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苦手な方はご注意ください。

アース100

トライバルA

作者: 瀬戸内弁慶

初めましてのヒトは初めまして。

そうでないヒトはこんにちは。


この作品は変身ヒーローものの長編(中編?)作品、『トライバルX』の後日談かつ、読み切り版となっております。


MEGAMAX編でいうところの、ジョーカー無双的な立ち位置の作品になります。

「うーん!」

 少年の頭上には、雲一つ無い晴天と、初夏の日差しがあった。

 眼前には、巨大客船があった。

 神の与えたものと、人の作り上げたもの。それらの雄大さを前に、大きく唸った。

 西日本有数の港湾都市、荒浜の潮風をいっぱいに吸い込んで、大きく伸びをする。


『サンセット・プリンス』


 それが、今年十周年を迎えた十二万トン級の巨船の名前であった。

 並ぶ人々は五百名にものぼり、最大乗員数は船員含めてその十倍にはのぼる。


 本来ならばわずか十六、七の若造になんて手に届くはずもない、夢の豪華客船、五泊六日の旅は、ここから始まる。

小山田(おやまだ)さんもキップが良いよなぁ。そのままネコババすりゃ良かったのに」

 自分の家の執事の、飄々とした顔つきを思い出して、少年はくすりと噴き出した。

 数年前に亡くなった父が予約していたものらしい。遺産の一つではあるが、いつまでも保管しておけるものでもない。

 ただ一人で行くのに気が引けて、その執事や恩師、ガールフレンド等を誘ってみたのだが、


「申し訳ありませんが、むさい旅はごめんです」

「お前……社会人に長期休暇があると思うなよ」

「あんたのために私の時間をドブに捨てろって?」


 三者三様の、断られ方をした。

 特に友人の辛辣な毒舌には、平素慣れているつもりだったものの、それでも来栖の心を傷つけた。


 あの心底めんどくさそうな少女の姿を思い出し、気落ちしそうになる心を、イヤイヤと首振り、立て直す。

「一人旅ってのもまたオツなもんよ」

 そう言って、旅行カバンを改めて持ち直した少年の手の甲を、

 ゴン

 と硬い痛みと感触が刺した。

「おわ、ごめんんさい」

 と、痛がるよりまずぶつかった相手に、反射的に謝る。

 だが、振り返った先に、人影はない。

 身長一八五センチ。男子高校生にしては高い視点を、少しずつ下へ下へと下げていく。

 ふと、そこで相手と目が合った。

 来栖とは、五十センチ以上の開きがある。

 未だに顔の造形と輪郭に幼さを残した少女だった。

 見たところ小学生……かもしくは中学生の中間ぐらいと言ったほどか。

 古式ゆかしい言い方をすれば『ぬばたま』の長髪。パーツのバランスの良い整った顔立ちをしているが、気圧されそうな力強さを感じさせる。だが鼻っ柱の強そうな双眸は、来栖の想像以上の驚愕に満ちている。


 ――どっかケガさせちまったか?


 そう焦慮する彼は「だいじょうぶか?」慌ててしゃがみこむ。

 見たところケガはなし。荷物が散らばっているふうにも見えない。それどころか彼女の両手は硬質なスーツケース一つだけだ。

 おそらくはそれに来栖の手は当たったのだろう。ジェラミルンの分厚い装甲のそれは、レジャー用というよりは、某国大統領の護衛SPが持っている防弾仕様のブラックボックスに見える。その胴体部には肉太の銀の直線で、『X』と描かれていた。


 彼女の荷物はそれだけのようだった。見たところ周囲に親兄弟がいる様子もない。


 無計画に、必要最低限のものしか持参してこなかった来栖でも、日用品だけで荷物はパンパンに詰まっている。だが彼女のそれには、無骨な外見からして、生活の匂いはしてこない。


 親は? 荷物は? 目的は?


 それを問うよりも早く、あるいはそういう立ち入った質問をされることを忌避してか、少女はすっと身を退いた。

「大丈夫です。問題ありません。お気遣いありがとうございます」


 とても感謝しているとは思えない表情と態度の声のトーンで、少女は言った。

 二人の間には、その後沈黙しか流れなかった。

 それでも彼は持ち前の好奇心と老婆心とで、後ろに並ぶ少女を時々チラと見る。で、睨み返され慌てて視線を戻す。

 無言のやりとりも楽しんだ後、彼は空を見上げた。

「今日もきれいな空と海だなー」

 誰に言うでもなく呟いた少年の一言に、初めて少女は反応を示した。

 同じように空の青さを仰いで、行列の中で時間が来るのを待つ。


AAA


 その時の警報が、少女、合川(あいかわ)愛歌(あいか)の脳と耳と記憶とにこびりついていた。


 次いで、父が書類を叩いて揃える音。

 次いで、外で数人の男が駆ける音。

 父の手により、やたらめったら破壊されたコンソールから飛び散る火花。

 白衣姿の父に、そこまでの怪力があったことが驚きであり、新鮮でもあり、理由もなくむしょうにもの悲しくもあった。

 さらに彼はその手で書類と機材と、船のチケットとを荷物箱に収納し、彼女の膨らみかけた胸へと押し当てる。


「これを持って逃げるんだ」


 と、早口で言った。

 未だに事態がつかめない少女は、父親が息せき切って慌てる様よりも、自室が今にもこじ開けられようとされるさまこそが気になった。 


「これらの資料と『キリエ・ギア』の完成モデルを、小山田さんのところへ……っ。開発は妨害できなかったが、せめて対策だけでも彼に練ってもらわなければならない」

「……は、はい。それが、百地(ももち)一族のつとめなれば」


 百地一族。

 血族の宿命を背負い、責任感と共にその立場を自覚する時を、彼女は半ば期待していたような気がする。

 ――でもそれは、こんな時じゃなかったはず……


「文字通りの『職場放棄』とは感心しませんね。合川博士」


 その言葉と共に、鋼鉄の扉が突き破られる。

 その言葉と共に、悪魔のような黒い人影が現れた。

 枯れ草色の髪、長いまつげに二重まぶた。鼻は高く、引き締められた唇は赤い。北欧系のハーフと言っても通用するほどに、東洋人離れしていた。

 歳としては、二十代後半か、三十代半ば程度。

 何より、その眼が特徴的だった。

 金銀妖眼とでも言おうか。左目は黒いが、右は胡桃色をしている。

 二つのそれらが放つ光はまるでむき出しの太陽のようであり、何も音を立てず、ただ激しく燃えているようでもある。


皆鳥(みなどり)ケイ……ッ」

 男に気取られる前に、父は愛歌の身を地下へと逃した。


「『キリエ・ギア』は、僕が依頼し、貴方が設計した代物ではありませんか。既にして世に生まれた子は、亡き者にするものではなく、成長を見届けるもの。そうではありませんか?」

