第一話 世界を変える音(前編)
成田空港の到着ロビーは、光と歓声で揺れていた。
「音羽ちゃーん!」「女神!」「日本の奇跡!」
絶え間なく弾けるフラッシュは、星の雨みたいに視界を焼き、
差し出される花束は重く、胸を締めつけた。
二十歳の音大生、篠宮音羽。
芸大ピアノ科に在籍し、ショパン国際ピアノコンクールで優勝。
艶やかな黒髪と、透きとおる白い肌。
長い睫毛に縁どられた大きな瞳は澄んで、
ドレスに包まれた姿は「クラシックのプリンセス」と讃えられた。
教授は誇らしげに肩を叩き、同級生は羨望を隠さなかった。
テレビは特番を組み、雑誌は完売。
SNSは「#音羽様」で埋め尽くされ、
誰もが祝福し、誰もが羨んだ。
──けれど。
(……私には、もう“音”が見えない)
拍手は大きすぎて、逆に心臓の音が聞こえなくなった。
いや、きっと鳴ってたんだろう。鳴ってたはずなのに、私には届かなかった。
称賛の声は耳を震わせるのに、
自分の音だけが、どこにも響いていなかった。
(弾いても弾いても、空気が動かない。
正しい音しか並ばなくて、心を震わせる音はひとつもない……)
笑顔を作るたびに頬がこわばり、
喉は乾いて、水を飲んでも砂を噛むみたいにしか感じなかった。
指先は冷たく、もし鍵盤に触れたら砕け散りそうで怖かった。
(……私の音楽は、輝きをなくした“影”になってしまったの?)
子供のころ──祖母の家の古いピアノ。
小さな指で無心に鍵盤を叩いていた。
間違っても、乱れても、それがぜんぶ「音楽」だった。
夢中になりすぎて笑って泣いて、
鍵盤に頬を寄せて眠ってしまった夜もあった。
あのときの音は、まだ生きていた。
名前も形もなく、ただのびのびと息をしていた。
それを探してきたはずなのに。
今、両手にあるのは、拍手と肩書きばかり。
(……私、音楽が下手になったのかもしれない。
いや、ピアノは上手くなった。そこは事実。
でも……心の音は、死んでしまった)
夜。
ホテルの一室は花束で埋め尽くされていた。
赤、白、ピンク──色とりどりの花弁は舞台装置のように広がり、
祝電やカード、贈り物が足の踏み場を奪っていた。
華やかなはずなのに、それは祝福ではなく、
ただの牢獄の飾りだった。
スマホを開けば、通知は鳴りやまない。
ニュースもSNSも、自分の名前で溢れかえっている。
けれど、その「篠宮音羽」という文字は、
もう他人の名前にしか見えなかった。
(呼ばれているのは“音羽”じゃない。“#音羽様”だ)
(私はもう、人間じゃなくて、記号になってしまったんだ)
花の香りが肺に絡みつき、息をするたびに胸が塞がった。
窓を閉めても、外から「音羽様!」と叫ぶ声が響く。
歓声のはずなのに、耳には鉄の棒を擦る音のように聞こえた。
眠れない夜が続いていた。
布団に入ってもまぶたが熱く、心臓の音ばかりがやけに大きく聞こえる。
朝になっても食欲はなく、スープすら喉を通らない。
(ほんとは……ただの女の子でいたかった。
友達と笑って、恋して、泣いて……そういうの。
大げさじゃなくて、みんなが当たり前に持ってる時間を、
私も積み重ねたかっただけなのに)
「やめたい」
心の奥でそう呟いて、すぐに首を振る。
「でも、やめられない」
(音楽をやめたら、私は空っぽになる。
でも、このまま続けても……私の“音”はどこにもない)
涙は出なかった。
泣けるほどの音すら、もう私には出せなかった。
ドレスを脱ぐ気力もなく、コートを羽織って外へ出る。
夜の街の空気は鋭く冷たく、頬を刺した。
その痛みのほうが、よほど「生きている」と思えた。
街灯が濡れたアスファルトを照らし、
ヒールの音がカン、カンと乾いて響いた。
信号待ちで立ち止まると、横を通り過ぎる子供が無邪気に笑った。
その笑い声が胸に触れた瞬間、どうしようもなく涙が出そうになる。
行き先なんてなかった。
ただ、音を失った自分から逃げるように歩き続けた。




