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第一話 恵み

夜の湖は、息を潜めたように静まり返っていた。


ひとりの女が、水際にしゃがみ込む。

何度も、何度も周囲を見回す。

闇の向こうに誰か立っていないか。

木々のあいだから、誰かこちらを見ていないか。


確かめてからでなければ、水には触れられない。


女は震える手で水瓶を水へ沈めた。

小さな水音が、やけに大きく響いた。


その瞬間、肩がびくりと跳ねる。


誰かに見つかれば終わりだった。

怒鳴られるだけでは済まない。

殴られるかもしれない。

もっとひどいことになるかもしれない。


水瓶がいっぱいになる。

女はそれを胸に抱え込むと、弾かれたように駆け出した。


まるで、自分の命そのものを抱いて逃げるように。


足を止めれば終わる。

背後から声をかけられたら、それだけで全身が凍りついてしまいそうだった。


やがて村の外れに、小さな家々が見えてくる。

女はそのうちの一軒へ飛び込み、戸を閉めた。


ようやく息を吐く。


心臓はまだ激しく鳴っていた。

胸の奥で、どくどくと音を立てている。


それでもその顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。


今夜も、無事に持ち帰れた。

たったそれだけのことが、彼女にとっては勝利だった。


「……母さん?」


暗がりの奥から、幼い声がした。


「帰ってきたの? こんな遅くまでどこ行ってたんだよ。おれ、すごく怖かった」


声には好奇心と不安が入り混じっていた。

けれど泣いてはいない。

泣くのをこらえて、必死に強がっている声だった。


女――ソヤラは戸にもたれたまま息を整え、それから息子のほうを見た。


「恵みを取りに行ってたんだよ」


「恵み?」


寝床の上で、十一歳の少年が首をかしげる。

緑の瞳が、不思議そうに揺れた。


「でも、それ水じゃないか。恵みって、どこにあるの?」


ソヤラは少しだけ笑った。


「水が恵みなんだよ」


そう言って、彼女は水瓶をそっと床に置く。


「水を飲まなきゃ、どうやって生きるんだい。どうやって大きくなるんだい。……あたしの、小さな息子」


その声はやわらかく、あたたかかった。

マーズはまだ半分わかっていない顔で水瓶を見ていたが、母の声を聞いただけで少し安心した。


「さあ、もう寝な。いつまでも起きてると、森にいる怪物が迎えに来るよ」


「やだよ……」


「だったら寝るんだね」


マーズはむっとしたように口を尖らせたが、すぐに母のそばへもぐり込んだ。

十一歳になっても、こういうときだけはまだ子どもだった。

ソヤラの腕にしがみつくと、ようやく肩の力が抜ける。


「母さん」


「なんだい」


「話、して」


さっきまで怯えていた顔が、その一言でぱっと明るくなる。

ソヤラは小さく息をついた。


「どんな話がいいんだい」


マーズは少し笑った。


「母さんが知ってる話なんて、どうせひとつだけじゃないか」


子どもっぽい、からかいだった。


ソヤラは文字を知らない。

学ぶことを許されたこともなかった。

アスプルシャの女に、学校も、本も、物語も与えられはしない。


彼女が知っている話は多くない。

けれど、ひとつだけ、胸の底で火のように残り続けている名があった。


――シヴァージー王。


村の中心でこぼれ落ちた噂。

死んだ獣を運ばされたときに耳にした武勇伝。

汚れ仕事を押しつけられながら、遠くから拾い集めた断片。


アスプルシャの者たちは、犬や牛や猫が死ねば呼び出される。

死骸を運ぶために。

汚れた排水溝に手を突っ込むために。

誰もやりたがらない仕事を、いつも押しつけられるために。


その中で、ソヤラは人づてに、少しずつ物語を拾ってきた。


「わかったよ。話してやるから、ちゃんと目を閉じな」


「うん」


マーズは目を輝かせたまま、素直にうなずいた。