「こんなこと……ご当主を追放し、一族の実権を握るような恥知らずに協力するためのものでは、なかったっ!」

「……僕は才あるものが努力する様を愛し、無能が厚顔無恥をさらす様を憎んでいます。だが、才ある者が努力の成果を認めず、その才能や技術を潰すことは、それにさえ劣る」


 男が低い声で言った時、愛歌はその足の直下にいた。

 やがて、男の指示で、銃弾の嵐が降り注ぐ時、彼女は父の断末魔と金属の壁に当たって、弾丸が跳ね返る音を聞いた。


 ……それから、どこをどうして合川邸を離脱することができたのか、彼女は覚えていない。


 今も胸にかき抱くケースを託されてから、父が銃殺されるまで。

 もはや彼女の記憶容量と使命感と大半は、その一連のシーンが占めていると言って良かったのだから。


AAA


「……っ!」

 少女はそこで、悪夢から目覚めた。

 気がつけば洋上。それも、ふかふかと柔らかいベッドの上だった。

 大量にかいた汗がシーツを黒く染めていた。


 丈の合わないローブの上からぎゅっと握り固めた拳を当てて、激しい動悸を上から押さえつける。

 その手の甲には、奇妙な刻印が刻まれている。

「『シャックス』……」

 紅と黒とが入り交じる、熾のような色合いとタッチで描かれるコウノトリの名を、少女は小さく呟いた。


AAA


「『トライバル』。それがこの『キリエ・ギア』の動力源となる存在だ」

 ほんの数ヶ月前まで生きていた父が、その機械を前に教えてくれた。

 現在と同じように、じっと手の刻印に目を落としていた彼女に自らの手を置き、

「そう、幸か不幸か、お前にも宿っているそれだ」

 と教えてくれる。

「かつて、私の上司は常日頃説いていた。生物の生命エネルギーや魂が急激に流れ込んだショックによる世界の拒絶反応の賜ではないか、と。その傷口が『刻印』であり、吹き出た血液や膿が『トライバル』 なのではないだろうか。さながら海底のプレートが押し戻されて地震を起こすように。水の満ちたグラスに石を投じると、同等の質量の水が溢れるように」

「…………よくわかりますっ!」

「よくわかっていないだろう」

 背を反らして強く言った我が子に軽く苦笑をこぼしながら、父はマグカップを手に取った。

「別に深く考える必要はない。そもそも、我々でさえその真価は未だにわからない。分かっていることは大まかに言えば三つ」

 一、『トライバル』は視覚できるものにしか見えない。

 一、素質を持つ者の肉体にしか『保管』はできない。

 一、それは身体能力を強化するばかりか、超常の力まで与えてしまう。


 コーヒーを口にしながらも、その眼差しはどこか遠く、横顔の苦みは増していく。

「……もっとも、それを提唱した男は、結局おのれの利潤のためだけに『トライバル』を利用していただけに過ぎなかった。今度は悪用なんてさせやしない。それがこの『キリエ・ギア』の存在意義だ」

「そんざい、いぎ?」

「そう。あらかじめこの装置には抽出した高位の『トライバル』を二種封じ込めてある。本来ならば選ばれた人間だけが、固定の一種限り扱うことができるのが『トライバル』というものだが、こいつは互いの毒性や強烈な反動をぶつけて打ち消し合い、一般の者でも使用可能なレベルに落とし込む。さらに既存の刻印よりも多様性、汎用性に富ませることができるというわけだ。……わかるか?」

「…………すごく、わかります!」

「すごくわからない話だろう? 要するにだ。『トライバル』をふつうの人間でも使え、肉体の回復や身体能力の向上に役立てようというもの。それがこの『キリエ・ギア』だ。……実は原型となったモデルがいるわけだが、まぁ本人には無断だからね。伏せておくよ」


 片意地を張る娘のいじらしさに笑い声を立て、父は頷いてみせた。

「……あまり好ましくない使い方ではあるが、自然発生した『トライバル』の害毒に対しても、多くの者が対処可能になるはずだ。だが、異能の力で以て、超常の存在を制する。それが我ら百地一族の宿命であり、使命だ」

「はい、心得てます! 父さん!」

 今度こそ、しっかりと理解と責任感を含ませて、愛歌は答えた。

 理解を示す娘に情愛を込めて頷き返し、父はしみじみと呟いた。


「皆鳥さんの口添えのおかげでプロジェクトは廃止にもならず、むしろより整った環境で続けられる。感謝してもしきれない」


 ……だが、親子はこの時想像さえしていなかった。

 かつてそれを己の欲得のためだけにそれを使っていたという上司。その彼より強く、より深く、より貪欲な野望の持ち主が、自分たちの協力者であったということも。

 そして、その男が現百地家当主を放逐して、組織を支配してしまったことさえも。


AAA


 ――父さん。必ず、これは必ず正しい持ち主に送り届けます。そして、必ず皆鳥を倒してみせる。


 肌身離さず持ち歩くトランクケースを力一杯抱きしめて、少女は前へと歩き出す。

 食事の時も、お風呂の時も、愛歌はそれと一緒だった。

 他人には不審がられない。されるわけがない、はずだった。

 そもそも、彼女は他人に認識されない。そういう特異な能力の持ち主だった。

 『トライバル・シャックス』。

 盗みの悪魔の名を持つその刻印は、彼女の意思に応じて浮かび上がり、彼女と、彼女に触れている持ち物、衣服を他人の視覚から消失させる特性を持っている。

 ――かつてはかくれんぼやイタズラにしか役立たせていなかったこの力が、まさか逃走の手助けになるとまでは考えていなかったけれども。

 それに船の進入は容易であったとしても、部屋の手配まではされないから、流石にそこは予約を取り付けるしかなかった。

「……でも」

 その隠れ身を、一人見破った人がいる。

 やたら背の高い男の人。最初は大学生かと思ったけれど、顔つきは若く幼く、高校生なのかもしれない。

 無防備そうで、ちょっと頭が軽そうで……でも、彼は彼女を見つけた。

 確かに愛歌自身は存在しているのだから、ぶつかりもする。声を漏らせば聞こえる。

 だが彼は、確かに視線を合わせて、彼女にしっかりと謝った。そこが妙な話だった。


 ――あるいは組織の追っ手?


