こんにちは、魔王ちゃん
レールの途切れ目で、時折がたんごとんと揺れるが、それを除けば殆ど無音な、静寂が支配する電車の車内。既に日は橙色に染まりかけているが、今日は平日であるし、帰宅ラッシュにはまだ間があるため、車内の人は疎らで席もがらがらに空いている。
そんな車内で、俺は教科書の詰め込まれたバッグを抱えて、一人ぽつんと一番端の席を陣取っていた。
部活に入ってはいるけれど、今日はサボった。正確には今日もサボって、帰路についている。
最近は何故だか疲れが溜まって、何もかもを放り出したい衝動が胸の奥の奥の最奥で燻っている。いつどんなことが原因となって火柱を上げるか分かったものではない。
多分、今までのいい子ちゃんごっこに飽き飽きして、その反動がどっと押し寄せてきたのだ。こんな気持ちになるくらいなら、非行の一つや二つくらいしておけば良かった。俺は未だかつて、わるい子になったことがない。わるい子には少し、憧れる。面倒事は放り出して遊び呆け、大人の言うことには反抗して約束も校則も破って自由に過ごす青い春に、憧れる。
「まあ、きみくらいの年の頃には良くあることだろう、その手の衝動はな。そういうときはいっそのこと、本能に従って暴れてみればいいのではないか?いい子ちゃんごっこが飽きたなら、わるい子ちゃんごっこを始めようじゃないか」
がたん、と一際大きく電車が揺れたかと思えば、いつの間にか隣の座席に一人の女の子が座っていた。いつ移動してきたのか、全く気付かなかった。瞠目して彼女をまじまじと見つめると、その子はまだランドセルを背負っている程の年であるのだろう、小さな背丈の女の子だった。しかし、身長とは裏腹に、足や腕を組んだり、微かに口角を釣り上げて笑うなどの所作は、小学生とは思えないくらいに大人びており、ふてぶてしい。つまるところ、背はちっちゃくても態度はでっかい。
そのアンバランスさも人の目には奇異に映るであろうに、彼女のその姿は更に目を引くものだった。
長い黒髪は艶やかで、顔は人形のように愛らしく、端整な作りだ。しかしその肌は、人間離れしている程に白い。日の光が天敵のヴァンパイアですと言われれば、はいそうですかと納得してしまうだろう。しかもただ白いだけではなく、独特の雰囲気を持ち合わせた彼女のそれは、何故だか蠱惑的にすら見える。
しかし、何よりも周りの目を引く要因になるのは、その衣装だった。彼女は何処の悪役のコスプレだというような、漆黒のマントを羽織っているのである。しかもマントの下は、ゴシックロリータと呼ばれる類の、リボンとレースでヒラヒラしている黒のブラウスとスカートだ。
「……今日の美少女戦士はそんな格好してるの」
ぽつりと呟くと、彼女はきょんとんとした後、大きく溜息を吐いた。
「この衣装が、人間共の間で流行っている“こすぷれ”なるものの一つだとでも思っているのか?ああ、嫌だね、やだやだ。地球上の生命の中で最も愚かな種とわたしを一緒にしてくれるな」
わざとらしく肩を竦める少女に、俺が抱いた感想はただ一つ。
何だこいつ。
何のアニメキャラになりきっているのかは知らないが、彼女の親の教育は一体どうなっているのやら。もっとちゃんと教育しなきゃ駄目じゃないか。将来、娘が末期の中二病患者や電波系に育ったらどうするつもりなんだ。
それ以前に、この子の保護者は何処にいるのだろう。この車両にはそれらしき人影はない。
「ほら、黙ってないで何か返事はないのか?」
返答を促されたが、何をどう返事しろというのか。そう躊躇ったが、相手は小学生だ。ここはきちんと大人の対応をしなければ。
「えっと……さっきから自分は人間じゃないみたいな口振りだけど、そういう自分は何者なの」
取り敢えず少女の作った設定に乗って問えば、彼女は良くぞ聞いてくれたとばかりに嬉しそうだった。
「ふふん、聞いて驚かないように。わたしは遥か地の底、魔界より現れた征服者、魔王だ。きみらの世界を支配しにやってきたのだよ」
「………………な、何だってー?恐ろしい奴だー」
一瞬、状況把握というか設定把握ができなかった。何?彼女は魔王で、世界征服をしに魔界からやってきた?……なるほど、分からん。
普通、これくらいの年の女の子はプリティーでキュアキュアな美少女戦士に憧れたりするものじゃないのか?何をどう間違って魔王なんかになりきっているんだか。
