第8話:シティナイトレース(第3戦) 華やかな夜の舞台
翌夜。
メトロシティの中心区は、夕刻とともにゆっくりと姿を変え始めた。
通りは封鎖され、ビルの谷間に浮かぶ発光ゲートが順番に点灯していく。
低く流れていたBGMがボリュームを増し、広告スクリーンには歴代のハイライトが映し出された。
ざわめきは波のように広がり、やがて街そのものがひとつのスタジアムと化す。
「始まる」
遼はピット前に立ち、首元まで上げたスーツのジッパーを指先で整えた。
肺の底まで吸い込む夜の空気は冷たくて、少し甘い。
昼間に比べて密度が変わったみたいに、音の輪郭がよく聞こえる。
観客数は前回の倍以上。
テレビ中継車が並び、メディアの注目度は最高潮に達していた。
色とりどりのライトアップされた会場は、まるで巨大な宝石箱のようだった。
VIP席には企業幹部やスポンサー関係者の姿も見える。
「すげぇ、こんなに人がいる」
迅がタブレットを片手に近づきながら驚きの声を上げる。
彼の目は興奮と不安を同時に映していた。
「遼、計器の再チェック行くぞ。姿勢制御、夜間補正プロファイル"β-03"。ノイズフィルタは一段締めた。ライト残像でセンサーが釣られないように」
迅の指先が器用にタブレットを操作する。
深夜まで調整に時間をかけた成果だった。古いRusty Hawkに最新の夜戦用システムを組み込むのは至難の業だったが、彼なりのプライドをかけて仕上げてきた。
「了解!」
遼はコックピットに腰を落とし、グローブの指先でひとつずつスイッチをなぞった。
パネルのインジケータが順に緑へ染まる。機体との対話のような、静かな時間だった。
「応援側も準備完了!」
結衣が満面の笑みでペンライトの束を掲げる。
彼女の手には、夜通しかけて手作りした応援グッズがあった。
「観客席の子どもたち、Rustyの手作りバッジ付けてたよ。ほら、"がんばれRusty"ステッカーも配れた!」
結衣の頬は興奮で紅潮している。
SNSでの拡散状況もチェック済み。
「#RustyHawk頑張れ」のハッシュタグが既にトレンド入りしていた。
「ネーミングはまだ慣れないけど、ありがと」
遼が笑うと、結衣は少しだけ真顔に戻る。
「怖かったら、ちゃんと言ってね。合図は"親指二回"」
「うん。だいじょうぶ。楽しみだから」
その時、会場に華やかなファンファーレが響いた。
開会のドローン群が夜空に幾何学模様を描き、コースの全景ラインが光でなぞられる。
MCが高らかに告げた。
「ようこそ、メトロシティ・ナイトラウンドへ!ブロンズリーグは"新人育成枠"。安全運用は徹底しますが──夜は昼の三倍難しい。観客のみなさんも、非常時の案内にご協力を!」
運営スタッフが各ピットを回り、最終ブリーフィングを配る。
「夜間は視覚錯誤が発生しやすい。残像、ガラスの反射、路面広告の光量変化に注意。救難ドローンはコース外縁。退避ラインはブルー、絶対に跨がないこと」
迅が紙を指で弾き、簡潔に要点を復唱する。
「残像は"追うな、読むな、外すな"。影とフレームを見る、だ」
「"影とフレーム"。了解」
遼はふっと笑ってから、ヘルメットのバイザーを半分下ろした。
視界がひと段暗くなり、光の洪水がちょうどいい粒度に落ちる。
ピットロードの向こう側、蛍光をまとった機体が運び込まれた。
ボディを走るネオンのラインが、呼吸をするみたいに淡く明滅している。
「Neon Edge」
結衣が思わず息を呑む。
機体全体が虹色に発光し、まるで光の彫刻のような美しさを放っていた。
群衆の歓声に応えるように、その前に立つパイロットが片手を高く掲げた。