 その日の夜は、そう怪しんだりもした。

 だけど、見ているこっちが脱力してしまいそうなユルユルの雰囲気をまとった少年は、人を傷つけたり、殺したりする気配はない。あくまで民間人の、気だけは良いお兄ちゃんと言った感じだった。


 ――きっと愛歌の気の緩みから生じたミスです。もっとショウジンしなければ。


 船に乗って二日目。夜のビュッフェ。

 拳を固く締めて覚悟の新たにする矢先に、

 ぬっ、

 と少年の顔が間近にある。

「ひゃっ!」

 悲鳴をあげて驚く少女に、彼はニッコーと屈託ない笑みを浮かべていた。

 そして伸びた両腕に彼女の細い腰は掴まれて、

「ははは、高いたかーい」

 だなんて、持ち上げられて上下させられる。ひょろりとした体格から意外な力を感じて、少女は一瞬抵抗を忘れた。

 万一彼が本当に皆鳥からの刺客だったのなら、今その生命の危機に瀕していると言って良い。だが、ふしぎと嫌悪感はなかった。むしろ幼い頃、父にそうされたことを思い出し、ふと泣きたくなった。

 それが、少女の心に強さを取り戻させた。


「はな……してっ!」

 と浮いた足裏で腹を叩くと「ぐぉっ」とのけぞって愛歌の身柄を解放する。

「なんなんですかッ、あなたは!」

「なんなんですか、と言われても……」

 腹部を押さえて撫でさすり、少年はいかにも情けない表情で、

「来栖というしがない観光客だけども」

 と、ピントの外れた答えで、少女を逆に当惑させた。


「さっきから見てたけど、お前さんここに来てからずっと飯を食ってないようだからさ。もったいないぞ。寿司まであるんだぞ? しかもトロ!」

 彼のテーブル席には、見せびらかすように盛りつけられた料理。

 寿司、カレー、パスタ、ステーキ、あるいはよくわからないフレンチ料理まで……レパートリーは、いかにも子どもっぽく、俗っぽい。

 対して愛歌は冷えた眼で、

「結構です。……なんですか? こんな小さな女の子が一人、いちゃヘンですか?」

 と、自分でもトゲのある言い方をして、クルスと名乗った少年をたじろがせる。

「そういうこと気にしてんじゃなくて、俺が言ってんのは、今何してるかってこと」

「今?」

 クルスは手元の皿を引き寄せながら、にぎり寿司を一貫頬張った。

「まー何かしら事情があるだろうし。これだけいる俺以外の人間が、お前さんを怪しまないのも、なんか理由があるんだろ」

「っ……」

「でもさ。ここは大海原の上で、人間腹は減るもんだ。やるべきことをやって、楽しむべきことを楽しむ方が、得だろ」


 ふ、と。

 少年が妙に悟った言葉を、気の抜けた声音と笑みに乗せて愛歌の耳元に運ぶ。

 足下がふわりと浮いたような、奇妙な感覚だった。

 今まで背負い続けてきた重い荷物が下りたようでもあって、逆にため込んでいた疲労が一気にピークに達したような気もした。あるいは、そのどちらも。


「まぁ、コレは俺のセンセの受け売りなんだけどさ」と。

 はにかみながらも、矢次ぎ早に言葉を続けた。

「まーぁ袖振り合うのも多少の縁、同じ釜の飯で食った仲と言って……ん? っつかそもそもこの米、全部同じ釜で炊いてんのかな」

 などと間の抜けた疑問を呈する少年の手とテーブルから、それぞれ箸と皿とをかっぱらう。

 ご飯の匂いが間近に漂ってくると、みるみるうちに食欲がわき上がってきて、胃の中に流し込むように、食べ物を吸収していった。

 流石に一流の客船ということもあり、その味は一流だったが、そんなことはどうでも良いほどに、ちゃんとした食事という行為そのものに、彼女は貪欲になっているようだった。

 食べれば食べるほどに身体には活力が戻っていき、今までこらえていた涙が、ぶわっとあふれ出る。

 クルスはそんな彼女を優しく見つめて、

「がんばったがんばった」

 よしよしと、気安げに頭を撫でてくれる。その手の大きさがまた父のそれに似ていて、また泣きたくなった。

 彼の行為や気遣いは、他の人から見れば相手の心情を顧みない偽善だったのかもしれない。それでも、そうしてくれる、慰めてくれる相手がいないよりは、はるかに救われた気分になった。