しかし、俺の嘘くさい大根芝居に騙されてくれたのか、少女は大いに満足そうであった。
「ふふん、まあ当然の反応だろう。でもわたしは、その辺で宣う愚かな征服者とはわけが違う。わたしがこの世界を支配するのは、世界を救うために他ならないのだよ」
「……つまり?」
「温情もあるということさ。ここであったのも何かの縁だ、少年よ」
年下の女の子に少年呼ばわりされたのは生まれて初めてだ。人生って何があるか分からない。
彼女はぴょんっとシートから飛び降り、俺の目の前に仁王立ちをした。身長は、俺の想像よりもちょこっとだけ低かった。
「人生に嫌気が差していたのだろう?いい子ちゃんをやめてしまいたいのだろう?」
「それは、まあ」
「ならば、わたしの傘下に入るが良い」
不敵な笑みを浮かべた彼女は、マントの中からRPGのボスが持っているような形状の剣を取り出し、俺に向かって突きつけた。剣の素材はプラスチックだった。俺も昔、近所のおもちゃ屋さんでああいうものを強請ったなと思い出した。
「わたしの忠実なる下僕……即ち、部下となって世界征服の達成に貢献すると誓うが良い。さすれば、見事達成した暁には、世界の三分の一をくれてやろうじゃないか」
「まじか。俺三分の一もらえちゃうか」
「もらえちゃうのだよ。まあ、わたしの命には従ってもらうがな」
「俺も魔王の部下になれるのか」
「勿論だ。悪の心を持つ者なら、誰もが魔王の忠臣となる資格を与えられるのだよ」
「まじか。すごい」
適当な受け答えをしつつ、小学生なのに忠臣とか温情とか宣うとか、難しい言葉知ってるんだなー、なんてことをぼんやりと考えていた。
それを『魔王の部下となる自分の未来予想図妄想中で惚けちゃってます』という顔とでも受け取ったのか、少女は更に得意気になった。
「どうだ?我が傘下に入る気になったか?ん?」
「なったなった入れて入れて」
「ほう!やはりわたしの目に狂いはなかったな!きみはわたしの同志となる運命だったのだ!」
運命か。俺も運命の赤い糸が実在して、いつか可愛い運命の相手が現れると夢見た時期があった。
「さあ我が同志!共に世界を理不尽な支配者共から救うのだ!我が名は魔王、チェルシーだ。同志よ、きみの名は?」
「編塚朧、だけど」
「そうか!朧、きみは今日を以ってわたしの仲間だ!きみが魔王に忠誠を誓う代わりに、きみに降りかかる障害は全て振り払うと約束しよう!」
小さな胸を大きく張って声高に宣言する少女、改めチェルシー。最近の子のごっこ遊びは、やけに設定が細かいんだな、なんて思っていると、突然右手の拳を差し出された。
「え?」
「魔王との契約だ」
よく見れば、彼女の右手の拳は小指だけ立っている。魔王との契約は指切りらしい。
「契約の歌曲を唄おう」
「契約の歌曲って……あれ?小指と小指を交差させるやつだよね?」
「何だ、知っているのか。なら話は早い。別にわたし一人で唄っても特段問題はないが、折角だ。一緒に唄おう」
設定を作り込んでいるくせに、こんなところだけ子供っぽいんだなと、少し笑みが溢れた。
「いいよ。じゃあ一緒に唄おうか。せーのっ、ゆーびきりげんまー」
「“偉大なる魔王との契り~、交わした契約を違えたと~き~、きっさまの小指は頂くぞ~、針を全身に突っき刺っすぞ~”。はい、指切った。これで契約は完了したぞ」
「…………ああ、うん」
俺、あんな曲知らない。
というか、彼女の両親は本当に何処に行ったのだろう。まさか彼女は迷子か何かなのか?
「あの、チェルシーの、」
「あー、駄目だ駄目駄目!わたしのことはチェルシーさんと呼べ」
「……チェルシーさんのお母さんかお父さんは、何処にいるの?」
「両親?……ふふんっ」
俺の問いに、チェルシーさんは不思議そうに首を傾げた後、鼻で笑った。
「そんなものはいない。代々、魔王の血筋の者は五歳になると親と縁を切るのだ。その厳しい掟こそが、魔王という頂点に立つ者の育成に繋がるからな」
「……うん。じゃあチェルシーさんは、ここに誰と来たのかな」
「セルジオとだ。ああ、ほら、丁度あそこにいる」
チェルシーさんの視線を追うと、扉が開き、隣の車両から一人の青年が入ってきた。その服装は、チェルシーさんに負けず劣らず目立つ、黒ずくめの燕尾服だ。おまけに髪は青みがかっている。
綺麗に染めてるな。いや、それともヅラなのか?
