第五話 伝説の名は、音に刻まれて
音は激しさを増していった。
ただ鍵盤に触れているだけなのに、スタジオの空気は異様な速度で脹らみ、
壁は遠ざかり、天井のシャンデリアが微かに軋み、譜面台の影が震えて揺れた。
(……これは、もう“演奏”なんかじゃない……いや、そう呼ぶにはあまりに異様だ……)
指が落ちるたび、空気の密度が変わる。
酸素が濃すぎて胸が焼け、次の瞬間には真空のように呼吸が奪われる。
時間の砂時計が勝手に逆流し、過去と未来の境目が崩れていく。
ただの旋律ではない。
世界の構造そのものを削り、書き換える力だった。
「技巧」という言葉は粉々に砕けた。
「芸術」という定義も追いつかない。
この響きは──命を持った獣だ。
まるでこのピアノ自体が彼に抗っているのに、それでも従わざるを得ないようだった。
木材も弦も、音を吐き出すことしかできない生き物のように震えている。
吸音材が悲鳴を上げ、壁が押し広げられ、震動が天井を突き抜けて夜空に放たれる。
低音は大地の根を掴んで全身を持ち上げ、
高音は星の軌道を狂わせ……いや、光の瞬きをわずかに歪めただけかもしれない。
楽譜も理屈も追いつけない、未知の重力。
(なに……これ……どうして……)
路上でギターを叩きつけていた骨ばった手。
雨上がりの匂いを背負っていた、浮浪者のような背中。
その男が、いまは黒曜石の鍵盤で宇宙の地図を描いている。
「……どうして、ギターなんか弾いてたのよ」
声が漏れた。問いというより呪いに近かった。
だが答えは、音の奔流で返ってくる。
柔らかな流れが続く──そう思った瞬間、音が裏返った。
轟音。
真の手が跳ね上がり、鍵盤から火花のような衝撃が走る。
旋律は急転直下、稲妻に姿を変え、
さっきまで優美な川だった流れは、一瞬で牙を剥いた奔流になった。
(……っ!)
心臓が一拍、止まる。
そして次の瞬間、狂ったように暴れ始める。
空気の厚みが変わり、肺に入るたび重さが増す。
指先に電流が走り、血管の内側を火が駆け抜けた。
これは曲調が変わったのではない。
世界そのものが別の顔を見せている。
竜巻のように荒れ狂うのに、一本の線から外れない。
嵐のように激しいのに、破綻しない。
加速しているのに、時間が止まる。
──矛盾だらけなのに、不思議と破滅しない。
すべてが折り畳まれ、一つの真実に結晶していた。
胸の奥で、閉じたままだった箱が音によってこじ開けられる。
忘れたはずの記憶が、轟音に引きずり出される。
(……この音……!)
冷たい汗が背中を滑る。
心臓がテンポを失い、身体が勝手に震える。
──聴いたことがある。
ホールの暗闇。眩しい照明。
あの夜、世界が一斉に呼吸を忘れた瞬間。
稲妻のように記憶が閃く。
“完全優勝”──審査員全員が同時に立ち上がった奇跡。
“空前の評価”──評論家たちが口を揃えて天才と讃えた夜。
少年でありながら、世界を総なめにした怪物の名。
その夜を境に、クラシック界の地図が塗り替えられた──そう記事に書かれていたのを、音羽は確かに切り抜いていた。
憧れと畏れを同時に抱き、何度も読み返した活字が、いま目の前で音になっている。
喉が勝手に震えた。
「……榊原……真……」
その名を口にした瞬間、スタジオの壁が脈を打ち、天井の灯りがかすかに震えた。
まるで世界そのものが、その名を肯定するかのように。
伝説。
少年である前に、すでに「現象」だったピアニスト。
拍手が鳴り止まなかった夜。
記者会見を照らしたフラッシュの嵐。
……でも、その後、突然いなくなった。
理由もなく、言葉もなく。
ニュースで何度も見た“空白”──あの沈黙。
そして血。
父は、世界的指揮者・榊原憲一。
オーケストラを操り、人の時間を振るった男。
そうだ……昔、雑誌で読んだ記憶がある。
あの家に生まれた真は、音で世界を揺らすしかない宿命を背負っていた。
(……本物だ……ここにいるのは、伝説そのもの……!)
真はなおも弾き続けていた。
火花を散らすトリル。
刃のように突き立つスタッカート。
大地の形を変えるアルペッジョ。
それでも呼吸は静かで、肩は落ち着いていて、目は遠いどこかを見つめている。
黒い鏡面に映った横顔は、彼自身ではなく──音そのものの化身のようだった。
その姿を見た瞬間、音羽の視界さえも演奏に取り込まれていく。
音羽は悟った。
これは旋律じゃない……旋律と呼ぶのも浅すぎる。
もし神が人の姿を借り、名を持たぬまま顕れたとしたら──きっと、この青年こそが証。
(……私は、この人に出会うために、生まれてきた……いや、そんな大げさな……でも、そう思ってしまった)
胸の奥で呟いた瞬間、全身を駆け巡る音は、もはや「他人の演奏」ではなかった。
それは運命に刻印された証。
自分の未来を強引に塗り替えるほどの力。
──音羽は悟った。
この夜を境に、自分の世界は二度と元には戻らない、と。
胸の奥で鳴っているのは、彼の音ではない。私の魂に埋め込まれた“第二の心臓”
そして、その鼓動が示すのはただひとつ──未来を変える宿命の拍動だった。