 その夜少女は、悪夢から解放されて泥のように眠った。


AAA


 翌朝。

 愛歌は鏡の前で寝乱れた長髪にブラシを通しながら、ブスッとしていた。

「……なんかよくわからない人のせいで、寝坊しました!」

 ぷんすか怒りながらも鏡に映った表情には、疲れも気負いもない。あの事件が起きる前の、多少背伸びはするけれども、素直だった頃に戻ったような気分だった。

 ふわっと頬が緩みそうになるのを、イヤイヤと首を振って、それでもわずかに微笑みを称えたまま、彼女はドアノブを握った。


 瞬間、電流じみた直感が、愛歌の全身を硬直させた。

 外の様子がおかしい。朝だというのに、物音一つしない。

 慌てて両手でケースをかき抱いて、外に出た。

 曲がり角ひとつひとつに警戒しつつ、周囲の様子を探る。頭と胸の中でずっと警鐘は鳴っているが、それでも密室の中で閉じこもっているよりは安心できた。

 だが、船内の様子は彼女が想像していた以上に、ただごとではない。

 現在千人単位の人数がいるはずの乗船客は、姿さえ見えない。

 電気設備は航行それ自体は正常に行われているようだが、その管理者らしき者さえ、異常を察知して見に来る様子もない。

 次第に焦燥に駆られて足は小走りになる。呼吸は弾み、動悸は激しい。


 やがて混乱はピークに達し、疲れた足はアトリウムで止まった。

 欧州高級ホテルのロビーにも引けを取らない上品さと華麗さを持った装飾は、緊急時でありながらも目を惹く。

 だが、要所への玄関口とも言えるそこにさえ、人の姿はない。

 誰かいないかとつい大声を張り上げたくなるのもこらえ、代わりに静寂の中、少女の呼気がむなしく響くだけだった。


「どうしたの? そんなに慌てて」


 彼女以外の声が聞こえたのは、その時だった。

 緊張と安堵が同居するという矛盾した表情を持ち上げ、そして愛歌は一瞬言葉を失った。

 往年のシネマスターのように優雅な足取りで、若い女が螺旋階段を下りてくる。

 ややまとまりの悪い亜麻色のセミロングの髪に、チェックのワンピース、デニムのショートパンツに、黒革の底の低いブーツ。

 どこからどう見ても観光途中の女子大生にしか見えないが、自信と自負と余裕に満ちた切れ長の瞳は、愛歌を戦慄させるには十分だった。


花見(はなみ)……観月(みづき)……」


 あの皆鳥の信奉者の一人だった。

 そうなる前は父とも自分ともそれなりに親交のあった彼女だが、百地家当主を追放する際、また父が皆鳥を裏切ろうとした時、迷わずあの男の側についた女だった。


 ためらわず『シャックス』を発動させようと、刻印を展開する。

「無駄よ」

 観月は髪を指に絡めながら、冷笑を浮かべた。

「『トライバル』の高い適性を持つ人間には、視覚カットの能力は通用しない。そもそも、私らの目をごまかしたところで、どこへ行こうっていうのよ?」

 その言葉を聞いた少女はハッと周囲を見回した。

 確かにすでに出向したこの客船は、海の真ん中に出てしまっていた。とても陸まで泳ぎ着ける距離じゃない。

 ――わたし、たち……

 気づけば愛歌は、自分が囲まれていることに気がついた。

 階上に、そして出入り口のすべてに、今まで影さえ見せなかった人間達が静かに押し寄せていた。数にして五百人超。

 その顔ぶれや服装は、いずれも一般人そのものといった感じで、その大半は彼女が船に乗っていた時から見たことのある顔だ。

 つまるところ、これは意味することは、

「……最初からこの船は」

「そ。みーんな百地一族の貸し切り。あなたの動向が掴めてないとでも思った? ハイ残念でしたー」

 自分よりも一回り二回りも年上の大人達が、敵意の視線を向けてくる。その状況下で萎縮する愛歌に、観月は低い声で恫喝を落とした。

「それ、こっちに渡しなさい。……こっちはバカな兄貴の尻ぬぐいで留学先から呼び戻されて、イライラしてんのよ」


「……お断りします。これは、皆鳥には渡せない!」

「渡せば、命までは取らないわよ?」

「皆鳥にこの技術が渡ることは、なんとしても阻止してみせる!」

 自分では、どうあがいても太刀打ちしようがない敵の中、愛歌は相手の脅しに屈しはしなかった。

 自身に宿る父の遺志は、まだ折れていない。追ってはいけないもの。それを、知っているから。


 だが、そのうら若き刺客がそうした少女の気高さに見せた表情は、

「く……ふふふっ」

 嘲笑。あるいは憫笑と言い替えても問題はなかったのかもしれない。

 やがて他の大人たちにも、自分たちを率いる女の、その侮蔑の感情が伝染したようだった。誰も彼もが、戸惑う少女を中心に、唇を歪めている。


「な、なにが可笑しいのですかッ」

「あなた、勘違いしてるわ」

「勘違い? 何をですかっ!」

「私らはね、お願いしてるわけでもカツアゲしようってわけでもないの。これは、温情よ」

「おん、じょう?」

 オウム返しする自らを恥ずかしいと思い、肌を朱に染めながらも、愛歌は観月の真意を探る。

「科学の進歩ってスゴイわねー。昨日試作品だったものが」

 彼女は自分の手にあるものを笑いながらかざす。愛歌を驚愕させた。彼女を前に、ますます得意げに唇を歪ませる。


「もう実用化されて量産化されるんだから」


 ベルトのバックルにも似た、既視感の強い形状。自分が持つソレと違い、銀に薄紫の装飾を施してあるが、間違いない。

 『キリエ・ギア』。

 彼女が秘匿し、それゆえに追われているのだと考えていた技術の結晶が、観月のその手に現物として存在している。


「どうして貴女が……それを?」


 絶望に震える声を、隠すだけの気力はたった今、根こそぎ奪われた。

 彼女だけではない。

 周囲の取り巻きが一つずつ、同様のものを所持している。

 鳥を思わせるけたたましい笑い声と共に、彼女がそれを腹の前に当てた。


《Crossing code:『アンドレアルフス』×『デカラビア』》


 電子音が響く。個人認証をクリアーしたギアは両端から鎖、あるいはパイプのようなものが伸びて、装着者の腰に固定される。そのパイプを伝って二種類の人工『トライバル』が展開し、そこからガス状のエネルギー体が全身を覆い包む。

 気体はやがて結露して水銀のように粘性の強い液体となり、あらかじめデザインされたモデルへと輪郭と部位の色を変化させながら、凝固して堅固な外骨格となった。

 やがて現れた異形の姿に、少女は声を失い、そして理解し、絶望した。

 ――すでに、自分の使命など、『皆鳥にこの技術を渡してならない』という任務など、とうに意味をなさないものであったことに。


 六芒星を思わせる観月の顔面部からけたたましい笑声は漏れ聞こえる。

 君臨するその女の周囲でも随員が、彼女と同様の変身が行われていた。あるいはヨーロッパのペスト医師を思わせる頭部を手に入れ、あるいはチュートン騎士団を思わせる荘厳な肉体を手に入れる。曲刀、長剣、弓、クロスボウ、鳥銃を模した熱戦銃。さながら武の博物館であるかのように、彼らは多種多様にわたる武器を携えていた。

 それでもクジャクのような羽と、奇怪な頭部を持つ観月の姿は、その女王の権威と力量が飛び抜けて大きなものを示しているかのようだった。


 もはや『シャックス』を展開する気力さえなく、尻餅をつく愛歌を、彼らは嘲った。

「だーかーら言ったってのに、ねぇ。そんなもん、あってもなくても同じものなのよ。皆鳥先生にとってはね。だから私は、そんな粗大ゴミ一つで助命はしようと思ったのに。ただのお情けだと言ったのに。あーあー」

「あ、あぁ……」

「だから、それ私に渡しなさいよ」

 震える指先が、その荷の角に食い込む。あくまで強情を示す少女に対し、花見観月だった異形の怪物は、苛立たしげに額を押さえるそぶりを見せた。

「現実を見なさいよ。今、貴女がなすべきことは、助かる道は、なに?」

 ゆるりと、少しずつ、固く結んだ唇も、ケースを掴む指も、力が抜けて緩んでいく。

 もはや立ち上がる力さえなく、ただ気力と体力だけを消耗していく、そんな時間。

 ――そんな言葉を、つい近頃誰かから聞いたような?


