06朝
朝が来た。リラの心の穴はすっかりと消えて無くなっていた。
リラの家は裕福ではないが貧困に喘いでいるわけでもない。ごく一般的な家庭だ。そのため風雨をしのげる屋根と壁がついた家に住むことができる。しかし裕福なわけでは無いので、家に多くの部屋があるわけでもなく。いつも家族で一つの部屋を寝室として寝起きしているのだが、朝起きてみると誰もいなかった。毎朝一番に起きる母親、その次に起きる父親がいないのは分かるにしても、家族の中で最も寝坊助な兄が隣のベッドにいなかったのだ。
リラは不思議に思い、手早くいつもの服に着替えてリビングへと向かった。
母親がことこととスープを煮る音や、表の通りで朝市が催されているため張った声、時折馬車がデコボコの道を通り過ぎる音が耳に届く。煮炊きをする母親の背に、まだ眠気眼のリラは問いかけた。
「……ねえ母さん、兄さんはどうしたの?」
「おはようリラ。あら随分と早いわね。シリウスなら今日は早く行かなきゃいけないって、朝ごはんも食べずに出て行ってしまったわよ。ほら、ご飯の支度をして。今日も手習い所に行くんでしょう?」
「はあい」
テーブルの上には籠に入ったバゲットが乗っている。リラは食器棚から兄の分を除く皿を出した。そのままぼそぼそとしたバゲットを何もつけずに食べていると、母親が深めの皿に入ったスープをリラの前に置いた。じゃがいもとにんじん、そしてソーセージが入った透明なスープだ。リラがにんじんを確認して露骨に顔を顰めると母親は「きちんと食べるのよ」と忠言した。それに渋々従って口に運ぶ。
「そろそろあなたのお洋服も新調しなきゃね。女っ気が無いんだもの」
「お金がかかるからいいよ。まだ着られるし」
リラの真正面に座った母親がそれじゃあ駄目よ、と目を少しとがらせる。
「あなたもそろそろ結婚の年なんだから。そろそろ考えなきゃいけないわ。そうだ、ナートはどうかしら。ほら、シリウスと同い年の」
「見目がいいから、きっと恋人がいるに決まってるよ」
リラは少々バツが悪くなって、スープとパンを急いで食べ終えると席を立った。いそいそと食器を下げる。母親の話を遮るように、今日は早く行かないといけないからと棚に置いていた鞄を肩にかけた。
「今日は何時に帰るのかしら」
「何もなければ夕方には帰れるよ」
「それじゃあ帰りにいつものチーズを買ってきてくれないかしら。今日の夕食に使おうと思って」
「分かった」
机の上に置かれた三枚の銅色の硬貨を手に取って、リラは家を後にする。母親は気を付けて、とリラに手を振った。
外に出れば空は青く、からっとした暑さが身を包む。涼やかな風がリラの髪の毛を遊んでいく。
まともに均されていない道はでこぼことしており少し歩きにくかった。道に沿って朝市が開かれており、軽食や今朝獲れた野菜などが店先に並んでいる。人通りが多いのは、始業時間が近いからであろう。鮮やかなエプロンを着た店のおばちゃんおじちゃんは誰もが近所の人間で、リラが見知っていた。その人たちに口々に挨拶をしながら手習い所までの道をゆく。
「――リラ、今日も勉強かい? ごくろうさま。うちの息子にも見習ってほしいものだねえ」
リラの家の真向かいの家の少しふとっちょのおばさんだった。どうやら朝市の帰りのようで、腕には野菜や牛乳の瓶が入った手提げ袋を提げている。困ったようにやれやれと肩を竦めた彼女はリラと同い年で勉強が大の苦手な息子のことを案じているようだった。というのも彼が手習い所に来るのは朝の時間を一、二時間過ぎたころで、しかも不真面目でいくら経っても足し算を間違えてしまう。試験の頃にはリラがつきっきりで教えるのがいつものことだった。くすくすと笑って返答する。
「アレスは勉強より遊ぶ方が好きみたいですものね、でもおばさん大丈夫。次の試験までにアレスの頭に叩き込んでおきますから」
「そりゃあ頼もしいね! この際あいつの頭に拳骨でもやっておくれ、そうした方が物覚えが良くなるかもしれないからね。それじゃあ頑張るんだよ」
「はーい」
確かに拳骨の一つでも食らわせた方が物覚えが良くなるかも、とリラは思いまた笑ってしまった。彼にはそれぐらいの痛みを与えた方が逆に刺激になってきっと良い方向に向かうだろう。




