その3 ― 始まりの日
その年の四月、葉山高校の校庭でも桜の花が見られるようになった頃。
お決まりの紅白幕で装飾された体育館では例年と変わりなく粛々と入学式が進行していた。トップクラスの進学校に合格したことで浮かれる新入生が多いのか、どことなく誇らしげな顔が並んでいる。
顔を上げ背筋を伸ばした彼らの顔は一様に光り輝いていて、これまでの自身の努力が報われた事を改めて実感し、これからの希望に胸を弾ませているようだった。
言うなればドヤ顔の整列である。
十年以上ここで教師をやっている私は毎年の事なので見飽きているが、新任教師はこの光景に引いていることだろう。
そんな新入生達の中で、瀬野和直は自分を抑えていた。
一見他の生徒と同じく静かに座っているようだが、これは普段の瀬野の姿とは似ても似つかない物だった。
どこがどう違うのかと言うと、通常からすれば余りにもおとなしかった。瀬野を知る者なら「入学式の間中じっと座っていたなんてありえない」と口を揃えるだろう。
故に、この時の瀬野は自分を抑えていたと言える。具体的に何を抑えていたのかなんてことは本人にも分からない。なぜなら瀬野和直は馬鹿で、目的が無くても行動する男だからだ。
その行動原理の一つとして瀬野は『自分から動かなければ良い結果は起こせない』という言葉を心の底から信じている。入学式で何をしようとしていたのかは知らないが、(おそらく何も考えていなかっただろうが)瀬野和直とはこのような人間なのである。
この説明だけでもなんとなくはた迷惑な人間だという事が伺えるかもしれないが、幸い(?)にも葉山高校に入学した当初の瀬野は幼い頃からの友人の忠告により、「最低でも一ヶ月はおとなしくしていること」を誓わされていた。
これは奇跡的にも(何の間違いか)県内有数の進学校に合格してしまった瀬野のことを心配した友人が、中学までのように好き勝手に振舞えば周囲と隔絶されてしまうだろうことを見越し、「いくら馬鹿なこの友人でも一ヶ月もおとなしくしていれば空気が読めるようになるだろう」と考えた結果である。
一部の人間に分かりやすく例えると瀬野は某巨大掲示板に訪れたネット初心者であり、非常に空気が読めない性格であるので「一ヶ月ROMってろ」と言われている状態なのだ。
瀬野が今まで過ごしてきた小中学校はノリの良い人間が多く瀬野も楽しくやってこれた訳だが、高校受験に心血を注いできた真面目人間だらけの葉山高校と今までの学校とでは環境の違いは推して知るべしである。
『馬鹿だとバレてはいけない』
これは瀬野和馬が葉山高校で第一に守り通さねばならぬ秘事であり、よしんばそれが明るみに出たとしてもその時にはもう瀬野が馬鹿だと知られても問題ないという地盤が出来ていなければならない。
瀬野が馬鹿であることを隠し通すのはほぼ間違いなく不可能だ。だから次善策として瀬野の友人は、一ヶ月の間に最低限瀬野が空気を読めるようになるか、誰か瀬野のフォローをしてくれる人間が現れることを期待しているのである。
何はともあれその友人のおかげで入学式では特に問題を起こさず、その本質を誰にも知られること無く瀬野は会場の体育館を去った。
体育館を出た生徒達は校舎前に貼り出されたクラス表を見て、それぞれの教室に足を踏み入れて行く。瀬野はAからHまでの八クラスある中で、一年A組に振り分けられた。
教室にクラスメイトが全員集まり教師も来たところでホームルームが始まる。
教科書の配布や明日以降の予定の説明も終わり、クラス内で自己紹介を行うことになった。しかしここで瀬野はさっそくボロを出し始めた。
最初からクライマ……ではなく、最初から馬鹿バレの危機である。
「成日中学校出身、瀬野和直です! よろしくお願いします!」
元気いっぱいに定型文通りの挨拶をした瀬野。例の友人の忠告で余計なことは一切言わなかったので、他のクラスメイトと比べても活発な声以外は目立たないはずだった。
しかし、瀬野の出身校を聞いたクラスの面々はなぜかざわついていた。
「成日中学って……あの成日中学……?」
「なんであそこの生徒が?」
「合格したやつ初めてじゃないか?」
説明しよう。
実は瀬野が通っていた成日市立成日中学校は義務教育機関であるにも関わらず他校と比べて非常に生徒達の学力が低く、「バカ中学」のレッテルを貼られている。
少なくともここ十数年は一人も葉山高校に合格者を出した事は無く、クラスメイト達は完全に「馬鹿しか集まらない中学」というイメージが焼き付いていたので驚いたのだ。
ただし、この時の彼らは単に驚いただけで、このことで瀬野が浮いてしまうようなことはなかった。
葉山高校の生徒の特色と言えるが、クラスメイト達は真面目なだけあって分別もあり、イメージだけで人を判断することはしないし、ましてやそれを理由に差別することも無い。
結果、瀬野和直の印象は「バカ中学と呼ばれる学校でもめげずに努力した人間」ということで満場一致した。