「お前は、今なすべきことを、すれば良い」


 あの少年の声が聞こえてきたのは、その時だった。

 最初、彼女はそれが自分の頭が作り出した幻聴だと思った。リフレインされた記憶の一部だと思った。

 ……だが、ふと見上げた観月の背後。

 次第に大きくなっていく影は、愛歌が逃避するために生み出した幻影などではなかった。

 呆気にとられる観月をすり抜け、愛歌の前に降り立った彼は、昨日と変わらない大輪の笑顔を、少女に見せた。


「って、うお! なんだこいつら!」


 ……勇んで飛び出した割には、まったく状況を把握していなかったらしい。

 ふつうの人間なら視覚情報で頭がパンクるであろう状況を前に、及び腰で、目を白黒させている。


「……あなた、何者?」


 そして花見観月にとっても、その少年、クルスの出現はまったく予測できていなかったらしい。

 怪訝かつ不機嫌そうな声を、クルスは無視した。


「よーく自分の目で見て、考えてもみろよ。お前さんは、そのカバンをこいつらに狙われていて、で、こうして大勢に囲まれてる。……だけど本当にそれが不要なものだったら、わざわざ逃げ場を塞いでこんな数で囲むことなんてないと違うか?」


 観月と愛歌、二人の女性は、ふわふわとした口調ながらも、、核心を突いたその一言に、息を呑んだ。

 そうだ、という自身の呟きによって、少女は我を取り戻した。

 皆鳥という人間は非合理を嫌い、徹底した冷血漢だという。

 そんな人間が、異能者といえど一人の十二歳の少女相手に、過剰な戦力を投入するかと言えば、疑問ではある。


「つまりそれ、やっぱあの鳥女たちにとってやっぱ脅威になるんだ」


 盲を払われたような心地で、愛歌は少年を仰ぎ見た。

「だいたい周りは大海原だぞ大海原! それを前にこんな争い、ばからしいったらありゃしない! ほらみんなでチークダンスでも踊って仲直りすりゃ良いんだ!」

 一転して場の空気をぶち壊すようなことを言い放つ少年。一つの疑問は晴れたが、代わりにまた一つ生まれる。


「……あなた、一体何者?」


 少女の疑問は、敵である観月が代弁してくれた。

 対して少年は腕組みし、嘆息する。

「ただの観光客! ……なんて言いたいところだけど、まぁ多分俺もハメられたな。小山田め」


 クルスの愚痴とは別に、愛歌は改めて覚悟を決めていた。


 ――そうだった。


 敵の思惑や強さ、使命の意味無意味なんて、関係のない話だった。

 ただ父に託されたものを無事送り届ける。そうして命を救われた自分がいる。この旅路は、その生命と遺命をまっとうするための道だったはずだ。

 ――そして今、百地家の人間として、怪異から守らなければならない人がいる。


 少女はチラと一瞬、ケースに目をやり、目の前で庇ってくれるクルスを見た。

 身体能力、年齢ともに、彼は『キリエ・ギア』を用いる条件をクリアできる。自分には身体の負担がかかりすぎて難しいだろうがあるいは彼になら装着が可能かも知れない。


 ――もう手段は、それしか残されていない!


