第1章 第1話「工業地帯コース」 朝焼けの工場街
工業地帯の空は、まだ薄明かりに包まれていた。煙突から立ち上る白い煙が朝日に照らされ、幻想的な光景を作り出している。その中を、12歳の少年・遼が古びたSKYCAR「Rusty Hawk」を丁寧に磨いていた。
「おはよう、相棒」
遼の声は弾んでいた。赤錆の浮いた外装を、まるで宝物を扱うように慎重に拭き取っていく。補修痕だらけの機体だが、その一つ一つに愛情が込められているのが分かった。工具の音が響く工場の奥から、じいちゃんがゆっくりと現れる。
「今日がついに初レースか」
じいちゃんの目は優しかった。孫の晴れ舞台を見守る祖父の眼差しには、期待と不安が入り混じっている。
「うん! やっと空を走れる!」
遼の笑顔は太陽のように明るく、その純粋さにじいちゃんは微笑んだ。
工場の外では、近所の人々が日常を過ごしている。パン屋のおばさんは店を開け、通学路では子どもたちが走り回っていた。そんな普通の朝の中で、空を行き交うSKYCARの風景はもはや日常の一部となっていた。通勤用の機体から物流用の大型機まで、様々なSKYCARが低空レーンを利用している。
「遼〜!」
元気な声と共に結衣が工場に駆け込んできた。手には大きなバッグを抱えている。
「お疲れ様弁当、作ってきたよ!」
バッグの中から取り出されたのは、色とりどりのおかずが詰まった手作り弁当だった。卵焼きには「がんばれ」の文字が書かれ、おにぎりは遼の好きな鮭とツナマヨ。栄養バランスも考えて野菜もたっぷり入っている。
「結衣のお弁当、いつも最高だ!」
遼の喜ぶ顔を見て、結衣は照れながら笑った。昨夜、遼の体調を考えて献立を決め、朝早くから台所に立った甲斐があった。
「おはよーっす!」
工具箱を抱えた迅が現れる。まだ13歳だが、その手つきは職人のようだった。Rusty Hawkの機体を見回しながら、最終チェックを始める。
「よし、エンジン調整は完璧。制御系も問題なし。あとはお前の腕次第だな」
迅の整備技術は街でも評判だった。古い機体の癖を理解し、限られた予算で最大限の性能を引き出す。そんな技術者魂が、まだ少年の体に宿っている。
「ありがとう、迅。君がいるから安心して飛べるよ」
遼の素直な感謝の言葉に、迅は照れくさそうに頭を掻いた。
工場の外では、レース会場へ向かうファンたちの姿が見えた。「Rusty Hawk応援中」の手作り看板を持つ子どもたちもいる。地元の英雄として、遼への期待は高まっていた。
「そろそろ時間だな」
じいちゃんの言葉に、3人は顔を見合わせた。ついに、初めてのレースが始まる。
「行こう、相棒!」
遼がRusty Hawkのコックピットに向かう。機体の古い計器類が朝日を反射して輝いて見えた。エンジンが始動すると、低い唸り声が工場に響く。最新機のような洗練された音ではないが、どこか温かみのある音だった。
迅は最後の最後まで機体をチェックしていた。古いボルト一つ、配線一本に至るまで、彼の目は見逃さない。
「大丈夫、完璧だ」
その言葉には職人としての自信が込められていた。
結衣は応援グッズの最終確認をしている。手作りの「Rusty Hawk」旗、お揃いのタオル、そして今日のためだけに作った特製のうちわ。全てに彼女の愛情が込められていた。
「遼のことだから、きっとすごいレースを見せてくれるよね」
結衣の瞳は期待で輝いている。幼馴染として、遼の可能性を一番信じているのは彼女だった。
工場を出発する時、じいちゃんは静かに見送った。
「楽しんでこい」
その一言に、全ての想いが込められていた。
朝の工業地帯を抜けて、ついにレース会場へ向かう。Rusty Hawkのエンジン音が街に響き、新たな伝説の始まりを告げていた。
会場に到着すると、その規模に3人は息を呑んだ。煙突や工場建物の間に設置された巨大なゲート群、観客席には数千人の人々が詰めかけている。屋台が並び、お祭りのような賑やかさだった。
「すげぇ…こんなにたくさんの人が」
遼の素直な感想に、迅と結衣もうなずいた。
他の参加者の機体を見回すと、Rusty Hawkとの差は歴然だった。最新鋭機Aurora-9の美しいフォルム、重量級Bulldogの重厚感、バランス型Falcon-Xの洗練されたデザイン。どれもスポンサーロゴが輝き、プロ仕様の整備を受けている。
「ポンコツ機体で参加するなんて、正気か?」
他のチームから聞こえてくる声に、迅の表情が少し曇った。だが遼は全く気にしていない。
「みんなかっこいいなぁ! どんな飛び方するんだろう」
その純粋な好奇心に、迅と結衣は改めて遼らしさを感じた。
観客席では、地元の人々がRusty Hawkを応援する準備をしていた。商店街の人たち、学校の同級生、近所の子どもたち。みんなが遼の活躍を心待ちにしている。
「大丈夫だよ、遼」
結衣の励ましに、遼は屈託のない笑顔で答えた。
「うん! 楽しみだ!」
迅は機械的な最終チェックを続けながら、心の中でつぶやいた。
「頼むぞ、Rusty Hawk。お前が遼の夢を乗せてるんだ」
古い機体への祈りにも似た想いを込めて、迅は最後の調整を終えた。
3人の絆が、今日という日のために結ばれていく。それぞれの想いを胸に、初めてのレースが始まろうとしていた。
遼の心境は複雑だった。純粋な楽しみへの期待が大部分を占めているが、これだけ多くの人が見ている中で飛ぶのは初めてだ。でも、恐怖よりも興奮の方が勝っていた。
「空を走るのを競うって、どんな気持ちなんだろう」
コックピットに座る瞬間、その高揚感が全身を駆け抜けた。古い計器類に囲まれ、操縦桿を握る。この瞬間のために、どれだけ待っていただろう。
周囲の冷笑など、もはや気にならなかった。遼にとって重要なのは、空を駆ける楽しさだけだった。