表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『世界を変える音 』── 無垢なる少女と、伝説を奏でる天才  作者: 瀬尾 碧


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/48

第六話 《デリンジャー》

スタジオの熱は、まだ壁に貼りついていた。

さっきまで世界を裏返していた余韻が、薄い霧のように空間の隅々に漂っている。


真は鍵盤の上に手を置いたまま、淡々と息を吐いた。

「……久しぶりに、本気で弾いたな」


その軽い言い方が、かえって音羽の胸を締めつける。

さっき聴いたあの音は、歴史を塗り替える響きだったのに──彼にとっては日常の一言で済むらしい。


真の指は、まだ鍵盤を離れていなかった。

無意識の手遊びのように鍵盤を撫でるたび、旋律が零れ落ちる。

練習でも、試し弾きでもない。ただ呼吸をするみたいに音が生まれる。


(……この人にとって音楽は“弾くもの”じゃない。“呼吸”なんだ……そうとしか思えない)

(いや──呼吸以上。彼は演奏しているのではない。世界そのものが、彼の指に演奏させられている──そう見えた)


その時、真が横目で問いかけてきた。

「なあ──《デリンジャー》、知ってるか?」


心臓が跳ねた。

(……知ってる。大好きな曲……)

アリア・ハート。十八歳の歌姫。世界中で響いた、あの魂の声。

クラシックしかやってこなかった自分が、夜ごとイヤホンでこっそり聴いていた。

涙で枕を濡らした夜もあった。


「……好き、です」

やっと、それだけを絞り出した。


真の口元がわずかに緩む。

「だろうな。あれは、いい曲だ」


言葉の終わりと同時に、指が沈んだ。

冒頭のコード。胸の奥に刻まれていた旋律が、一気に現実に引き寄せられる。


だが──違う。

ピアノで鳴る《デリンジャー》は、原曲の熱狂を越えて、もっと鋭く、もっと人間的に突き刺さってきた。

左手が大地を揺るがし、右手が歌姫の声を描き出す。

歌詞はないのに、歌よりも雄弁に叫んでいた。


真は視線だけで合図した。

「……一緒に弾こう」


(無理だ……合わせられるわけがない……!いや、でも……)

心は必死に拒むのに、身体が勝手に鍵盤を探していた。

指先が触れた瞬間、熱が走る。


低音の奔流に、私の和音が絡む。

彼の旋律が跳ねれば、私は受け止める。

彼が抑えれば、私はほどく。

譜面も会話もないのに、文法だけがぴたりと合った。


――その時だった。


「もっ……と!」

鍵盤の跳躍に合わせ、真の声が旋律に溶け込むように放たれる。

「もっとだ、音羽! お前の音を聴かせてくれよ!」


言葉すら音楽の一部になっていた。

その瞬間、胸の奥が爆ぜる。

(……私の音……? 私に、そんなものが……いや、あるの……?)


次の小節、涙が頬を伝った。

視界が滲んでも構わず、指は走った。

今まで隠してきた痛みも、言えなかった願いも、ぜんぶ音に変えて叩き込む。


旋律が変わる。

寄り添うだけの和音じゃない。

私自身の叫びが、デリンジャーの奔流に絡み、逆に押し返していく。

真の旋律が牙を剥けば、私は火花で応える。

彼が夜を抉れば、私は朝の光を差し込ませる。


真は再び跳ね上がり、声を刻む。

「そうだ……! それが、お前の音だ!」

その言葉すら、メロディーの一部になって響いた。


涙が鍵盤に落ち、黒い鏡面に小さな星をつくる。

泣きながら弾く《デリンジャー》。

それはもう、誰かの曲じゃない……私の曲だ。

いや──私自身の物語になっていた。


二人の音は渦となり、駆け上がる。

疾走、切なさ、祈り……そして爆発。

ペダルが微かに鳴り、譜面台の影が床に波紋をつくる。

シャンデリアが揺れ、天井の灯りが息を呑んだ。


スタジオは建物ではなく、一台の巨大な楽器になっていた。

私たちの呼吸に合わせて鳴り、夜そのものが音楽に変わっていく。


──最後の和音。


沈黙。


余韻が吸音材に飲み込まれ、時間がゆっくり戻ってくる。

私の涙が、最後にもう一滴、鍵盤を濡らした。


真は指を離し、何でもないことのように口にする。

「……これ、俺が書いたんだ。いい曲だろ?」


(……え……?)


耳が信じない。けれど、その瞳には冗談の影が一つもない。


世界を震わせた《デリンジャー》。

アリア・ハートを一夜にして世界の頂点に押し上げたあの曲。

YouTubeでは三十億回を超えて再生されている──そう、ニュースで見た。

正体不明のプロデューサー、“S-Hin”が作ったとされる伝説の楽曲。


ずっと、遠い天才の手による神話だと思っていた。

近づけば消える蜃気楼のような存在だと。


──その天才が、今、目の前にいる。


頭が追いつかない。

胸の奥で何かが壊れ、同時に何かが生まれる。

混乱と確信が渦を巻き、視界が滲む。


もう意味なんてわからない。

ただ一つだけ、確かにわかる。

この夜が“運命”だということだけは。


真は静かにこちらを見た。

黒い鏡面に映った横顔が、まるで彼自身ではなく“音そのもの”の化身のように揺らめいていた。

鍵盤に残る雫を見つめ、ほんの少しだけ口角を上げる。


「……泣きながらでも、弾けるんだな」

その言葉は慰めじゃない。認定だった──自分が音楽で生きられると告げる、初めての証明。

胸が裂けるほど痛いのに、同時に生まれて初めて“生きてる”と思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