プロローグ ― 未来視か走馬燈
―――― 心のどこかで、甘く見積もっていた。
彼女は目前に迫る巨体を呆然と見上げて、そう思った。
鈍く光を反射する、見るからに鋭利な鋼の爪と牙。
岩質の表皮は巨体のいたる所で互いにぶつかり合い、絶え間なく耳障りな轟音をあげる。
ひとつ歩みを進める。それだけで地響きを起こすその化け物は、出来上がったばかりの身体の調子を確かめるように長い首を振り回し、岩で形成された翼を二度、三度と大きく振るった。
それだけで……この怪物にとっては準備運動にも満たないようなその動きを見ただけで、彼女の頭は理解する。
あまりにもかけ離れた存在だと。たとえ束になった所で人がどうにか出来るような存在ではないと。
それを退治するために努力する彼を、短い期間だが見てきた。
そして彼らの強さなら簡単に倒して見せるのだろうと、楽観していた。
だが今ならそれが容易ではないことがわかる。
―――― これは災害だ。
実際に何度も聞いていた。この世界における最悪の災害。街中で起きればそれだけで百人単位の犠牲者が出る。
話だけは何度も聞いていたはずなのに。彼女は己の想像力の無さを呪った。
あるいはそれは仕方のないことだったかもしれない。
平和な国に生まれ、平和な街の素朴な家庭で育ち、災害なんて年に三回くらい来る台風だけ。死者が出るような大災害も戦争も、テレビの中の出来事だった。
ましてあちらの世界には、こんな怪物は……竜なんて怪物はいなかったのだから。
「あ、あはははー。……や、嫌んなっちゃうなあ、もう」
状況にあまりに不似合いな言葉が漏れる。
口を開いていなければダメな気がした。
何か大事なものが失われて、二度と戻ってこないかもしれないという不安。
それを死と呼ぶのなら、死なない為に彼女が今できることは喋ることだけだった。
「お、おかしいよね? ワタシなんでこんな……夢かなーって実はちょっと思ってたんだけど。ていうか今もちょっと思ってるんだけど。……ねえ? なんていうの? ファンタジーとか異世界とかさ、もうちょっと、その……慈悲は無いわけ!?」
竜がこちらに視線を向ける。
岩石を素に形作られたその巨体にも、聴覚は備わっているらしい。
このまま喋っていても死ぬだけだとわかっている。それでも彼女の口は止まらない。
「たとえばね? たとえばなんだけど、奇跡的に賢いタイプで人の話が通用したりとか」
岩と岩とがぶつかり合う硬い音を鳴らし、岩竜がゆっくりとその前脚を振り上げる。
青い炎のように光る瞳でこちらを真っすぐに睨みつけたまま。
ああ、ちょうどうちのマンションぐらいの高さかな、なんて益体も無いことを考える。
口の中の水分は急速に乾いてしまった。あれだけ回り続けた舌も震えて、もうまともな言葉は発せないだろう。
それでも視線だけは逸らさない彼女に対して、怪物はひどく醜悪な笑みを見せた……ように見えた。
あの前脚が落ちてくるまでの時間が、命の残り時間だと直感する。
身体は震えてしまって一歩どころか這って動くことすら出来そうにない。
都合よく何かの能力には……もう目覚めてしまったんだった。
同時に、彼の姿が脳裏に浮かぶ。
―――― ああ、そうだ。――――なら……。
それはあまりに身勝手な願いで、そして心の奥底からの祈りだった。
「たすけて! ――――――!!」
悲鳴のような救いを求める絶叫は、竜の咆哮にかき消されて聞き取れなくなる。
直後に衝撃が彼女を襲う。
前脚が振り下ろされる直前に彼女が見たのは、ひたすらに澄んだ青空だった。




