飯田透子 ⑪
――……あぁ、やばい。刺される。
そう覚悟し硬く目を閉じた時だった。
頭が急に軽くなり、同時に豊海の悲鳴が聞こえる。慌てて起き上がり、振り返ると、そこにはひっくり返っている豊海が伸びていた。その向かいで、吟は荒い息を吐き出した後、ナイフを拾って豊海に向かって振りかざす。
「吟君」
止めようと透子が起き上がった時、吟はナイフを放り投げた。ナイフは、カンッ、と高い音を響かせて坂を滑り落ちていく。吟は透子を振り返ると、ふら付きながら、どうにか透子を助け起こした。
「大丈夫ですか? 透子さん」
「あぁ、いや、その」透子は吟の右腕を指さす。「君こそ、大丈夫?」
吟の右腕は真っ赤な血で汚れていた。透子を庇った時にナイフで切ったのだろう。右腕に刻まれた細長い線から、ダラダラと血液が流れている。
「あぁ!」
吟の掌を凝視して、豊海は頭を抱えて顔を青くする。唇を震わせて「あぁ、神を……。神を傷つけてしまうなど」とブツブツと呟いていた。
透子は起き上がりながら、青年を見つめる。
――……気持ち悪い、けど。
その小さく丸まった身体は、どこか哀愁めいていた。きっと、彼の中で《絶対的な何か》が壊れてしまったのだろう。
何かに《固執》している人間は、こんなにも哀れで、脆いのか。
とはいえ、感傷に浸っている間はない。透子は、依然として豊海を見下ろしている吟の腕を掴む。
「早よ離れよう。仲間が来るかも」
「《教主》」
透子の声を遮るように、吟は豊海を呼ぶ。《教主》という言葉に、豊海は涙と鼻水で濡れた顔をあげた。
「神よ、あなた……、初めて私のことを教主と呼んでくださいましたね」
心底嬉しそうに微笑む豊海に、吟は無表情のまま言葉を続ける。
「俺は神じゃない。あんたらの言う《神》は、とっくの昔に死んだんだ」
吟の言葉に、豊海は笑顔のまま硬直する。
吟は小さくため息をつくと、豊海に背を向けて歩き出した。
「待って、待ってください。我が神よ」
「野川豊海だな」
豊海の声を遮るように、彼の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声と同時に、周囲がスポットライトで照らされた。
悠斗だ。
透子と吟が振り返ると、いつの間にか周囲を警察が取り囲んでいる。ようやく終わったようだ、透子は安堵の笑みを悠斗に向ける。
悠斗は、不機嫌そうな顔で、地面に蹲る豊海を見下ろしていた。
「野川豊海。署までご同行願おうか」
そう言って、悠斗は豊海に手を伸ばす。豊海はその手を振り払い「触るなぁ!」と叫んで懐をまさぐった。
取り出したのは、ナイフだった。
まだ持っていたのか、目を見開く透子を他所に、豊海はそのナイフを自分の首筋に当てる。
「待て、早まるな!」
声を荒げる悠斗の言葉など耳に入っていないようで、豊海はそのナイフを持つ手に力を込める。
ブツッ、と鈍い音がした。