彼はチェルシーさんの姿を見つけると口元に微かな笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。
「チェルシー様、こんなところにいらしたのですね」
「セルジオ。お前こそ何処に行っていたんだ。執事が無断で主の元を離れるなんて、有るまじき行為だぞ。それでも忠臣か?」
「私が目を離した隙にいなくなられたのはチェルシー様の方ですが……」
「何か言ったか?」
「いえ、何も。……それより、そちらの方は?」
セルジオ、と呼ばれた青年は俺に視線を向けたかと思うと、上から下までジロジロと不躾に眺めてきた。
何なんだ、この出逢い頭から失礼な男は。青髪に燕尾服なんていうイタイにも程がある恰好で外を出歩いてるくせに、自分のことを棚に上げて人を値踏みとは、良いご身分だ。
すると、俺がむっとしたことに気づいたのか、はたまたただの気まぐれか、チェルシーさんは俺とセルジオの間に割って入るかのように、俺の腕を掴んで引き寄せた。
「ふふん、こいつはな、わたしの新たな部下、魔王の忠臣だ。ほら朧、名を名乗れ」
「え?あー、えっと。編塚朧です」
「オボロ様ですか。良いお名前ですね」
セルジオは恐らく心にも思っていないであろう賛辞の言葉を、胡散臭い笑みと共に並べた。
俺、自分の名前あんま好きじゃないんだけど。そんな思いと共に、俺はこのコスプレ男とは何があっても仲良くなれないだろうな、という妙な確信を得た。
「というわけで、お前たちは今日からわたしという共通の主に仕える盟友だ。仲良くしろ、良いな?」
前言撤回。チェルシーさんは空気なんか読んじゃいない。この微妙な空気感の俺とセルジオにまさかの友達になれ宣言をするのだから。
しかしセルジオは、主様の言うことだからなのか、俺ににこやかに手を差しだしてきた。
「初めまして。私、チェルシー様の執事をしています、セルジオです。よろしくお願いします」
「は、はあ……」
一応、差しだされた手を握り返しておいたが、いまいち反応に困る。セルジオの方も、言葉とは裏腹に、特段俺と仲良くする気もないらしい。特に会話を膨らませることなく、あっさりと手を振り解いた。
「ところでチェルシー様は、何故こちらに?目を離したら乗っていた車両にお姿がなかったので焦りましたよ」
苦笑交じりにそう諫めるセルジオ。しかし、チェルシーさんの方はというと全く意に介すことなく「ふふん」と鼻を鳴らした。
「無論、一番先頭の車両に乗るためだ。先頭を抑えれば、この車内は魔王の支配下になったといっても過言ではないからな」
いや、過言だ。
それくらいで支配できるなら、俺は既に何十回もこの電車を支配したことになる。
『次は都賀、都賀です』
その時、車内に淡々としたアナウンスが響いた。――俺が下車する駅だ。降りる準備をしようとした瞬間、セルジオは入ってきた扉が再び開かれ、一人の男が乗り込んできた。
「うぉい、何だよ……しけてんなぁ、ガラ空きじゃねぇかぁ!」
赤ら顔で、よれたスーツを着た男は、やけに大きな声でそう独り言を零しながら、千鳥足で車内を歩いた。その手にはビールの缶が握られている。
どうやら酔っているらしい。というか、昼間から車内で飲酒って、どんだけ常識がないんだ。
俺だけでなくセルジオまでもが冷ややかな視線を男に浴びせているが、そいつはこちらの視線に全く気づかない。呑気に缶ビールを飲み干し、空になった缶を投げ捨て、座席の上に寝転がった。
捨てられた銀色の缶は、カラカラと音を立てて転がり……刹那、ぐしゃりと無残に潰れた。
「ふん」
先程とは打って変わり、不機嫌な様子で鼻を鳴らすチェルシーさん。空のビール缶を踏み潰したのは、チェルシーさんの黒いブーツだった。
まるで喧嘩を売るような態度に、俺は焦った。
何やってんだ、あの男がキレたらどうするんだよ。いくらチェルシーさんみたいな小学生が相手とはいっても、向こうは酔っていて正気じゃない。殴りかかってこないとも限らないんだ。
しかし、チェルシーさんはおろか、セルジオすら、その喧嘩を売るような行為を辞めたり止めたりする気配はない。それどころかチェルシーさんは、迷いない足取りで男へと歩み寄った。
「おい」
「んぁ?」
