飯田透子 ①
「助かりました……」
五百ミリリットルのミネラルウォーターを一気に飲み干した後、少年は深々と頭を下げる。透子は「それはよかった」と呟いた。
「あの、飲み干しておいて申し訳ないんですけど。俺、お金を持っていなくて」
「いや、ええよ。水くらい」
「……すみません」
そう言って少年は、申し訳なさそうに俯く。透子はコンビニの壁にもたれ掛かる。東大路通りの向こうで、は、八坂神社の西楼門が赤々と輝いていた。
「別にええんやけどさぁ。なんで、こんな暑いのにあんなとこにしゃがみこんでたん?」
「それは、その」
少年は、少し言いづらそうに俯く。ペットボトルをぎゅっと握りしめながら、少年は「散歩を、していまして」と口を開いた。
「散歩?」
怪訝そうな顔を向ける透子を他所に、少年は「はい、散歩です」と顔をあげて大きく頷いた。
「このクソ暑い中、無一文で散歩ねぇ……」
透子は、少年の足もとに目をやる。ボロボロの草履と擦り傷だらけの細い足が、着流しの裾から覗いていた。
「随分と長い散歩やったんやねぇ」
「えぇ、まぁ……。その、たまたま目に入ったあの神社に立ち寄って、そうしたら、少しめまいがして。それで、あの場所で休憩していたんです。……そうしたら、動けなくなってしまって」
そう言って俯く少年に、透子は呆れかえる。休憩するなら、もっと涼しい店の中ですればいいのに。透子は「ほどほどにしたほうがええで」とだけ口にした。
「あの、お水ごちそうさまでした。では」
そう言って会釈すると、少年は四条通りの方へと歩いていく。しかし、体力がまだ戻り切っていないようで、すぐに足を縺れさせて派手に転んだ。透子は「あぁ……」と呆れた声を零しながら、少年のもとに駆け寄る。
「なぁ。家に帰った方がええって。それか、病院か。救急車、呼んだろうか?」
「いえ、だめです」
そう言って少年は透子に縋りつく。その表情はあまりに切羽詰まっており、透子は少し気圧された。
「病院も、家も、ダメです。大丈夫です、俺」
「そう言うても、やばいくらいフラッフラやけど」
透子の声を無視し、少年は「大丈夫です」と立ち上がり再びどこかへ行こうとする。
その時、少年の腹から、ぐぅぅ、と低い音が鳴り響いた。
そっと顔を赤らめる少年に、透子は本日何度目かわからないため息を吐いて、「あぁ、もう」と頭を掻きむしる。そして、透子は「なぁ、少年」と言葉を続ける。
「水代の代わりっちゃなんやけど、ちょいと付き合ってくれへん?」
「え?」
「ええから」
困惑する少年の手をやや強引に引っ張り、透子は四条通りの方へ進んでいき、蕎麦屋の中に入る。
「いらっしゃい」
にこやかに微笑む店員に「ザル蕎麦二つ」と注文すると、透子は少年を連れて、入り口手前のカウンターに腰を掛ける。五分もしないうちに、二人の目の前に、底の浅いザルの中に山のように盛りつけられた蕎麦と、緑色のネギが泳いでいる御汁が並べられた。
「食べ」
透子はそう一言少年に告げると、カウンターに備え付けられていた割り箸を渡す。そして、水をコップに注ぎ、少年の前に置いた。少年は目の前に運ばれてきたザル蕎麦に、ごくりと唾液を飲み込む。その隣で透子は両手を合わせ「いただきます」と呟いた。
「あの、俺。お金、持っていません」
「知っとるよ。ええから、食べな。二つも食べられへんわ」
「……必ず、返します」
そう呟くように宣言すると、少年は両手を合わし、丁寧に「いただきます」をした後、目にもとまらぬ速さで蕎麦を口に運んでいく。誤嚥しそうだな、そんなことを考えながら、透子はのんびりと蕎麦を啜った。
「あの、連絡先を教えてもらってもいいですか? 後日、お返しますので」
「別にええよ。大した額やないし」