ソヤラは暗い天井を見上げるようにして、語り始めた。


「ビジャープルは、シヴァージー様を潰すために、アフザル・ハーンを差し向けたんだよ。兵も、うなるほど連れてきた。二万だ」


マーズの目がさらに大きくなる。


「二万……」


「みんな思ったさ。もう終わりだってね。相手は大きな領主で、兵も多かった。シヴァージー様は降るか、死ぬか、そう思われてた」


ソヤラの声が少し低くなる。


「でも、あのお方は違った」


その一言に、マーズは息を呑む。


「シヴァージー様は、アフザル・ハーンをプラタップガド近くの険しい山へ誘い込んだんだ。大軍の強さがそのままじゃ使えない土地へね」


マーズは毛布をぎゅっと握りしめる。


「そして向かい合ったその場で、シヴァージー様はアフザル・ハーンを討ち取った。近くに潜んでいたマラーターの兵も、いっせいに飛びかかって、ビジャープル軍を食い破った」


ソヤラの目には、見たこともない戦場の火が映っているようだった。


「馬も、銃も、火薬も、みんな奪った。あの日からだよ。シヴァージー様が、本当に恐れられる男になったのは」


マーズはしばらく黙っていた。

眠気より先に、熱が胸に灯っている。


剣も見たことがない。

戦士も見たことがない。

それでも、その名を聞くだけで心が跳ねた。


「……母さん」


「なんだい」


「おれも、そんなふうになれるかな」


ソヤラは少しだけ黙った。

そして、息子の額に手を置く。


「今は寝な」


その声はやさしかった。

やさしいくせに、どこか遠かった。


「夢の中なら、誰だってなれる」


マーズは何か言い返そうとしたが、もうまぶたが重かった。

母の体温に頬を押しつけたまま、やがて静かな寝息を立て始める。


ソヤラはしばらくその顔を見つめていた。


眠った子どもの顔は穏やかだった。

この世の汚れも、飢えも、恐れも、まだそこまでは届いていないように見えた。


けれど、それは夜のあいだだけだ。


朝になれば、また世界が始まる。


まだ朝日も昇らないころ、ソヤラは目を覚ました。


寝床の隣では、マーズが丸くなって眠っている。

起こさぬよう静かに身を起こし、粗末な朝食を用意し始めた。


ひとつ。

ふたつ。

そして、もうひとつ。


三枚目の皿を置いたところで、戸が鳴った。


――コン、コン。


ソヤラの手が止まる。


こんな時間に。


もう一度、音がした。


彼女は立ち上がり、しばらく黙ったまま戸を見つめた。

それから、ゆっくりと近づいていく。


戸を開けた。


そこに立っていたのは、巨大な男だった。


六尺を優に超える体。

目の下には深い隈が落ち、長いこと眠っていない人間のように、生気の薄い顔をしている。

髪は泥と汗で絡まり、何週間も櫛を通していないようだった。

着ているものも、ひどく汚れている。


左手には、死んだ野兎が二羽。

右手には、薪というにはあまりにも太い、割ったばかりの木の束。


まるで森そのものが、人の形をして戸口に立っているようだった。


男は野兎と薪を床に落とすように置いた。

次の瞬間、ソヤラの身体を強く引き寄せる。


有無を言わせぬ勢いで、唇を奪った。


ソヤラの背が戸板にぶつかる。

荒い息が混じり合う。

男は長い飢えをぶつけるように彼女の首筋へ顔を埋め、そのまま力任せに抱き寄せた。


夜明け前の狭い家に、押し殺した息と衣擦れだけが満ちていく。


そのまま二人の影は床へ崩れた。


言葉はほとんどなかった。

ただ、長く途切れていた何かを埋めるように、互いの体温を確かめ合っていた。

やがて時間が過ぎ、乱れていた息だけが少しずつ静まっていく。


床に座り込んだまま、ソヤラはようやく口を開いた。


「……ずいぶん時間がかかったね」


大きな沈黙が落ちた。


男はすぐには答えなかった。


ただ、その死んだような目だけが、朝の来ない闇を映していた。

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