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それは、檸檬じゃなきゃダメですか?  作者: すっとぼけん太
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第1話 現代風文学『かにかま』

 えたいの知れない不吉な塊が、私の心を始終押し包んでいた。


 夏の湿気か、失職の不安か、それともこの国全体がどこかで醸し出しているような、諦念(たいねん)めいた匂いか。

 それらのどれとも判然としないまま、私は朝から街を彷徨(ほうこう)していた。


 以前、私をよく慰めてくれたどんな娯楽も、いまの私には辛抱がならなかった。

 サブスクの音楽も、動画配信サイトの韓国ドラマも、最初の数分で不意に再生を止めてしまいたくなる。


 何かが、私を居堪たまらなくさせるのだ。

 それで私は始終、駅前から裏路地へ、コンビニの棚から八百屋の端まで、街を彷徨い歩き続けていた。


 ベランダの――勢いのいい食べられる植物――プチトマト、アスパラ、そして室内の豆苗(とうみょう)

 それらは、どこかしら美しかった。――特に、豆苗は、何度だってむしれた。


 雨と光を浴びて伸びるそれらは、どこか希望のようでもあった。

 だが私は、どこかそれすらうとましく思っていた。


 そして、もう一つ。


 私はまたあの鼻血というやつが好きになった。

 鼻血そのものは、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまな斑模様をティッシュの上に描き出していく。

 それは、どこか華やかで、無意味で、そして美しかった。


 そして何よりも――私は、鼻の穴の中に、匂いを感じた。


 鼻の穴の匂いがしたら、いつも臭くてたまらない。だから、無臭なのだ。

 それなのに、その鼻の穴に、鼻血を出すと、匂いがするのだ。


 この常識を、鼻血はその理屈ごと――理不尽なまでに――吹き飛ばしてしまう。

 その赤い液体は、どこか破綻した美しさを孕んでいて、諦念めいた匂いすらも忘れさせてくれた。

 そんなものが、変に、私の心を唆そそった。


 

 そんなある朝、私はまたしても、何かに追いたてられるように歩いていた。

 歩を止めることが、まるで許されぬような息苦しさが、足裏から背筋へと沁みていた。


 ふと、京都の、小さな魚屋の前で立ち止まった。


 戸口の隙間から洩れる冷気。

 半ば開け放たれた冷蔵棚に、妙に艶やかな、見慣れぬ紅白の物体が鎮座していた。


 ――かにかまである。


 その名の素朴さに反して、どこか不自然なまでに整っていて、

 清潔で、そしてどこか異質な美しさを湛えていた。


 ――つまりはこれはフェイクなんだな。――


 私は、わけもなくそれに心を惹かれた。

 そして、ひと包み、買い求めた。


 そのあと、どこをどう歩いたのだろう。

 歩き続けるうちに、私はある建物の前で足を止めた。

 古びた木製の看板には、かすれた文字でこう記されていた。


 ――与党選挙事務所・『丸善』


 どうやら、かつて借金取りの亡霊のようになって潰れた、翡翠色(ひすいいろ)香水壜(こうすいびん)や画集などの書籍を扱っていた建物を、選挙の拠点として間借りしているらしい。

 扉は開け放たれ、中には人影もなく、風に舞うビラと、束ねられたポスターが無造作に横たわっていた。


「今日は(ひとつ)入ってみてやろう」

 私は、何の躊躇もなくその中へずかずかと足を踏み入れた。


 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた甘美な鼻の穴の匂いがだんだん逃げていった。

 散乱したポスターの束を一つずつ拾い上げ、丁寧に、そして几帳面に積み上げてゆく。

 候補者たちの顔が、仰角を少しずつ変えながら重なってゆく。

 加工みえみえの威厳ある笑顔。希望に満ちたスローガン。幸福を約する言葉たち。


 私はそれらを、塔のように――否、どこか神殿めいた構造物のように組み上げた。


 そして、袋の中から、かにかまを二つ取りだして、その神殿の上に置いた。

 ひとつを、そっと横に。もうひとつを、その上に縦に置く。


 紅と白の断片が、『罰点』のかたちで頂に浮かび上がった。

 それは、奇妙な厳かさと滑稽さを孕んでいた。


 私は、数歩下がってそれを眺めた。爆発する気配は一切ない。

 しかし静かに、けれど確かに、胸の奥にあったあの重苦しい塊がほどけていくのを感じた。


 そして私は、思ったのだ。


 ――この国の、何ひとつ変えられぬ私であっても、

  せめて、このちっさい罰点を置いてゆくことはできたのだ。


 私は、なに喰わぬ顔をして、すたすたと外へ出た。

 真昼の街路は、さきほどよりもいくぶん明るく見えた。


 そして、心の中でそっと呟いた。


 【私は、この世界に――かにかまを置いてきた】


 その言葉が胸の内で鳴ったとき、

 私は、ひどくくすぐったいような、誇らしいような気持ちに包まれていた。


 あの紅白の断片が、ポスターの山に描いた罰点は、

 まるで世界に向けて私が放った唯一のパンチのようでもあった。


 選挙の神棚に、私は“供物”として、かにかまを捧げたのだ。

 何の祈りも、何の誓いも持たずに。


 街を歩きながら、私は考えていた。

 もしもこのあと、あの選挙事務所のポスターの上の、

 紅白のかにかまが、しおれていくとしたら――

 それはさぞかし、見事になえる祝祭ではないかと。


 罰点が示すのは否定ではない。

 あれは、私なりの「了解」であり、

 「すでに諦めた者からの、ささやかな申し出」でもある。


 私は背中に光を感じた。

 街の雑踏も、看板の色も、車のクラクションすら、

 いくらか滑稽で、いくらかまばゆく思えた。


 あの丸善の中で、私の世界へ向けて放ったかにかまが、

 今も赤白の静けさで、

 この世界を斜めに、がんみしていると思うと、

 私はひどく愉快だった。


 そして私は――

 活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。



**文学とは、論理や効率を超えて、ただひたすらに、個人の内面に深く触れる「不確かな何か」**なのだ。


この情報過多な時代において、AIには計り知れない、私たち人間だけが感じ取れる「わからなさ」の中にこそ、真の豊かさがある。


あなたの「心」に語りかけるものは、檸檬ですか? それとも、かにかまですか?

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