第三話 音が降りてくる夜
「……俺んち、来るか?」
その瞬間、音羽の世界が一度止まった。
唐突な一言。
まるで不意に鍵盤の奥を強く叩かれたように、胸の奥が跳ねる。
呼吸が乱れ、肺が小さく痙攣する。
(……え……なに、今……?)
理解よりも早く、頬が熱を帯びた。
視線を逸らしたいのに逸らせない。
逸らしたら、もう彼に触れられなくなる気がして。
耳の奥まで熱くなる。
手のひらは汗ばんで、コートの裾をぎゅっと握りしめた。
二十年間の人生で、一度もしたことのない反応。
(……どうして……“はい”って言いたいって思っちゃってるの……?)
ありえない。
浮浪者みたいな青年に誘われて、頷く理由なんてひとつもない。
……ないはずなのに。
でも、怖さよりも先に、心の奥で「ついていきたい」が鳴っていた。
共鳴板を響かせる残響みたいに、止まらなかった。
真は返事を待たない。
ポケットから黒ずんだヘッドホンを取り出し、無造作に耳へかけた。
カチ、とスイッチが入る小さな音。
その瞬間──彼の顔から人間らしい色がすっと消えた。
街灯の下に浮かぶ横顔。
瞼を閉じたその表情は、さっきまでの粗雑で投げやりな青年じゃなかった。
夜そのものと会話する人。
ただ音楽だけと繋がる存在。
(……違う……この人、別人みたい……いや、そもそも最初から……?)
胸が苦しくて、足が震えた。
怖いのに、目を逸らせなかった。
矛盾した感情が重なって、喉が詰まる。
歩きながら、彼の指先が空気を叩く。
肩がリズムを刻み、唇が旋律をなぞる。
その姿は、誰かに見せるための演奏じゃない。
耳の奥で鳴る音と、ただ一対一で対話しているようだった。
──唐突に、真が立ち止まった。
リュックがアスファルトに落ちる鈍い音。
音羽はびくりと肩を震わせる。
視界に飛び込んできたのは、しゃがみ込む真の背中。
乱暴にノートを取り出し、鉛筆を握る。
ガリガリ、カリカリ。
音符が五線譜に叩きつけられる。
殴り書きのような筆跡。
紙が破れそうになるほどの筆圧。
(……なに……?これ……でも、目が離せない……)
息を呑む。
必死なのに、美しい。
荒れているのに、目が離せない。
(音に……追いかけられてる……?いや、逆か……?)
そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
音を操るんじゃない。音に操られている。
まるで見えない手に引きずられて、書かされているみたいに。
「……まだ浅い……もっと深く……」
低い声が夜に溶けた。
誰に聞かせるでもない呟きなのに、音羽の胸を震わせる。
筆が止まる。
真はノートを胸に抱きしめ、瞼を閉じた。
そして、旋律を口ずさむ。
それは歌じゃなかった。
言葉を超えた、ただの音。
吐息の揺れ、喉の震え、唇のわずかな動き──すべてが旋律の一部になっていた。
街灯の光が微かに揺れた。
夜風が足元を抜け、和音のように絡み合った。
遠くの電車の軋みも、通り過ぎる車のタイヤの音も、その旋律に吸い込まれていく。
世界全体がひとつの譜面に編み込まれていく……そんな錯覚。
(……これが……音楽……?いや、これ……なんなんだ……?)
涙が頬を伝う。
止められない。
嗚咽を堪えても、溢れる雫は流れ続けた。
祖母の家の古いピアノ。
小さな手で無心に叩いた、あの拙い旋律。
音を“遊ぶ”ことがただ楽しかった時間。
いつの間にか失っていたあの感覚が、彼の声で一瞬にして蘇っていた。
胸の奥で錆びついて固まっていた蓋が、いま一気に弾け飛んだ。
溜め込んできたものが決壊して、涙となって鍵盤のように頬を叩いていく。
(私、自分の音じゃ泣けなかったのに……!)
あの日のステージで浴びた拍手でも泣けなかった。
栄光の瞬間でも涙は出なかった。
なのに、いま。
たった一人の青年の旋律が、私の失った音を呼び覚ましている。
真は静かに言った。
「……音が、降りてきてる」
その一言に、全身が震えた。
人が音を探すんじゃない。
音が人を選び、降りてくる。
その事実に、畏れと美しさで胸が裂けそうになる。
(……この人……音に愛されてる……いや、愛されすぎてる……)
(きっともう、人間じゃない。彼は“音に選ばれた媒介”だ。そうとしか思えない──)
涙が視界を曇らせる。
拭っても拭っても、止まらない。
息が震え、指先が冷えていくのに、心臓だけが焼けつくほど熱い。
やがて真は目を開いた。
街灯に照らされた瞳は、深い湖面のように澄み、底に沈むものまで見透かす静けさをたたえていた。
その視線が、涙に濡れる音羽を逃さずとらえた。
「……なんでお前、ここにいるん?」
ぶっきらぼうな声。
夜と契約していた男が、現実に戻ってきたみたいに。
返せなかった。
声にしたら、この胸の震えが全部漏れてしまう気がして。
ただ見返すしかなかった。
(……わからない。
でも、ここにいるしかなかった……!)
二人の視線が絡む。
時間が止まったみたいに。
街灯の下で、クラシックのプリンセスと路上の放浪者。
誰が見ても不釣り合いなのに──それでも、説明できない必然がそこにあった。
──篠宮音羽は、もう引き返せなかった。
夜はまだ深く、旋律はまだ始まったばかりだった。
それは二人だけの楽章──未来を変える“序章”の音だった。




