第2話 エッセイ『檸檬じゃなきゃダメですか?』
──文学とバナナとかにかまの境界線について
「そのレモン、バナナでも良くない?」
――ふと、そんなことを考えてしまった。
梶井基次郎の『檸檬』。
言わずと知れた、日本近代文学の短編名作である。
教科書にも登場し、文庫本でも平積みされ続けている。
だが、冷静に考えてみれば――事件は起きないし、物語らしい筋もない。
主人公は果物屋でレモンを買い、それを丸善に置いて帰る。それだけ。
だからこそ私は思ったのだ。
「もしそれがバナナだったら?」
「あるいは、かにかまだったら?」
果たして、檸檬でなければいけなかったのか?
■ バナナでは、文学にならなかった
――想像してみよう。
主人公が果物屋で手に取ったのが、完熟バナナだったとしたら。
黒ずんだ皮、どこか生活臭のあるその佇まい。
それを丸善の画集コーナーにそっと置く――
……どう考えても文学というより、生ゴミの忘れ物である。
檸檬の「カーンとした冷たさ」、
「冴えた色彩感覚」、
あの**“無意味のようで意味がありそうな緊張感”**は、
バナナにはない。
バナナは、あまりにも日常的で、親しみやすすぎるのだ。
味はうまいが、文学的ではない。
■ かにかまに至っては、もうギャグだ
では――かにかまはどうか。
赤と白のコントラスト、美しい細工。
意外と映えるルックス。だが……
冷蔵必須。
しかも、食材感が強すぎて、文学的な象徴にはなりにくい。
「丸善の棚に、かにかまを十字にして置いた」――
それはもう、純文学というよりアヴァンギャルドな社会風刺ポエムである。
読み手は困惑し、笑い、そしてそっとページを閉じるだろう。
だが、だからといって。
それを“駄作”と呼び切ってしまってよいのか?(←ここ大事!)
■ AIに『檸檬』を評価させてみた
――試しに、AIに『檸檬』を読ませてみた。
もちろん、タイトルも作者名も伏せてである。
すると――最初の評価は、満点。100点。
「おま、それおかしいだろ!」と私は思った。
「……これ、梶井基次郎って分かってたでしょ?」と聞くと、
「はい、勿論、知っています」とAIは、ドヤ顔で答えた。
ならば、と“知らない体”で再評価してもらった。
結果は――69点。
いきなり減点31。さっきの満点は何だったんだ。
理由を尋ねると、
「構成が甘い」「文がまわりくどい」「主題が曖昧」など、冷酷な指摘が並んでいた。
最後に言ってきた――一言でまとめるなら、「文章の力だけで成立している“小品”」。
あまりにも有名な“名作”が、
現代AIのフィルターに、“小品”とまで言われてしまった。
ちなみに、檸檬の「改善点」も提示されたが、それを直さすと――
文章はたしかに読みやすくなった。
でも、『で、だからなに?』となった。なんか薄い。なんも残らん。
つまり、読みやすくしたら“あの味”が死んでしまったのだ。
檸檬じゃなくて、ポッカレモンにしたみたいな味気なさ。
■ 他の作品も採点してもらった
同じように、他の文学作品も評価してもらった。
※すべてAIが「作者名・作品名を無効にして」評価した。
作品名評価点数
・『坊っちゃん』(夏目漱石) 81点
・『人間失格』(太宰治) 76点
・『薬屋のひとりごと』(日向夏)87点
・『葬送のフリーレン』 82点
・『転生したらスライムだった件』75点
……ご覧の通り、『檸檬』、最下位である。
時代の空気が変われば、“文学”の定義も変わる。
“構造が薄い”とか“説明不足”は、かつての名作を、
現代のAIの目からは“不可解なもの”に見せてしまうのだ。
■ でも、それは“あの時代”の空気があったから
『檸檬』が書かれたのは、大正末期から昭和初期。
不況、戦争、病気、将来不安――誰もが、生きるだけで疲れていた時代。
そんなとき、「意味のない美しさ」は、思想以上にリアルな救いだった。
たとえ物語がなくとも。たとえ意味が不明でも。
その冷たさや色合いが、
確かに、読者のどこかを――静かに救った。
そして今――
『あの文学的空間・丸善が、いまや政治的な空虚空間になり果てている』
■ 文学とは、“読者の今”で完成する
同じ作品でも、受け取り方はまるで違う。
元気な人にとっては「ただのレモン」。
病んでいる人にとっては「世界を救うレモン」。
文学は、“その時の時代背景”や“読む人の状況”によって形を変える。
・それがバナナでも。
・かにかまでも。
もし、あなたの中で何かが動いたなら、
それはもう文学なのかもしれない。
■ だから今、駄作でも100年後は名作かもしれない
考えてみれば、ゴッホの絵だって、生前は全然売れなかった。
カフカの小説も「難解すぎる」で片づけられた。
つまり――
「駄作」は、時代に合わなかっただけかもしれない。
【私は、この世界に――かにかまを置いてきた】
――なんとシュールで、美しいんだろうか。
そう、評価されるかどうかなんて、
その作品を、“理解できる読者”が現れたかどうかに過ぎないのだ。
■ 結論:文学とは、置かれた檸檬のようなもの
・バナナでは駄目だった。
・かにかまでは笑われた。
でも――檸檬は、文学になった。
そして、かにかまもまた、
いつか誰かの文学になるかもしれない。
・AIが何点をつけようと。
・現代人が冷笑しようと。
「共感してしまった読者」がいる限り、その作品は生き続ける。
意味があるようで、ない。
でも、だからこそ、心に引っかかる。
文学とは、そういう**“わからなさ”の残滓**なのだ。
私の書いた『かにかま』も――
もしかすると、100年後に“名作”として読まれているかもしれない。
そう思うと、少しだけ、
あの罰点の赤と白が、よりくっきりと、意味深く思えてくるのである。
【了】