髪に挿した蛍光メッシュが光を返す。
「カイト、相変わらず派手ね」
迅が苦笑交じりに呟くと、ちょうどこちらへ向き直ったカイトがウィンクを飛ばす。
「Rusty Hawk!夜の街へようこそ!」
距離を詰めると、彼は意外なほど柔らかな声で続けた。
「昼の君は見た。壁際を舞う鷹。いい走りだった。けど、ここは"光が主役"だ。光と踊れないなら、夜はすぐに迷子になるよ」
カイトの瞳には、挑戦的でありながらも相手を認める温かさがあった。
派手な外見とは裏腹に、レースへの真摯な想いを秘めている。
遼は一拍置いて、にこっと笑った。
「踊るのは好き。相棒と一緒なら、なおさら」
カイトの口元に、気持ちだけ愉快そうな弧が浮かぶ。
「じゃあ踊ろう。観客が息を呑むくらい、眩しくね」
彼が戻っていくと、周囲の熱量がまた一段上がった。
歓声、カメラのシャッター、屋台の呼び込み。都市の鼓動が速くなる。
「グリッドイン三分前!」
スタッフの声が飛ぶ。遼はシートベルトを締め直し、スロットルを軽く握って放す。
「迅、音が軽い」
「夜気で吸気が太った。回転の上がりが素直だ。いける」
迅の表情に安堵の色が浮かぶ。
徹夜での調整が報われた瞬間だった。
ピットクルーの合図で、Rusty Hawkが静かに転がり出る。
発光ラインが床をスライドして、タイヤもない機体の影がするすると伸びる。
ピットロードから見上げる空は、ビルが切り取った細長い長方形。
そこにゲートの輪が幾つも浮かび、淡く回転している。
グリッドに着くと、各機が所定の位置に収まった。
観客席の光が波のように揺れ、遠くでドローンが低く唸る。
結衣が無線に入る。
「聞こえる?」
「バッチリ」
「じゃ、合言葉。"楽しいが最速"」
「"楽しいが最速"」
ふたりの声が重なり、途切れた。
「水城」
迅の声は短く、落ち着いている。
「壁際が静かになる瞬間、きっと来る。来たら、迷わず行け」
「了解」
MCが最終コース紹介に入る。
ビル壁面の巨大スクリーンに、上空からの俯瞰が描き出された。
「第1扇区、大通りのダイブ。下り基調で一気にトップスピードへ!」
観客がどよめく。
「第2扇区、ガラス峡谷。両側の壁面ガラスに注意、ライトの反射でラインが二重三重に見える!」
遼はヘルメットの中で、少しだけ口角を上げる。
「二重、三重、影は一つ」
「第3扇区、屋上回廊。連続する狭幅ゲート、ここでのミスは即時のタイムロス!」
迅が呟く。
「勝負どころだ」
「第4扇区、シティブリッジ。風が巻く、橋脚の陰を読め!」
「最終扇区、ナイトドーム。光量が跳ね上がる最終複合、目に頼らず"リズム"で抜けろ!」
コース図がフェードアウトして、代わりに選手の顔が次々と映る。歓声とブーイングが交互に起こり、最後に!
『RUSTY HAWK』
遼の顔がスクリーンいっぱいに映った。
一瞬の静寂ののち、客席のどこかから上がった小さな声が、波紋の中心になって広がる。
「Rusty Hawk!」
合唱が重なり、光の海が揺れた。
グリッドの先、最初の発光ゲートが赤へ、黄へ、そして白へと移ろう。
「最終チェック、OK」
迅が告げ、結衣が短く続ける。
「こっちもOK。楽しんでおいで」
遼は深く息を吸って、吐いた。
心臓が速くなるたび、視界の輪郭がむしろくっきりしていく。
光は粒に、音は層に、風は面に。
「相棒」
ハーネス越しに、胸の前で小さく拳を握る。
「行こう」
「スリー」
会場のスクリーンが巨大な数字を映す。
「ツー」
観客の声がひとつになる。
「ワン」
ゼロ。
発光ゲートが一斉に白へ跳ね、夜の街が、牙を剥いた。




