07アレス
おもむろに空を見上げれば鳥が数羽、仲睦まじそうに羽ばたいていた。
とうとうあの話が母の口から出てしまった、とリラは思った。女に生まれた以上、結婚をし家に入るのは自明なことではあったが、それがはっきりと言われてしまうとなるとどうにもやるせないのだ。
あと二年が限界だ、とリラはそう確信した。リラの友達にも既に婚約者を決めている同い年の娘は多いし、気の早い子であると手習い所を辞めて家で花嫁修業のようなことをする娘もいる。この国では女に学は必要ないのだ。手習い所の高次機関である学校には男しか、それも極めて優秀な者しか行くことが出来ない。こうしてリラが手習い所に通うことが出来るのも両親が先進的な考えを持っているからにすぎず、酷くなると中退どころか最初から学ぶことすらしない字が書けない女でさえもいる。
母親が薦めてきたナートという青年は、時計職人としての腕も期待されているし見目も良い。年齢差もちょうどよく、この街で結婚するのであれば申し分ないほどの好物件だ。しかしリラは彼の意地汚い視線が苦手であったし、自身より聡い女には手厳しくなる彼が嫌だった。あの手の男はきっと女が家から出ることを望んでいないし、自身の三歩後ろを歩くような慎ましやかな女子がお好みなのだろうと踏んでいる。何事にも興味を示し没頭する癖を持ち合わせるリラには向かないのだ。
ボランスのような人がいればいいのに、とリラはふと思った。紳士的、それでいて少しお茶目な部分もある。リラがすることに対して、危険なことであれば諭してくれるしすぐに辞めろとは言わずにある程度付き合ってくれる。知識も豊富でリラが知らないことばかりを教えてくれる。結婚する相手がボランスであったら、と考えを巡らせるもはっとする。何十年も、もしくは何百年も年が離れた、しかも骸骨の男と結婚するなどと前例がない話だ。それにボランスとしてもリラのことは娘のようにしか感じていないだろう。ぶんぶんと頭をふっていれば、おいと聞きなれた声が耳に入る。
「――なあにやってんだリラ。とうとうお前、この暑さに頭でもやられちまったのかよ」
「……なんでもない。それより珍しいねアレス、手習い所に行く道で会うなんて」
赤茶色の髪の毛に丸っこい人懐こそうな瞳。鼻の辺りには無数のそばかすが浮かんでいる活発そうな少年がリラの肩を叩く。半ズボンから出てる膝からはかさぶたが見え隠れする。生傷が絶えないやんちゃな少年なのだ。
「俺だって真面目に勉強ぐらいするよ! まあ母ちゃんも怖いしな」
「いつもそうしてくれるといいんだけどね」
真面目に勉強する、といいつつも彼は、筆記用具や本などを入れる鞄を持ってきていないようだった。リラがそれじゃあ勉強できないじゃないと呆れ呆れ言えば、彼はいたずらっ子のような笑みでポケットの中身を見せびらかした。丸まった本と鉛筆がその中に転がっている。
街のメインの通りである時計台を過ぎ、手習い所へと向かう。手習い所は時計台からすぐ近くの街の中心にあるのだ。子供が十五人近く入るとなると少し手狭ではあるが、街の住人の寄付で建てられたそこはリラの家よりは立派である。
「しっかし先生が亡くなった後だし、誰がするんだろうな。思わず来ちまったけどさ」
「本当にね」
赤いレンガ造りの家を前にして、二人はこそこそと話し合った。今まで指示していた先生は昨日無くなってしまったばかりなのだ。だれが代わりになるのかは分からない。後任が見つからなければこのまま手習い所というシステムが無くなってしまう可能性もある。