 力を込める彼女の意志に呼応して、コウノトリの刻印が手の甲に浮かび上がる。

「クルスさん!」

「ん?」

 そのエネルギーがケースを拘束している装飾に流入し、ロックが解除される。

「この『キリエ・ギア』を使ってください!」

 開いた口から見えたその試作品に、少年は目と口を丸くした。

 性能自体は、正規品とそれほど大差はないはず。たとえ交戦は難しくても、脱出に集中すればそれがかなうかもしれない。

 厄介ごとに首を突っ込んだ以上、それしか二人が生き残る道はないと、この男の子にもわかるはずだろう。




「え? ヤダ」



 ……断られた。

 ふつうに、断られた。

 ふつうじゃない状況で、前に立てた指を広げてフリフリ、ふつうに断られた。

「な、なんでですかぁっ?」

「それ、『キリエ・ギア』だっけ? 困るんだよなぁ」

「困ったのはこっちですよ! 一体何が問題なんですっ?」

 ほどいた腕で頭をかいてやや未練の残るような口ぶりで、


「人の名前と力を勝手に使われるのは、ちょっと困る」


 と、付け加えた。

「……え?」

 何か今、さらっととんでもないことを言われた気が。


「まぁいいや。乗りかかった船、ってヤツだ。俺は俺のやるべきことをやるだけだ」

「あなたは……一体……」

 笑顔で振り返る少年の腕には、格子模様の刻印が輝く。少年の輪郭が揺らぐ。

 目の錯覚ではなかった。

 蜃気楼でもなかった。

 ……己が発狂し、正気を失ったわけでもない。


 この少年の……この『トライバル保管者』のエネルギーが、異様なほどに高濃度なのだ。

 実体として視認できるほどに。

 外皮のように、まとえるほどに。


 ――それは、まるで……


 少女は自分の手元にある武器へと、一瞬視線を落とす。

 再び顔を持ち上げた彼女へ、彼は最後に穏やかな笑みを授けた。


「俺はキリエ。来栖(くるす)切絵(きりえ)だ」


 Mixing No.1×No.9

 神託のような厳かな呪文と共に、少年の身体を発生した『トライバル』が交錯し、覆い包む。

 その直後、愛歌の双眸に映ったのは、異形の魔人。

 赤銅色の身体のラインは細い人間のものだ。

 X

 その文字が幾重にも折り重なって交叉するような外殻。

 観月と同様に、どこが顔で、目で、鼻で、口で……どこで視認しているのかまったく見当がつかない。

 コートの裾のように膝の辺りまで伸びている。

 虚空に渦巻くX型の『トライバル』が、形を変えて鈍い色の槌を作り出す。

「No.9、刻印槌『ソロモン』」

 その細長い柄を手にし、先端を階上の同種へと突きつけた。

「まさか……『トライバル・X』……ッ」

 声と拳を振るわせて、見返す女に、『トライバル・X』来栖切絵は、


「バツを受けてもらうぞ、風見鶏」

 と言い放った。


「……っ! やれっ!」

 観月の号令一下、ここまで手出しを忘れていたかに見えた五百の軍勢が動き出し、愛歌たちに殺到した。


「Mixing No.1×No.9『ソロモン』」

 とてもさっきまでの少年の声とも思えない、低い声だった。


 ソロモン、と呼ばれたスリムな長柄の鎚は、鉄色の軌道を描いて、大きく旋回する。

 それで、飛んだ。

 人が、人の変化したもの共が、数十人単位で、吹き飛ばされた。

 柄に巻き込まれ、巻き込まれた人がさらに他の敵を巻き込んで吹き飛ばす。

 最大重量は二百キロを超え、五十トンの衝撃に耐える強化装甲が、ただの一振りで。


 二人と、襲撃者たちの間に空間ができる。その間を埋めるべく、包囲陣の第二波が押し寄せた。

「Crossing No.2『カイム』×No.9」

 また、切絵の声に反応し、彼をめぐるその外装が大きく蠢く。

 鎚の戦端にまでその震動が伝わったかと思いきや、『トライバル』が虚空を浸食し、絡み合う。曲刀にも似た刃物が鎚から伸びて鎌になる。

「せいっりゃッ」

 大きく身体を旋回させると、前方に向けて大きく鎌を横に薙ぐ。

 一八○度旋回した鎌は敵の胴のプレートを斬り払い、火花を散らして引き裂いた。

 大きく転身した赤銅の魔人は、今度は少女の背に襲いかかった異形の群れを、半月を描いて斬り倒す。

 装着者の生命の危険を感知した『キリエ・ギア』は、自らの展開した装甲から彼らを強制的に離脱させて自爆する。

 一、また一と。

 来栖切絵が得物を振るう度に、包囲の隙間に火の華が咲く。


 ――聞いたことが、ある。

 いや、知っていなくては、ならないことだった。

 『トライバル・X』。

 唯一にして無二、悪魔の名を冠する個体名を持たない規格外。異常現象である『トライバル』の中でも、ひときわ異端な存在。九種の『トライバル』の複合体。

 そして、この『キリエ・ギア』のモチーフとなった原型。父が目指した理想の神の姿。


「何をやってる! 遠距離で仕留めなさい! こうなったら愛歌ごと殺しても良いわっ」


 階上にて、ヒステリックに、そして物騒な言葉を観月が吐き出す。それに呼応して、包囲の中から弓や重火器をたずさえた騎士たちが前面に出され、女の指示する対象へと武器の先を向けた。

 逃げ道も、攻め口さえも見当たらない統一された集団の出現に、切絵の武に頼り切っていた愛歌も流石に焦る。


「く、くるす、さん!」

「うん。こりゃまずいな。まずいから……ちょっとあっち行ってて」

「あ、あっちって?」

「Mixing No.1×No.4『ハルファス』」


 低く唱えられた文言が終わるよりも早く、少女の肩は切絵の掌に軽く小突かれた。

 つんのめった彼女が体勢を整え、顔を上げるとそこには切絵の姿はなかった。彼の異質な影だけじゃなく、観月も、彼女が従えた五百の兵たちも。

 そもそもここは見慣れた豪華客船の室内ではなく、切り出されたようなブロック石の壁、床と土埃しかない。狭く灰色な世界だった。

「これ……っ、どういうことなんですかぁっ!」

 あまりに急な環境の転換は、一般的な感覚しか持っていない少女に、悲痛な声を上げさせた。

 だが愛歌のぶつける質問に、答える人は誰もなく、ヨーロッパの古城の地下層庫を思わせる内装が、むなしく反響させただけだった。


AAA


 彼女の号令により、光の弾丸が空間を埋め尽くした。

 きらびやかな外壁も、装飾も、余さず打ち抜き、粉砕していき、その粉塵が彼女らの視界を埋め尽くした。

 それは完璧と殲滅を期した行為ではあったが、同時に『トライバル・X』に対する恐怖の証でもあった。

 やがてそれらを撃ち尽くすと、「やったか?」などという声が、通信機越しに漏れ聞こえる。

 観月は舌打ちし、

「まだ! 熱源あり!」

 と、怒鳴った。

「Mixing No.6『ケルベロス』×No.7『アモン』」

 低いその呟きが、白い煙を合間を縫って聞こえてきた。

 どよめきは、なかった。

 それよりも先に、光のつぶてが彼の頭部へ飛んで、弾けて、昏倒させたからだった。

 薄い煙の中、暗視モードとなった『キリエ・ギア』のモニターから、映像が投影される。

 幾重にも交差が絡み合う珊瑚礁のような怪物。その左手には、彼の身を守ったと思われる、犬の顔のレリーフが突き出た盾。その口からはフクロウを模した銃口が突き出ていて、それがなおのこと不気味さをかき立てている。

 第二射が、発砲された。

 最初は一本だった太い光線が、煙幕を切り裂いて無数に飛び散った。乱反射しながら枝分かれする。一発の光弾が三つに分かれ、そのうちのひとつずつがまた、という形で空間を埋め尽くし、前線にいた射手たちを余さず追尾し、撃ち抜いていく。

 なまじ集中し、前進していた彼らは、まさに格好の獲物と言えただろう。

 観月は舌打ちする。己の判断ミスを憎んだ。

 だが即時に対応、冷静さを取り戻して、兵達を後退させ、『トライバル』による防御術式を集合させ、展開し、巨大の一枚の壁画、防壁を生み出した。


 撃ち尽くし、『刻印』の残滓を白煙として吐き出す盾銃を投げ捨てると、

「Mixing No.3『フラウロス』×No.5『レラジェ』」

 ごぽり、と。

 それの手に、湯水のように刻印がふきこぼれ、沸いて出る。

 現れたのは、大身の、ねじくれた穂先がついた紺碧の槍。柄も含めれば二メートル近い。さらに石突きには鋼鉄の鎖が黒々とくくりつけられて、赤銅の左腕と繋がっていた。

 槌を持った逆の手で握ると、そのまま『壁画』へ向けて投擲する。

 形容しがたい激しい衝突音が、観月の鼓膜を突いた。

 強化装甲の中、顔をしかめた彼女ではあったが、目の前で激しく食いつきながらも槍先が『刻印』を突き破れない有様を見て、口を綻ばせた。

 