チェルシーさんの呼びかけに、男は間抜けな声を上げる。そして、焦点の合わない目を暫く彷徨わせた後、チェルシーさんをじっと眺め、にたぁと笑った。
「あっひゃぁ、すんげえ恰好の嬢ちゃんだ」
「おいお前。ここは誰の場所だと思っている?」
「ここって電車のことでちゅかぁ?知ってんぜぇ、コーキョーキカンってやつだろう?コーキョーキカンなら俺が乗っても文句はねぇよなぁ?税金払ってんだからな!」
俺はぎりっ、と歯を軋ませた。あいつ、完全に酔ってるよな。ああ言えばこう言う、なんつう超理論だよ。小学生の女の子相手に情けない。
しかし、チェルシーさんは男の言い分などまるで相手にしなかった。
「コーキョーキカン?何だそれは、そんなことは聞いていない」
「はぁーいー?お嬢ちゃん今なんて言っ、ひぃっ!?」
突然、男は喉の奥から無様な声を漏らした――チェルシーさんに剣を突きつけられたために。
だがしかし。あれは刃物などといった物騒なものではなく、生粋のプラスチック製『おもちゃのつるぎ』だ。男は酔いが回ってそれにすら気づいていないらしい。
「ここはたった今から魔王チェルシーの領地になった。つまりここはわたしの物だ!」
やばいな。男以上の超理論が展開された。何というジャイアニズム。
「それが分かったら、さっさと去れ」
「……え、」
思わず俺は声を漏らした。
何に?――チェルシーさんのただならぬ威厳にだ。
「聞こえないか。わたしの所有地から去れと言っているッ!!!」
変声期前の小学生の甘い声。の、筈がチェルシーさんのその声は、地の底から這いずり出てきたかのようなおぞましい響きを伴っていた。例えば、そう、魔王のような。
恐怖に赤ら顔を真っ青にした男は、丁度開いた電車の扉から、一目散に駆けだして行った。
俺は暫くの間、ぼうっと惚けていたが、ふと我に返り慌てて荷物を持った。
「あ、あの。俺、ここで降りるから」
そう告げて駅のホームに降り立つと、チェルシーさんは先程の声音が嘘のように、子供っぽい声で残念そうに「そうか」と頷いた。
「でも、わたしたちは悪の血で繋がった同志だ。また会う運命だろう」
「あ、うん」
「ふふん。また会おう、朧」
チェルシーさんが何かのポーズなのだろうか、おもちゃの剣を胸の前で構えたところで、電車の扉が閉まった。閉まる直前、セルジオは本物の執事のように様になっている動きで優美に一礼した。
やがて電車が動き出したその時、
「え、」
車窓の向こうにいたチェルシーさんには黒い翼が、セルジオには牛のような角が生えているように見えた気がしたが――
「……気の所為、だよな」
もう既に走り出して見えなくなった電車の方向に向けて、ぼそりと呟いた。
あいつらは、ただのコスプレコンビだ。何か知らないけど、ああいうキャラが出てくるアニメか漫画があるんだろ、多分。
すると、俺の呟きに呼応するかのように、携帯の着信音が鳴った。
ディスプレイを見ると、そこには『部長』の名がある。俺は少しの逡巡の後、着信に応答した。
「……はい」
『おお、編塚か?良かった、お前が部活を無断欠席なんて初めてだから心配したんだぞ。何かあったのか?』
呑気な部長の言葉に、俺は……鼻で笑って答えた。
「……ふふん」
『あ、編塚?』
「今日、俺サボりですよ」
『……は?』
「毎日毎日練習練習練習って、うんざりしてたんですよ。編塚は良い後輩だな、なんて先輩はみんな褒めるけど、それが俺の我慢のお陰だって気づかないんですかね。
先輩を敬って、気遣って、持ち上げて、お世辞言って、あーもうめんどくせえな。
生意気って言われても良いから俺は自分の意見を主張したいんだよ、本当は。自分殺していい子ちゃんぶんのなんかもう飽き飽きだ。
つうわけで今日から一週間、部活サボるから。ぜってぇー行かねえし。誰に何言われてもぜってぇー行かないから」
『……編塚』
「そんで、一週間経ったら、部活に戻ってまた一から始めようと思います。すみませんでした」
言いたいことだけ言い終えて、俺は通話を切って携帯をポケットに突っ込んだ。
――日はこれからゲーセン行って、夜まで潰してから家に帰ろう。
親にも反抗しよう。我慢してきた我儘を全部言ってやろう。
それで、一週間経ったら母さんの食事の手伝いをして、父さんと釣りに出掛けよう。
そう心に決めて、俺は駅のホームから一歩を踏み出した。