音羽山の中腹に存在する《心身美神社》の裏口付近にある用水路だ。豊海に背後から押される形で、吟は後ろ手を拘束されたまま、生臭い匂いが漂う用水路を歩いていく。
「大丈夫だ、神さえいれば、何度でも蘇る」
ブツブツと呟く豊海を後目に、吟は軽蔑するように息を吐き捨てる。
初めて《心身美教》の存在を知ったのは、今からちょうど一年前だ。
化野金城の、葬式の時のことだ。
事業に失敗し多額の借金を負った両親の前に、祖父の後見人を名乗る男が現れた。野川豊海だ。
豊海は、「借金を肩代わりする」という甘言で両親を誑かし、代わりに吟を引き取ることを条件として提示した。
葬式の帰りに、祖父の遺品整理だと言われ、心身美神社に連れてこられた。その時に出された黒豆茶を飲み、気が付いた時には、あの社に閉じ込められていた。
いつの間にかいなくなっていた両親。それが、彼らが出した答えだったのだろう。
一年しか経っていないというのに、随分と遠い日のことのように思う。吟は自嘲気味な笑みを浮かべる。当初は両親を恨みもしたが、今となっては両親の顔すら記憶が薄い。
どうして、今更逃げ出そうと思ったのだろう。
吟はそんなことに思いを馳せる。今日は、心身美教の大事な《記念日》で、信者達は忙しく動いていた。そんな中、朝食を運んできた信者が神殿の鍵をかけ忘れていたものだから、つい、思ってしまったのだ。
今なら、自由に出られると。
その可能性が脳裏に過ぎってしまったら、抑えることなんてできなかった。朝食を置き去りにし、裸足のまま外へと飛び出した。久しぶりに浴びた太陽の光に涙が出そうになった。走って、走って、獣道で足をボロボロにしながら、あの赤い門の前で、彼女に出会った。
飯田透子に。
彼女は、今頃どうしているだろう。無事に北区で来ただろうか。せっかくの親切をこのような形で仇にしてしまうのは、本当に心苦しい。吟は、彼女の無事を願いながら小さく息を吐く。
そういえば。
吟はあることを思いだす。
《なぜ、こんなにも親切にしてくれるのか》と聞いた時、彼女は心底不思議そうな顔をした。その後、「普通は助けるもんやと思うよ」と、疑問そうな表情のまま答えた。
親切にしてくれる人間は、これまでにもたくさん出会ったことはある。でも、それはあくまで《人間関係》が成立している上での話だ。親子関係、友人関係、教師と生徒、先輩と後輩、そういった人間関係の上での話だ。その証拠に、八坂神社までたどり着くまでの間、傷だらけの自分を気に留めるものなど存在しなかった。西楼門の前で座り込んでいた時も、視線を感じることはあったが、声をかけるものなど一人もいなかった。あまりにみすぼらしい自分の姿を見て、皆思ったのだろう。「関わると面倒そうだ」と。
しかし、透子だけは違った。
きっと、彼女は赤の他人にも分け隔てなく親切に出来る、素晴らしい人格の持ち主なのだろう。
吟は、豊海の様子をうかがう。彼は、俯いたまま「ふふ、ふふ」と不気味な笑みを浮かべている。神に縋ることしかできない人間は、こうも醜いのか。気持ち悪さを感じながら、吟は今の状況を把握する。
拘束されているのは、両手と口のみ。叫んで助けを呼ぶことは叶わない。それでも。
足は自由だ。
吟は立ち止まり、振り返る。そんな彼の様子を、怪訝そうに豊海は見つめる。
「神よ、早く進んでいただかないと追っ手が来ます」
こちらに伸びる豊海の手を避け、吟は、豊海に思い切り体当たりをする。
「ぐっ」
バランスを崩した豊海の隙を付き、吟はその脇腹に向かって思い切り膝蹴りを食らわせる。豊海が尻餅をついたと同時に、吟は踵を返し、まっすぐ用水路を駆け抜ける。背後で豊海が叫ぶ声が聞こえるが振り返らない。足の痛みを無視して、とにかく懸命に、外だけを目指して走っていく。
しばらく走ると光が見える。出口だ。
視界が歪むのを自覚しながら、その光に向かって真っすぐに駆け抜けた。
出口の先にあったのは、崖だった。
「神よ、どこへ行かれるのですか?」
感情のない、生気が消えた声が背後から聞こえる。豊海だ。吟は猿轡をかみしめ、振り返らずに足を一歩踏み出し。
崖を、飛び降りた。
ふわりと身が浮く感覚の中で、豊海の悲鳴に似た怒号が聞こえた。