「いえ、さすがにそういうわけには。水まで買ってもらって、昼食までごちそうになるなんて」
「食い下がるなぁ……」
身を乗り出し、首を横に振る少年に、苦笑いを浮かべて、透子は手帳を取り出す。一枚紙を破ると、ボールペンで自分の名前とアイフォンの番号を記入した。
「はい。これ。私の名前と、携帯番号が書いてある」
そう言って透子は少年に紙きれを渡す。少年は「ありがとうございます」と両手で受け取ると、大事そうに胸元に仕舞った。
「そういえばさ。君は名前なんて言うん?」
そう尋ねた瞬間、少年の表情が固まる。名前を聞くのも駄目なのか。中々ややこしいな、と透子は「嫌ならいいんやけど」とフォローを入れた。少年は首を左右に振って「いえ、大丈夫です」と頷いた。
「吟、です。化野吟」
「へぇ。銀色のギン?」
「いえ、詩吟の吟、です」
「古風でええ名前やねぇ」
「……ありがとう、ございます」
少年――化野吟は少し照れたように笑う。初めて見る笑顔は、年頃の少年らしく愛らしかった。
こうしてみると普通の少年に見えるのだが、吟の傷だらけの手足や、家や病院を避ける態度。少なくとも、何かしら問題を抱えていることだけは確かだろう。
深入りすれば面倒なことになりそうだ。
透子は蕎麦の出汁を啜り、どうしたものかと思考を巡らせる。こういう場合は、素直に警察などの公共機関に頼るのが正解だろう。しかし、病院が嫌ならば、きっと警察も嫌がるのは容易に予想がつく。どうしたものか、と腕を組むと、吟は「あの」とおずおずと口を開いた。透子は「うん?」と聞き返す。
「透子さんは、どうして親切にしてくれるんですか? 初めて会ったばかりの俺に」
「……普通は、目の前で倒れている人がいたら、助けようとするもんやと思うよ」
「そうなん、ですか」
「あと、誰かのために行動すると、心が洗われるらしいし」
「え?」
「こっちの話」
透子がそう返すと、吟は「はぁ」と釈然としない顔で吟は頷く。
しかし、何故吟は「親切にしてくれる」ことに疑問を持ったのだろう。あまり、周囲の人間に恵まれていなかったのだろうか。そんなことをぼんやりと想像しながら、透子は少し切ない気持ちになる。
「吟君。散歩や言うてたけど、何か四条に用事あったん?」
「いえ、そう言うわけではないんです。本当に、ただあてもなく歩いていただけなので……。えっと、透子さんは?」
「私も似たようなもんやね。社会に疲れた心を、古の都に癒してもらおうと思ったんよ……。でも、暑すぎたなぁ。重要文化財は圧巻やったけどね」
そう言って透子は苦笑いする。
「吟君は、本殿にお参りした? 何か願い事、した?」
「願い事、ですか?」
「うん。なんか、叶えたいこととか」
透子の質問に、吟は俯いて考え込む。何気ない話題提供だったのだが、思いのほか真剣に捉えられて、透子は「吟君?」と困惑する。
「人間に、戻りたい」
その言葉に、透子は「はい?」と聞き返す。吟は、ハッと顔をあげる。
「忘れてください」
少し慌てたように詰め寄る吟に、透子は「お、おう」と少し引き気味に頷いた。
吟は小さく息を吐くと、スッ、と立ち上がる。
「あの、ごちそうさまでした。また、連絡します」
「あ、ちょっと待って」
背を向けて歩き出す吟を止めようと、透子は立ち上がる。慌てて店員に料金を支払い、吟を追うべく外に出る。
外には、一台の黒塗りの車があった。なんだ、この威圧感溢れる車は。透子が瞬きする間に、その車の扉が開き、吟を吸い込んでいく。あっという間に吟を連れ去った車を眺めながら、透子はあんぐりと口を開いたまま、バッグからアイフォンを取り出し、《一一〇》をプッシュして耳に当てる。
「あ、もしもし警察ですか? はい、事件の方です」