 ……だが、それは長くは続かなかった。

 槍先から、黒い何かがにじみ出していた。それは周囲の刻印に沿って浸食していくと、まるで熾火を冷ます冷水かのように、防壁たる『トライバル』をその傷口から黒ずませ、壊死させていく。


 ――『世界の毒』への、『毒』……


 ふとそんな言葉がよぎったのと、飴細工のように堅固な障壁が食い破られたのは、ほぼ同時だった。

 衝撃波と、粉塵と、けたたましい壁の破壊音が五感をふさぐ。

「Mixing No.2×No.8『フェニックス』」

 目をそらしたその一瞬、モニターには赤銅の長身が、肉薄する様子が映り込む。

 合計二百キロとなった観月の肉体を、鳥の刃を模した曲刀が押し上げる。

 浮き上がった身体を、『X』の体色とは対照的な、鮮やかな青の翼が浮き上がらせた。


AAA


 ……幾枚の壁を、天井を、彼女はその背で突き破っただろうか。

 刀身をその脇腹にめり込まされたまま、最後の一枚を破った時、彼女たち二人の間には敵も味方もなく、ただ蒼天と波の荒い海しかなかった。

 ――まさか……

 負けるが、ない。

 人類の叡智が作り出したものが、百地家が。その象徴たる天才児である自分が。

 兄の大悟と違い将来を目されていた俊英たる自分が、こんな訳のわからない怪物に負けるはずがない。そんなことは、あってはならないことだった。

 その最後の一念が、

「……っ、ナメ、るな……ぁ!」

 悲痛な慟哭と共に、拳となって振りかざされる。赤銅色の肉体を押し返す。

 呼吸を整えないままに、観月は背中よりクジャクを模した十二色の双翼を展開する。その右手の中より巨大な星形の手裏剣を精製し、射出される尾翼と共にそれを投げ放った。

 彼女の荒々しい殺意に染まり、従い、縦横無尽に虚空を走るそれらは、『トライバル・X』の翼を引きちぎり、武器をはじき飛ばした。

 さしもの怪物も、五十メートルほどの上空から船の甲板に落下すればダメージを負うものらしい。よろめきながら立ち上がるそれに、けたたましい笑声を浴びせる。

「この『キリエ・ギア』は機動性能を限界まで引き上げた、隊長仕様の特別製! あんたのような旧式の小細工なんて、もう効かないのよ!」

 相手に敗北感を植え付けるための、実質的な勝利宣言。翼をもがれた怪物は、はるか上空の自分になすすべなく棒立ちしているだけではないか。

 高らかに謳う彼女は、一瞬聞き逃しそうになっていた。


「Single No.1」


 見逃しそうになっていた。いや、あるいは見逃していた方が、幸福であったのかもしれない。

 これが全力と思われていた『トライバル・X』の、第二形態目。その変化を、絶頂の中で目撃せずに済んだかもしれないのだから。


 今まで肉体を拘束するように密着していた『X』型の外装は、尾の切断された包帯のようにたわみ始める。

 それらが隠していた地肌は紺青、修道僧のローブのように分厚い衣状。

 ほどけかけた赤銅の奥で、上弦月の形の単眼が、ターコイズブルーの底光りを見せていた。

 その裾に、桜の花が咲き乱れ、珊瑚礁がそれを絡め取る。

 赤銅の帯が、完全にほどけ散る。


「あんたの言うとおりだ。こっからは掛け値なし、混ざりけなしの大勝負といこうか」

 悟りを開いた修道僧の如き、柔らかな外套。それらが、ほとばしる威圧感でめくれ上がっていた。


 そもそも、『キリエ・ギア』も、その原典となる『トライバル・X』も、単独では御しきれない高位の『トライバル』を、あえて衝突させることで削り合わせ、人体でも操縦可能なレベルまで落とし込むことを旨としているはずだった。


 ――だが、だがもし……その力が単独で使用できるとしたら、いったいどれほどの威力を誇るというのだろう?

 そうした妄想じみた想像を、この装置を手にした瞬間考えなかった観月ではない。

 そしてそのIFは現実のものとなって、今まさに体感させられようとしていた。

 他ならない、観月自身の肉体でもって。


 消えた。

 甲板から、『トライバル・X』の紺碧となった姿が。

 次の瞬間、腹に衝撃を受けた。


 ――ばか、な。


 だが何が、どういう手法で、万端の構えでいたおのれを叩けるのか、彼女自身にも分からなかった。

 ただ青い光の筋が尾を引いて、彼女を襲った。それだけしか。


「この私が……この私が、負けるわけがないのよっ! 私はクソ兄貴とは違う……っ、もっと、もっと組織でのぼりつめて……っ!」


 殺……殴……刺、斬……せめて、一太ち……

 だがあらゆる手段を封じられたままに、彼女もまた、翼を破壊され、武器を破砕され、きりもみしながら墜落していく。

 彼女が意識を手放す前に見れたものといえば、異形の神にも等しい者の、ほんの一部、その身の布きれの一端だけだった。


AAA


 「そろそろだろうな」


 事が終わった。

 少女が異空間から再び現世へ引っ張られた時には、海は静けさを取り戻していた。

 それでも半壊した客船が戦闘の激しさを物語っている。

 唖然とする少女の傍ら、腕時計と睨めっこしながら来栖切絵は呟いた。

「え、何が、ですか?」

「俺たちをこんなところに呼び込んだオッサンだよ。あのヒトのことだから、どーせジャストタイミンッ! で迎えにくるんだろうな」


 その予言は、数分もしないうちに現実のものとなった。

 水を切る音、モーター音。それが少女の耳にも聞こえてきて、次第に大きくなって、やがて一隻のちいさな船影が近づいてくるのが見えた。


 しぶきを巻き上げ、モーターボートを操る男は、スーツ姿だった。

 そのミスマッチぶりに呆気をとられる愛歌をよそに、その男は涼しい顔でハンドルを持ち上げ、


「ふっ! 」


 空中で一回転。

 浮き上がる愛機を踊らせ、身をひねり、そして何事もなかったかのように着水する。


 そこから彼女たちの船に接近した中年男性は、

「とうっ」

 超人的な跳躍で船に飛び移り、


「お迎えに参りました」


 彼女たちの前で、紳士的に一礼する。

「ねぇ、なんで一回転した? なんで回ったの?」

「というか……一体どこから」

 周囲は見渡す限り水平線で、ものの見事に大海原である。船らしきものは他にはない。燃料がそんなに入るはずもないのに、 どうやってこのボートはやってきたのか?


