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第二話 井戸の底

その問いに、男は答えなかった。


問いのあと、部屋には大きな沈黙が落ちた。

しかも、その沈黙はすぐには消えなかった。

長く、重く、じわじわと部屋の隅まで染みこんでいく。


ソヤラも、答えを期待していたわけではない。

男もまた、答えるつもりなどないのだろう。


やがて男は立ち上がった。


「腹が減った。何か作ってくれ。……頼む」


無表情な声だった。

けれど最後に落ちたそのひとことだけが、不器用な優しさみたいに耳に残った。


ソヤラはわずかに目を細めた。


「もうできてるよ。マーズが起きるまで待って、三人で食べよう」


男は何も言わなかった。

ほんの少し間を置いてから、置かれていた皿を手に取り、そのまま食べ始める。


「たまにはあたしの言うことも聞いてくれていいんじゃないかい」


ソヤラは少し頬を膨らませた。

けれど男は黙ったまま、食べ続ける。

まるで最初から何も聞こえていなかったみたいに。


その物音で、寝床の上のマーズが身じろぎした。

目をこすりながら起き上がり、ぼやけた視界の先にいる大男を見つける。


ふたりはじっと見つめ合った。


瞬きひとつしない、妙な睨み合いだった。


先に動いたのは男のほうだった。

大人げなく、ほんの少しだけ口元を歪める。

勝ったぞ、とでも言いたげな、いたずらっぽい笑み。

けれど目だけは相変わらず真顔のままだ。


それを見た瞬間、マーズの顔が真っ赤になる。


「このジジイ! 子ども相手に何やってんだよ!」


「何もしていない」


男は本気でそう答えた。

からかっているようにも見えない。

本当に、自分が何かしたとは思っていない顔だった。


「もう、父さんもマーズも喧嘩はやめな。まったく……子どもが二人いるみたいだよ」


ソヤラは呆れたように息をついた。


男――バジはそのあいだにも大きくひと口食べ、皿の上のものをあっという間に減らしていく。


「今日は村で用がある。もう行く」


ソヤラの顔から、少しだけ笑みが消えた。


「着いたばかりなのに、もう行くのかい」


「夜には戻る。待っていてくれるか」


その声もまた、ぶっきらぼうだった。

けれどソヤラは、それが自分なりのやさしさだと知っている。


彼女は少しだけさみしそうにバジを見つめた。

一方のマーズは胸を張り、わざとらしく目を閉じる。

どこへでも行けばいい。帰ってこなくたってかまわない。

そう言いたげな顔だった。


バジはそんな息子を見た。

気にしていないふりをしていることぐらい、見ればわかる。

ほんの一瞬だけ、彼の口元がやわらいだ。


その小さな変化に気づいたのは、ソヤラだけだった。


「……早く帰ってきてね」


ソヤラがそう言って手を振ると、バジは何も言わずに戸の向こうへ消えていった。


家の中に、また静けさが戻る。


マーズはさっそく床に腰を下ろし、ソヤラと向かい合って朝食を食べ始めた。

そして、ひと口目を飲み込んだところで、我慢できないように言う。


「ねえ、母さん。どうしてあんなろくでなしと一緒になったの?」


ソヤラの手が止まる。


「役立たずじゃないか。母さんが毎晩あの湖まで水を取りに行ってるの、おれ知ってるよ。あいつなんて、野兎二羽と薪ひと束持ってくるのにどれだけかかってるんだよ。おれのほうがずっとましだ。兎なら四羽は取れるし、薪だってもっと大きいのを二つは持ってこられる」