まあもちろん正真正銘本物の馬鹿である以上瀬野が自分の本質を隠し通せるはずが無いし、そもそも本人は昔からの友人の意思を汲んだだけであって本来なら自分を偽るような真似はしない。
だから瀬野は大事を起こさない限りでいつも通りに振舞うことにしていた。
「まずは友達作らないとな」
瀬野の第一目標は仲の良い友人である。理由は一人ではつまらないから、そして『一人よりも二人、二人よりもたくさん』的などこかで聞きかじった言葉を信じているからである。
何かの引用を覚える度に実践するのが(良くも悪くも)瀬野の十八番だ。
そういう訳で瀬野和馬の友達作り開始である。
既に教室のクラスメイト達は思い思いに親睦を深めているようだった。
がしかし、瀬野が動き出そうとすると出鼻を挫かれるかのように彼らから瀬野に話しかけて欲しくない雰囲気が漂い始める。
それも当然のことで、成日中学出身の人間というのは気真面目人間の彼らにとって全く違う人種であり、だから瀬野という未知の存在はなんとなく近寄り難かったのだ。
誰でも初対面の者は知らなければ知らないほど怖い。
誰が最初に瀬野の相手をするか押し付け合っている中、全く空気を読めずに瀬野が前の席のクラスメイトに声をかけようとしたその時、流れを変える人間が現れた。
「なあ瀬野、君? ちょっと話しないか?」
話しかけて来たのは瀬野の左隣の男子生徒である。
瀬野に話しかけた人間がいたことで気まずい空気が薄れ、周りのクラスメイト達はそれぞれの会話に戻っていった。
もちろん瀬野は一連の流れに気付かず嬉しそうに応える。
「瀬野って呼んでくれよ。中学ではみんなからそう呼ばれてたし」
「そうか? それじゃ瀬野で。俺は井出信弘だ。よろしく」
「おう。井出だな、よろしく!」
意外にも瀬野に話しかけた井出という生徒は友好的だった。
瀬野の調子に合わせて口調も変えてくるあたり、通常の葉山高生とは一線を画している。
平均的な葉山高生ならば少なくとも呼び捨てを拒否して「瀬野君」と君付けにしていたところだ。
二人とも物怖じしない性格のようで、簡単な自己紹介を済ませ適当に雑談に耽る。
さっそく友好を深めたようであった。
「ところでさ。いきなり聞いて悪いんだけど、もしかして瀬野ってすっごい頭良かったりする?」
友好ついでに、井出は聞き様によっては少々不躾な問いを投げかける。
対して、体面を気にする脳さえ無い瀬野は馬鹿正直に答える。
「いんや。全然そんなことねえよ。会うやつみんなから馬鹿としか言われたことないし、オレもそう思う。入試もすっげえ苦労したしさ。てなわけで頭良いか悪いかっていったらオレは頭悪いかな」
それを聞いて安心したように息を吐く井出。
「そっかー。だよな! 瀬野って見た目からもう馬鹿っぽいもんな。うん、やっぱ俺の目に狂いはなかった!」
「なんだなんだ、そうはっきり言われるといっそ気持ちいいな! お前とはすっげえ仲良くなれそうだ」
「いやー実は俺も中学じゃかなり成績悪くてさ! 猛勉強してこの高校入ったはいいけど、周りみんな頭良さそうでちょっと不安だったんだ。いや本当、瀬野みたいなやつがいてよかったよ」
笑いながら肩をばんばん叩き合う二人。
会って十分かそこらで既に教室内のどのグループよりも親しくなっていた。
ちなみにうっかりと言うか意識することすらなく自分が馬鹿であることをカミングアウトした瀬野だが、「ここでついに馬鹿バレか?」と思った諸君。なんとまだセーフである。
なぜならクラスメイト達の中に瀬野の言葉を字面通りに取る者はいないからだ。
葉山高生にとってテスト前なんかに話す「勉強してないよ」宣言はイコール「勉強している」である。
毎日勉強することがほぼ当たり前の習慣として定着している者が大半で、「勉強していない」は単なる謙遜、または「今日はいい天気だね」程度に交わされる挨拶代わりの言葉であり、例え何と言おうと彼らにとって本当に勉強していないというのは有り得ないのだ。
だから瀬野の「オレは頭悪い」発言もクラスメイト達には「オレも頑張って勉強してるけどまだまだかな」という意味で聞こえた訳である。
つまり瀬野の言葉の意味をその通りに受け取ったのは井出だけという訳だ。
何はともあれ、入学初日は問題も起こさず(一人を除いて)馬鹿バレすることもなく、親しい友人を得ることができて順風満帆の瀬野であった。
………………と、きれいに締めたいところではあるが、既に一ヶ月も保たずに本性が露見しそうであるし、どちらにせよ一ヶ月経てば瀬野を止めるものはなくなる訳で、時間は着々と事件に向かって流れて行くのだった。
遅筆な上に短いですが頑張って完結まで持って行きます。
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4/18 少しだけ修正。次話はまだです。