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それは、檸檬じゃなきゃダメですか?  作者: すっとぼけん太
2/2

第2話 文学とバナナとかにかまの境界線について

ある日――


『そのレモン、バナナでも良くない?』


と、ふと、そんなことを考えてしまった。


梶井基次郎の『檸檬』。

言わずと知れた、日本近代文学の短編名作である。

教科書にも登場し、文庫本でも平積みされ続けている。


だが、冷静に考えてみれば――事件は起きないし、物語らしい筋もない。

主人公は果物屋でレモンを買い、それを丸善に置いて帰る。それだけだ。


だからこそ私は思ったのだ。


「もしそれがバナナだったら?」

「あるいは、かにかまだったら?」


果たして、檸檬でなければいけなかったのか?



【1】 バナナでは、文学にならなかった


――想像してみよう。


主人公が果物屋で手に取ったのが、完熟バナナだったとしたら。

黒ずんだ皮、どこか生活臭のあるその佇まい。

それを丸善の画集コーナーにそっと置く――


……どう考えても文学というより、生ゴミの忘れ物である。


檸檬の「カーンとした冷たさ」、

「冴えた色彩感覚」、

あの**“無意味のようで意味がありそうな緊張感”**は、

バナナにはない。


バナナは、あまりにも日常的で、親しみやす過ぎるのだ。

味はうまいが、文学的ではない。


檸檬が“異物感”を持つのに対し、バナナは“朝食感”しかない。



【2】 かにかまに至っては、もうギャグだ


では――かにかまはどうか。


赤と白のコントラスト、美しい細工。

意外と映えるルックス。だが……


冷蔵必須。


しかも、食材感が強すぎて、文学的な象徴にはなりにくい。


「丸善の棚に、かにかまを十字にして置いた」――

それはもう、純文学というよりアヴァンギャルドな社会風刺ポエムである。


読み手は困惑し、笑い、そしてそっとページを閉じるだろう。


だが、だからといって。

それを“駄作”と呼び切ってしまってよいのか?(←ここ大事!)


かにかまは、偽物でありながら本物よりも流通している。

その「代替の美」は、21世紀の文学が宿す条件――

**“虚構のほうが現実的に感じられる”**という逆説を、あまりにも素直に体現しているのだ。



【3】 AIに『檸檬』を評価させてみた


――試しに、AIに『檸檬』を読ませてみた。


もちろん、タイトルも作者名も伏せてである。


すると――最初の評価は、満点。100点。


「おま、それおかしいだろ!」と私は思った。


「……これ、梶井基次郎って分かってたでしょ?」と聞くと、

「はい、勿論、知っています」とAIはドヤ顔で答えた。


ならば、と“知らない体”で再評価してもらった。

結果は――69点。


いきなり減点31。さっきの満点は何だったんだ。


理由を尋ねると、

「構成が甘い」「文がまわりくどい」「主題が曖昧」など、

冷酷な指摘が並んでいた。

最後に言ってきた――一言でまとめるなら、

「文章の力だけで成立している“小品”」。


あまりにも有名な“名作”が、

現代AIのフィルターに、“小品”とまで言われてしまった。


檸檬の「改善点」も提案されたので、素直に直してみた。

たしかに、文は読みやすくなった。

でも――『で、だからなに?』ってなった。

なんか薄い。なんも残らん。


つまり、読みやすくしたら“あの味”が死んでしまったのだ。

檸檬じゃなくて、ポッカレモンにしたみたいな味気なさ。



【4】 他の作品も採点してもらった


同じように、他の文学作品の冒頭も評価してもらった。

※すべてAIが「作者名・作品名を無効にして」評価した。


◎作品名 評価点数

・『坊っちゃん』(夏目漱石)   81点

・『人間失格』(太宰治)     76点

・『薬屋のひとりごと』(日向夏) 87点

・『葬送のフリーレン』      82点

・『転生したらスライムだった件』 75点


……ご覧の通り、『檸檬』、最下位である。


まさか、丸善の檸檬が『スライム』に敗北する時代が来るとは、梶井も夢にも思うまい。


時代の空気が変われば、“文学”の定義も変わる。

“構造が薄い”とか“説明不足”は、かつての名作を、

現代のAIの目からは“不可解なもの”に見せてしまうのだ。



【5】 でも、それは“あの時代”の空気があったから


『檸檬』が書かれたのは、大正末期から昭和初期。

不況、戦争、病気、将来不安――誰もが、生きるだけで疲れていた時代。


そんなとき、「意味のない美しさ」は、思想以上にリアルな救いだった。

たとえ物語がなくとも。たとえ意味が不明でも。


その冷たさや色合いが、

確かに、読者のどこかを――静かに救った。


そして今、現代風刺として――

『あの文学的空間・丸善を、政治的な空虚空間に変化させてみた』

 


【6】 文学とは、“読者の今”で完成する


同じ作品でも、受け取り方はまるで違う。


文学『檸檬』は――

・元気な人にとっては「ただのレモン」。

・病んでいる人にとっては「世界を救うレモン」。


文学は、“その時の時代背景”や“読む人の状況”によって形を変える。


それがバナナでも。――かにかまでも。


もし、あなたの中で何かが動いたなら、

それはもう文学なのかもしれない。



【7】 だから今、駄作でも100年後は名作かもしれない


考えてみれば、ゴッホの絵だって、生前は全然売れなかった。

カフカの小説も「難解すぎる」で片づけられた。


つまり――


「駄作」は、時代に合わなかっただけかもしれない。


【私は、この世界に――かにかまを置いてきた】


――なんとシュールで、美しいのだろうか。


そう、それを評価されるかどうかなんて、

その作品を、“理解できる読者”が現れたかどうかに過ぎないのだ。



【8】 結論:文学とは、置かれた檸檬のようなもの


・バナナでは駄目だった。

・かにかまでは笑われた。

でも――檸檬は、文学になった。


そして、かにかまもまた、

いつか誰かの文学になるかもしれない。


・AIが何点をつけようと。

・現代人が冷笑しようと。

「共感してしまった読者」がいる限り、その作品は生き続ける。


意味があるようで、ない。

でも、だからこそ、心に引っかかる。


文学とは、そういう**“わからなさ”の残滓**なのだ。




私の書いた『かにかま』も――

もしかすると、100年後に“名作”として、読まれているかもしれない。


いま、あなたの読まれないと嘆いている物語も、

いまの時代に合わなかっただけで、

……100年後、いや200年後に、

このサイトを見た誰かの感情を揺さぶり、

アニメ化や映画化へと進化している可能性だってある。


――2125年版全集の解説には、こう記されているかもしれない。

「『かにかま文学』は、かつて『檸檬』が大正の憂鬱を慰撫したごとく、

 AIと情報氾濫に疲弊せし世紀の魂をも救済し、かつ挑発し続けた。

 本作こそは、虚構と現実の交叉点に屹立する、

 唯一無二の記念碑にほかならない。」……と。


そう思うと、少しだけ、

あの罰点の赤と白が、よりくっきりと、意味深く思えてくるのである。


【了】

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