「あんまり考えない方が良いぞ。ツッコむだけ無駄だから」


 という切絵の忠告に、少女は素直に頷いた。


「お初にお目にかかります。百地家の小山田と申します」

 年齢は四十を過ぎているだろう。下手をすると娘よりも年下の相手に、その男、小山田純は恭しく接した。

 父の待ち人。彼女の手の中の道具の受け渡し先。そして百地一族の重鎮。

 と同時に、この来栖切絵という謎の少年の知人でもあるようだった。


「よくも騙してくれたな」

「騙すとは?」

「こーゆーことに巻き込みたいなら素直に頼めや!」

「あぁ、実はこーゆーことになりましたもので、どうかお気をつけください」

「今更何に気をつけろって言うんだ! つーかあやふやな警告だなオイ!」


 ジロリ、ときつく睨むも、切絵のその目に敵意はない。


「まぁまぁ。たまには触れもしないFカップを凝視するより、身体を動かすのもよろしいでしょう」

「勝手に決めつけんな! まぁ良い運動になったけど。人命に関わることを除けばな! 人命に関わることを除けばな! 大事なことなんで二度言いました!」

 あのぅ、とソロソロ愛歌が彼らの諍いに口を挟んだのはそんな時、いよいよ収集の目処がつかなくなった時だった。

 くるりと振り向いた切絵に、おずおずと、少女は聞きたくてたまらなかったことを切り出した。


「『トライバル・X』。来栖切絵、さん。あなたも、百地一族の人、なんですか?」


 皆が畏怖と共に口にする呼び名を、やや苦みを帯びた快笑と共に、少年は甘受する。


「まぁな。つっても最近はゴタゴタしてるから、ほとんど干渉しなく、いやできなくなったけど。けどまさか俺の力がコピーされてるとは思わんかった。……そろそろ本腰入れようかいね」

「それは……すみません」

「ん、なんでお前さんが謝るのよ」

「だって」


 彼の名前を借りたその異形の道具は、彼女の父が設計し、彼の技術を悪用したかつての同志が開発し、量産した。


 結果、怪物の軍団を生み出し、自分を脅かしたばかりでなく、この少年を巻き込んでしまった。

そのことに対して、少女は頭を下げたのだった。


 だが少年は、ニッカと白い歯を見せて、無造作に少女の黒髪を混ぜっ返した。


「な、何を」

「関係ないんじゃないか? お前さんと、今頭にあることとは」

「えっ?」


 髪を整えないままに顔を上げる愛歌は、ヒョイと海の水面へ視線を放る。


 対して少年はヒョイと肩をすぼめた。

 彼女がかたくなに握り締めるスーツケースを指で突ついてみせて

「周りがどうあれ、お前さんは大切な人からそいつを託されたんだろう? で、その人が願ったのは化け物を生み出すことでも、船をぶっ壊すことでもないんだろ? それをお前さんは、ここまで守って、そして今成功した。それで良しとしよーや」


 迷惑をかけてしまった、当の本人に言われては、おとなしくそうするしかないだろう。

 おずおずと、ケースを差し出すと、小山田は無表情に、しかし先ほどよりはいくばくか目元と口元を引き締めて、強く頷いた。


「あの、お願いします。父の遺志を、無駄にしないでください。どうか、あの人が望んだ、本当に正しい使い方を」

「……今、これを本当に必要としている人間は、無力で非力な凡人です。ただ彼は、その不屈の意志でもって、皆鳥と戦うことになるでしょう。そしておそらくは……最後には彼が勝つ」


 あの男、というのが誰のことかは分からなかったが、このふざけたような男が、珍しく熱を込めて語るところを鑑みると、確証もないのに奇妙な安心感があった。

「……お願いします」


 万感の想いと祈りを込めて、執事のような男に託した瞬間、彼女は足の先からどっと力が抜けていくのを感じた。


 笑う膝がそのまま崩れ落ちそうになるのを、切絵が支えた。

 だが、少女が体勢を崩したのは、なにも恐怖や緊張からの解放が理由ではなかった。

 実際に、豪華客船だったはずの彼女らの足場が、支柱とバランスを喪って大きく傾いている。


「のぉっととと……ちょいと派手にやりすぎたべさ」


 と、少年はそのまま少女の腕ごと身体をひょいと持ち上げ「ホイ」と、引っ越しの荷物の要領で小山田に引き渡した。

「小山田さん、このコのことも、よろしく頼む」

「ちょっ……切絵さんは?」

「俺はホラ、下の連中とか、そこで潰れてるおねーさんとか助けなきゃなんないし。俺にはその力があるから」

「でも、敵です」

「親父さんは、こういうことのために、俺の力を求めてたんじゃなかったのか?」

 そう言って切絵は、にぇへへ、という脱力しそうなほど無防備な笑みを見せた。


 小山田に抱えられ、ボートに乗せられる。

 その操縦は来た時とは違い、アクロバティックな動きなんてなくて、紳士的に、それこそ高級リムジンに乗っているかのような安心感があった。

 しばらくして、三階建ての大船が、不自然に折れて沈んでいくのが見えた。愛歌がハラハラしながらその様子を見守っていると、大きく広げられた青い翼が、流星のような軌道を描いて大空へと羽ばたいていく。ほっと胸を撫で下ろす。


 これからも、彼は自分がそう宣言したとおり、今目の前にあるやるべきことをやるのだろう。そして、助けるべき命を、助けていくのだろうか?


 ――ひとまずは……


 空と海は青くて、雲は白くて大きくて、風は比較的には穏やかだった。

 そして自分も彼も助かって、誰も死ぬことがなかった。

 それで、良しとしようと、合川愛歌は大きく頷いたのだった。

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