マーズは腹を立てていた。

けれど本気で不思議でもあった。

本当にわからないのだ。どうして母があんな男を好きでいるのか。


「……彼はお前の父さんだよ。少しは敬いな」


ソヤラの声は静かだったが、表情は真剣だった。


「わかったよ」


そう答えたわりに、マーズはまるで気にしていない顔をしていた。

どうせまた同じことを言うつもりなのだろう。


それでも彼は、次に口を開いたときだけは、さっきまでとは違う顔をしていた。


「でも、おれの夢は知ってるだろ。おれ、インドでいちばんすごい戦士になりたいんだ」


ソヤラは答えなかった。


ただ、じっと息子を見つめる。


部屋の空気が、すっと冷えた気がした。

さっきまでのやりとりが嘘みたいに、家の中から音が消える。


「……またその話かい」


声は低かった。

そしてその顔から、さっきまで残っていた光がすっと消えた。


「でも――」


「また?」


マーズは息を止めた。


「母さん――」


「また? また? また? また?」


ひとつひとつの言葉が、重く落ちてくる。

怒鳴っているわけではない。

けれどその静かな声のほうが、ずっと怖かった。


マーズは口の中の唾を飲み込んだ。

空気が重い。

胸の奥まで圧しつけてくる。

鳥肌ではない。悪寒だった。


ソヤラは一度だけ目を閉じた。

そして、ようやく息を吐く。


「……ごめんよ」


間を置いてから、彼女は静かに言った。


「マーズ。戦士になるには何がいるか、知ってるのかい。どれだけの勇気がいる。どれだけの力がいる。お前に、そのどちらがある?」


再び沈黙が落ちた。


マーズの心臓がうるさいほど鳴っている。

部屋が静まり返っているせいで、その音だけが身体の外まで響いているようだった。


「ああ」


喉がからからに乾いていた。

それでもマーズは答える。


「勇気はある。力もある」


嘘だと、自分でわかっていた。


勇気なんて、本当はない。

力だって、まだ何もない。


それでも、どうしても引き下がりたくなかった。

胸のいちばん奥にある小さな火だけは、手放したくなかった。


ソヤラは真顔のまま息子を見つめていた。

だがその胸の内では、別の震えが広がっている。


この道の先に何があるのか、彼女は知っている。

マーズがこの願いを抱いたまま進めば、いつか必ず死ぬ。

その予感ではなく、確信に近い恐怖が、ずっと彼女の中にあった。


だからこそ、最後にもう一度だけ、息子を止めたかった。


たとえ自分の傷をこじ開けることになっても。

たとえ死ぬまで誰にも話すつもりのなかった過去を、いまここで口にすることになっても。


ソヤラはゆっくりと言った。


「……じゃあ、あたしがどうしてあの男と一緒になったのか、話してやろうか」


マーズの目が、星みたいにぱっと輝いた。


ソヤラはその目を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。

けれどその笑みは、すぐに遠いものに変わった。


「あの男が、あたしをもっとひどい地獄から救い出してくれたからだよ」


彼女は少しだけ首を傾けた。

まるで昨日のことを思い出すみたいに。


「……あたしはね、郊外の小さな村で生まれたんだ。暗い夜だった。でも、生まれた夜より、生まれた場所のほうがずっと暗かった」


ソヤラの声は、もう今を見ていなかった。


「産婆も来なかった。誰も母さんを助けようとしなかった。あたしたちがアスプルシャだったからだ」


マーズは黙って聞いている。


「家の中には、母さんと父さんと、小さな家だけ。母さんは痛みに泣いてた。父さんは、どうしていいかわからなかった。愛してる女が苦しんでるのを見てることしかできなかった」


ソヤラは膝の上で指を組む。


「やがて、小さな赤ん坊の泣き声が響いた。女の子だった。あたしだよ」


彼女は淡々と語る。

淡々としているのに、その声の底には冷たい泥が沈んでいるようだった。


「本当なら、そこで家は満たされるはずだった。三人で生きていけるはずだった。でも、そうはならなかった」


ソヤラの目が、ゆっくりと伏せられる。


「母さんは黙った」


短い沈黙。


「……それきり、二度と口を開かなかった」


部屋の中に、マーズの息づかいだけが残る。


「父さんは悲しんでた。もちろん、あたしはそれを責められない。あたしが生まれたせいで、父さんは愛した女を失ったんだから」


彼女は一度唇を噛み、それから続けた。


「でも、あたしが大きくなるにつれてわかった。父さんは、母さんを失ったことだけを悲しんでたんじゃない。あたしが……女として生まれたことも、同じくらい悲しんでた」


マーズは息を呑む。


「父さんは男の子が欲しかった。大きくなって働いて、自分を養ってくれる息子が。だけど、あたしは違った。いつか誰かの家に渡してしまうだけの、重荷だった」


ソヤラの声は平らだった。

平らなのに、聞いているだけで胸が冷えていく。


「持参金だっている。父さんにとって、あたしは生まれたその日から痛みの続きみたいなものだったんだろうね」


マーズは何も言えなかった。


そして、ソヤラはひどく静かな声で言う。


「……でもね、父さんは父さんなりに、あたしを愛してくれてたんだと思うよ」


その言葉のやさしさが、逆に不気味だった。


「モンスーンの始まりだった。夏には干上がってた井戸に、水がたっぷり戻ってきてた。あたしはまだ五つで、水浴びが嫌いだった」


彼女はほんの少しだけ笑った。

その笑みは、記憶の奥で腐っていた。


「だから父さんは、手伝ってくれたんだ」


マーズの胸がざわつく。


「ロープであたしの手足を縛って、そのまま井戸へ落とした」


マーズの指先が強ばる。


「二日間、あたしはそこにいた」


ソヤラの声は変わらない。


「何も食べずに。手足は動かない。たぶん途中で、井戸の壁から伸びてた細い枝にロープが引っかかったんだろうね。だから首の骨が折れずに済んだ。でも、そのぶん半端に宙づりみたいになって、ずっと水面すれすれで苦しまなきゃならなかった」


彼女の視線は、もうこの部屋にない。

濡れた石と泥の匂いが、彼女の中にだけ戻っているようだった。


「息をするたびに、水が口に入る。顎と歯と、縛られた足まで使って、どうにか顔だけは沈まないようにした。必死だったよ。ほんとに、命がかかってたからね」


マーズは息もできない。


「やっとの思いで水面まで身体を寄せたとき、歯が半分折れた。岩に噛みついて、残った歯と顎でしがみついた。離したら終わりだと思ったから」


ソヤラはそこで一度だけ目を閉じた。


「二日後、誰かがあたしを見つけた。引き上げられて、食べ物をもらった。あたしはもう立つのもやっとだったのに、父さんは呼ばれて来たんだ」


彼女の声が、ほんの少しだけ乾く。


「父さんは泣いたよ。あたしを抱きしめて、よく生きてたって、まるで本当に安心したみたいに」


マーズは眉を寄せた。

そこだけ聞けば、優しい父親の話みたいだった。


「家へ帰る道で、父さんはずっと笑ってた」


ソヤラはゆっくりと顔を上げる。


「家へ帰る道で、父さんはずっと笑ってた」


ソヤラはゆっくりと顔を上げる。


「……でも、あんな顔は初めて見た」


彼女は少しだけ間を置いた。

そして、静かに言う。


「父さんは、あたしにこう聞いた」


「どうしてまだ生きているんだ?」

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