私と貴方
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他人と自分を境界線で区切って考えることが大切だと、人は言う。確かにそうかもしれない。しかし頭で分かっていても、僕にはそれが難しい。自他を隔てる境界線は僕の中に確かに存在している。僕の場合、それは円であり、水面であるといえるかもしれません。とにかくそれは僕の中にある。あるはずなのに、他人と接するとそれが揺らいでしまう。あたかも水面に石を投げこんだときに生じる波紋のように、それは僕の心を掻き乱す。他人に心ない事を言われると動揺し困惑し悲しくなる。他人に怒られると萎縮して何をしたらいいか分からなくなる。他人に失望されると何で自分は生きているのだろうと思う時もある。一方で心が通じる(と私が勝手に思わせてもらっている)友人と一緒に過ごしていると楽しいし幸せな感じがする。他人から感謝されたときなどは言葉で言い表せないくらい嬉しくなる時もある。人との付き合いは辛いことも多いけれど、楽しいことも多いでしょう。あたりまえかもしれませんが、改めて考えてみると人というのは本当に不思議だ。まだ19年しか生きていない僕がこんなことを書くのは何だか気が引けるのですが、ここまで読んでくださった貴方だ。恐れを抱かず率直に僕がこれまで生きてきたなかで他人と触れあって感じたことを書こうと思います。
今、そして過去を振り返ってみると人というのは本当に色んな人がいる。性格も一人一人違うし、容姿も考え方も物事のとらえ方も服の着こなし方も何一つ同じ人はいない。なぜあの人は他人に対して攻撃的なのだろうか、なぜあの人はあんなに人当たりが良いのか。そんな感じで他人を見てみると興味が尽きない。話してみれば意見は違うし、何かをすれば共感してくれる人もいれば反対してくる人もいる。それを立場というのかもしれないけれど、全員が同じ意見というのはありえない。真っ向から意見をぶつけてくる人もいれば、陰でお前は嫌いだと小細工をする人もいる。貴方が嫌いというのを表現するしかたも人によって千差万別といえる。かくいう僕も当然苦手な人はいるわけで、そういう人とは距離を置きたいと思い物理的に距離を置こうとするのだが、天の悪戯かはたまた前世の行いが悪かった報いなのか何故か一緒に作業することになったり目の敵にされたりしてしまう。特に中学の時がきつかった。渡されるプリントは宙を舞い、廊下ですれ違う時には舌打ちをもらい、僕のいる所で聞こえるように僕の悪口を言う。そんなに繰り返さなくても聞こえてますよっていうのが僕の当時の切実な想いであり、非常に居心地が悪かった。彼とは幼稚園以来の付き合い(といっても違うグループなのであまり交流はなかった)だが、僕の記憶には彼にそんなに嫌われるようなことをした覚えは無い。しかしあんなに嫌われていたことを考えると、きっと僕は何か彼の気に触ってしまうことをしたのだろうと思う。幸いに仲の良い子達でグループを形成していたこともあってなんとか乗り切れたが、一人だったら耐えられたか自信がない。高校進学と同時に彼とは別れたが、それが私にとっての強烈な個性を持つ人との最初の出会いだったように思う。高校の時は平和だった。3年間通して夏休み冬休みともにほとんどなく、毎日夜遅くまで授業があったけれど全然平和だった。全体的に多少先生は個性的だったけれど…まあうん。中学に比べたらいうまでもない。天国だった。そう、問題はその後だ。大学受験を辛うじて突破し入った大学。入ったばかりで慣れない大学。高校時代の友人は東京やら大阪やら色々な所に散らばってしまって知ってる人がほぼいない。心細いがこれから新天地で頑張ろうと思った矢先、彼との出会いがあった。あえて詳述はしないことにする。まあ簡単にいえば、30人くらいの少人数クラスで6班に分かれてディベートをすることになった。その前に二人一組で会話をすることになった。知ってる人いないかなーとあたりを見回すとなんとクラスは違ったけれど、同じ高校だった人がいた。世間話もかねて話しかける。反応を示さない。おおー無視か?と思ってしばらく黙って様子を伺う。講師がこちらを見てきたので仕方なく一人で話す。結局終わるまで一瞥もされなかった。辛い。ついであみだで班を決める。やったね、先ほどの彼と一緒のグループだよ(白目)。幸い彼は気が強かったのでディベートでは無双しました。色々問題はあったけど、うん。ひたすら僕は補助に徹するしかなかったけれど、最終的には優勝しました。色々考えさせられたし、色々思うところはあったけれど、良い経験をさせてもらったと思います。高校時に彼と話したことは無かったけれど、何で嫌われてしまったのか分からないけれど。とにかく彼は僕のことが気にくわなかった。僕は正直彼が怖かったです。
もしかすると理屈じゃないのかもしれません。なんとなく嫌いだから嫌い。なんとなく好きだから好き。友達が悪く言ってるから嫌い。友達が良いと言ってたから好き。いじめられてる人は人間的に劣っているから、心ない事を言っても問題ない。そんな考えが僕も含めて人という生き物の中に程度の差こそあれあるように思えます。良いとか悪いとかじゃなくて、人は自分より弱い人に厳しくあたりがちです。こんなことを書くと顰蹙を買うかもしれません。しかし僕は綺麗な事だけを並べ立てることに意味を見いだせません。苦しみを無いように扱うことが果たして良いことなのでしょうか。それで果たして世の中が良くなるでしょうか。すいません、僕にはどうしてもそうは思えません。それで顰蹙を買うのならば、仕方がないとも思います。
問題提起、果たして人は自分とは違う存在かどうか。僕と貴方は違うのでしょうか。殴られたら痛くありませんか。怒鳴られたら怖くないですか。仲間はずれにされたら悲しくありませんか。無視されたら胸が痛くなりませんか。独りだと寂しくないですか。優しくされたら嬉しくないですか。辛いとき一緒にいてくれる人がいたら頑張れませんか。心が他人と通じたら会話が楽しくなりませんか。思い当たることがあるのなら、僕も貴方も同じ人として存在しているのではないでしょうか。もちろん考え方は違うし、育ってきた環境も好きな食べ物も好きな動物も違うでしょう。ちなみに僕はハリネズミが好きなのですが、こんな駄文を見てくださっている貴方はどんな方なのでしょうか。興味が尽きません。話しが逸れましたね、すいません。つまり僕は貴方とは違うけれど、貴方と同じ人であるというのが僕の持論です。だから冒頭で書いた境界線は僕はあやふやでいいと思っています。これが揺らぐことによって人は他人について深く考えを巡らすのだし、深く人について考えることもできます。人が感じる痛みは見逃されていいのでしょうか。少人数が被る悲しみや苦しみは見逃されて良いのでしょうか。それを見逃したまま来たのが今の日本なのではないでしょうか。まだまだ書きたいことは沢山あるのですが、いったんここまでで置いておこうと思います。もし読んでくださった方がいるのなら、貴方に感謝を。ありがとう。