05訃報
葬儀はその日のうちに行われた。この街には、死んだ人間はその日のうちに埋葬しなくてはならないと言う掟があるからだ。リラは葬儀には参加できなかったものの、先生のもとへ花を手向けには行った。
齢は八十を超える。皺が刻まれた顔、白髪交じりの髪の毛、大きな手は胸の前で交差されていた。白い布に包まれた彼は今にも起き出しそうだった。この街では人間は六十前後で死んでしまうので、彼は大往生であったのだろう。八十を超えているというのに背筋はしゃんとしていて、頭も呆けていなかった。生徒たちに勉学を教える姿は、本の中に出てくる都で王に仕える騎士のように誇り高い姿に見えた。ただの流行り風邪ではあったが、やはり老体には堪えたのだろう。彼の娘が水差しに入っている水を交換しに行った時に、既に体が冷たくなっているのを発見したのだと言う。苦しんだ表情ではなく、安らかにこの世を去ったようだった。街に一人しかいない医師が死亡を確認すると、あとはとんとん拍子に準備が進んだ。
不思議とリラは悲しいとは思わなかった。なぜだと言われても分からない。最初は酷く悲しく、胸が締め付けられていたのにどういうわけか時間が経つごとにその悲しみが消えていってしまうのだ。
窓の外では再び雪が降っている。夏の雪だ。死体のにおいがする。
夕焼けがあたりを埋め尽くす。台所では母親が包丁を振るっていた。
不幸なのか幸運なのか、いや彼にとっては幸運なのだろう。リラの唯一の兄であるシリウスが日頃の仕事ぶりを認められ、大きな仕事を任されるようになったのだと言う。それはリラが頻繁に上っている時計台の時計の調整の仕事で、内部の機器に触れることを許されたのだそうだ。今までは時計の内部をいじる兄弟子の姿を補佐として眺めることしかできなかったシリウスではあるが、明日からは時計台の中に入る。シリウスの同僚も、彼の速い昇進に驚きを隠せないようで羨ましがっていたと、鼻高々な兄からリラはその話を聞いた。
母親はシリウスの昇進を祝って、久々に腕によりをかけて料理を作っている。同じく時計職人をしている父も早いうちに帰ってくるだろう。今日のごちそうは彼が好きな鶏肉のソテーだ。
「……こんなに雪が深々と積もってるとさ、まるで“憂戚の夜”みたいだな」
「やめてよ兄さん、そんな縁起でもないことを」
同じくこげ茶色の髪と瞳を持つシリウスは、ぽつりと呟いた。リビングにはテーブルと四つの椅子が置いてある。その縦に一列に並んだ椅子に兄妹が腰かけ、夕食を待っていた時だった。母親は兄の話など聞いていないようで、流行りの曲を口ずさみながら調理をしている。
リラが縁起でもないというのも無理はない。憂戚の夜、それはこの街に口伝えされている戒めの話であり、この街の住人が忌み嫌う季節外れの雪の由来となる話だからだ。
その夜は、いつもより麦の収穫量が少ないある年に、今日と同じように雪がとめどなく降り続ける日にやってきた。
一夜のうちに街の人間が十何人と死んだ。その死体は何かに食われたかのように部位が所々欠けていた。冬眠前に餌が無くなり人里に下りてきた熊の仕業だと言う者や、野犬の仕業だという者がいたが、野にいる動物は人家の鍵まで開けやしない。街のどこかにいや街の人間の中に罪を犯した者がいるに違いない、と高らかに叫んだ青年の一言をきっかけに、街中が混沌に包まれた。誰しもが隣人を疑い、口論を繰り返す。しかしその中で唯一生き残った少女が、体の大きい悪魔のような化け物が人を貪り食っているのを見た、と証言したことから人々は疑うことをやめた。
少女が化け物のせいだと言ったのも、きっと周りの大人のぎくしゃくとした空気に耐えきれなかったからと見当づけるのが妥当だ。少女の発言が、大人たちの目を覚まさせるのには充分だった。死者に意識を囚われすぎて、第一に考えるべき生きている人間――、自らたちのことを蔑ろにして諍いに時間を充てすぎた。
死者に対してよりも、少しばかりでも隣人を疑い、諍いを繰り返した自分たちの行動にこそ憂戚するべきだ。それが街の誰もが知る憂戚の夜の名前の由来だった。その後、毎年一定数の熊と野犬を猟師が狩るという取り決めがなされてから、そのような出来事は今に至るまで一切起きていない。
おそらくそれからであろう。季節外れの雪を街の人間が忌み嫌うようになったのは。
その年は麦の収穫量が特別少なかったこともあり、熊や野犬のせいではなく、誰かが口減らしのために殺したのかもしれない。全ては結局うやむやのままで、真相は不明だった。しかしそれを明らかにしようとする者はまずいない。口減らしのために街の誰かが意図して人殺しをしたなど、それは街の権威を下げることにつながるからだ。
頭の角っこでリラは、まるで忘れてしまっているみたいだと思った。
リラが帰って来たとき、母親は青ざめた顔で先生の訃報をリラに伝えたというのに、今となっては頭の隅に追いやられているように感じる。兄の方もそうだ。幼い頃に先生に勉強を教えて貰ったというのに、どうにも悲しんでいるようには見えない。
死者に対して憂い嘆いてはいけない、その戒めだけが解釈されている。死者を哀悼することは大切で、しなくてはならないことであるはずなのに、この街の住人はそれが抜けている。リラは街の住人たちが死者を忘れ去ろうと、悲しみを感じないようにしているようだと思った。今夜ばかりは自分の師の師をきちんと受け止めよう、そう思うリラだったがどうにも悲しみを感じないのだ。兄の昇進という喜ばしい出来事に気持ちが上書きされてしまっているのだろうか。だが心の奥にぽっかりと穴が空いているようだった。