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『世界を変える音 』── 無垢なる少女と、伝説を奏でる天才  作者: 瀬尾 碧


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第四話 白亜の館に降りる夜の序曲

沈黙を裂いたのは、真のぶっきらぼうな一言だった。

「……行くぞ」


その声音は、夜気を断ち割る刃のように鋭く、どこか抗えない重さを帯びていた。

返事をする間もなく歩き出した背中を、音羽は追うしかなかった。

胸の奥で、何か大きなものに引かれるように。


──理由なんて、わからない。

けれど、足は止まらなかった。


夜の街を抜けるにつれて、光がひとつ、またひとつと遠のいていく。

ざわめきが消え、街灯が途切れるたびに、闇は濃く深く沈み込む。

残されたのは、自分のヒールの音だけ。

コツ、コツ──乾いた響きが石畳に反響し、やがて胸の鼓動と重なっていった。


息が白い。冷たい。

吸い込むたびに肺が締めつけられ、喉が灼けるように痛む。

ふと、甘い香りが漂った。

花に似ていながら、季節を裏切るその匂いは、むしろ異様な気配を孕んでいた。


道が緩やかに曲がり、視界が開ける。

高い石垣。

黒々とした壁が夜空を切り裂き、月明かりを拒んでいる。

蔦が銀糸のように光り、揺れるたび低く金属音を鳴らした。

まるで“結界”が軋むかのように。


中央に立つ重厚な鉄格子の門。

その奥に、白亜の壁が浮かび上がる。

ただの白ではない。

夜を押し返し、輝いていた。


「……え……」


声が漏れる。

夢か幻か。

さっきまで路上でギターをかき鳴らしていた青年が、この奥に帰ろうとしている。


「……ここって……あなたの家なの?」


問いかけは震えていた。

自分の声なのに、まるで遠くの誰かが言ったみたいに頼りない。


真は振り返らない。

ただ歩みを止めず、迷いのない背中を見せたまま、短く答える。


「……ああ」


その一言が、夜気を切り裂いた。

理解は追いつかない。けれど──足は止まらなかった。


(抗えない。これは、抗ってはいけない夜なんだ……)


真の背中は、揺るぎなく邸宅へと進んでいく。

まるで、この場所こそが「自分の帰るべき場所」だと告げているかのよう


──館の中。


冷たい大理石の床が月光を受け、淡く輝いている。

天井のシャンデリアは、星空をそのまま閉じ込めたよう。

赤い絨毯は深紅で、踏むたび低く響いた。


壁に並ぶ油絵の人物たちは、皆沈黙のまま、音羽を見下ろしている。

その視線が追ってくる錯覚に、背筋が凍った。

窓の外の月は歪み、光が絨毯に染みのように落ちている。


空気は澄み切りすぎて、呼吸するだけで胸が痛む。

冷気が肌をなぞり、“ここは俗世ではない”と告げていた。


(……息が苦しい……これ、本当に“家”なの……?いや、違う……)


音羽は胸を押さえる。

鼓動が足音よりも大きく響いている。

舞台裏でも館でもない。

ここは儀式場。


真の背中には、言葉にできない圧があった。

威圧でも誇示でもない。

ただ在るだけで空気を支配する──神像のような畏れ。


(……人間じゃない……いや、人間を超えてる……)

ぞくりと確信が走る。

浮浪者でも、音楽家でも、貴族でもない。

彼はきっと、“何かの名そのもの”を背負って生まれた存在だ。


(この瞬間、音羽は悟った。彼は「人の皮をかぶった音」なのだと──)


真は一枚の扉を押し開けた。


──そこは、別世界だった。


壁一面を覆う吸音材。並ぶモニター。絡まるケーブル。

そして、中央に鎮座する漆黒のグランドピアノ。

光を吸い込み、なお艶めき、夜そのものを楽器に閉じ込めたようだった。


「……スタジオ……」


息が震えた。

ただの部屋じゃない。

プロの音楽家が使う、本物のレコーディングスタジオ。


(……何者なの、この人……ほんとに)


足がすくむ。

けれど真は振り返り、淡々と告げた。


「……脱げよ」


音羽の心臓が一瞬止まる。

「……えっ」


「コート。重いだろ。ピアノの前に立つなら邪魔だ」


嘲りでも、からかいでもない。

ただ当然のように放たれた一言。


指先が震える。

でも、拒めなかった。

ボタンを外す音がやけに大きく響く。

コートを脱いだ瞬間、スタジオの冷たい空気が素肌に触れ、胸の奥まで震えた。


視線を上げる。

漆黒のピアノが、音羽を見つめ返していた。

艶やかな鏡面に映る自分の顔が問いかけてくる。


(……私は……なにを試されようとしてるの……?いや、もう試されてるのかも……)


けれど、答えはすでに心に鳴っていた。

「逃げない」

それだけが、確かな旋律だった。


真は椅子に腰を下ろし、迷いなく蓋を開けた。

隣の椅子を指で示す。

命令のようでいて、不思議と抗えない響きだった。


音羽は吸い寄せられるように腰を下ろす。

鼓動が速い。呼吸が浅い。

舞台の上でさえ感じたことのない緊張が、背筋を硬直させた。


真は鍵盤に手を置いた。

その姿は、獲物を狙う獣であり、祈りを捧げる僧侶でもあった。


指が沈む──


ただそれだけで、世界が揺れた。


音が、空気を変えた。

震える波紋が壁を伝い、天井を突き抜け、夜空へと駆け上がる。

街の灯すらかすかに揺れた気がした。


音羽は悟った。

これは旋律ではない。

神が人の姿を借り、名を持たぬまま顕れたなら──きっと、この青年はその証。


(……私は、この人に出会うために、生きてきた……いや、そんな大げさな……でも、そうとしか思えなかった)

(舞台で浴びた光よりも、この闇の中の音のほうが眩しい──その事実が、胸を裂くほど鮮烈だった)


──音はまだ、胸の奥で鳴り続けていた。

その響きは、夜を終わらせない。むしろ始まりを告げる鐘のように──。


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