悪役令嬢と呼ばれた私が家を捨てて隣国に逃げたら、皇太子に溺愛されて次期王妃になりました
貴族の館の奥で、私は今日も一人だった。
上流貴族ハルツェル侯爵家の次女、エルミナ。名ばかりの侯爵令嬢。幼少の頃から両親に無視され、姉のレイチェルには「醜い、無能、疫病神」と罵られながら、誰にも庇われずに育ってきた。
それでも、ほんの少しの希望があった。
婚約者――第一王子のセシル様。政略で決まった関係とはいえ、私の存在を認めてくれる唯一の人だと信じていた。
けれどそれも、今日、終わった。
「婚約は破棄する。理由は……君に品性がないからだ」
それは、王城での舞踏会の場だった。セシル王子は、私の姉レイチェルの手を取りながら、冷たくそう告げた。
周囲の視線が突き刺さる。レイチェルは笑みを浮かべ、王子の腕に絡みついて私を見下ろした。
「当然でしょう? あなたにはもったいないわ、セシル様は」
「侯爵家としても、レイチェルの方が相応しい。お前には別の道を歩んでもらおう」
父は淡々と言い放った。母はただ目を伏せるだけ。誰も私を庇わなかった。
悪役令嬢。いつからか、そう囁かれるようになった名前が、私の唯一の肩書だった。
その夜、私は館を抜け出した。
燃えるような怒りでも、冷たい悲しみでもなく、ただ、空っぽだった。
――もう、ここには居場所はない。
そうして私は、夜明け前の森を抜け、国境を越え、隣国エルディアへと逃げ込んだ。
◆
「名は?」
「……ミナ」
偽名を名乗った私は、小さな村の宿屋に身を寄せていた。
食器洗い、掃除、雑用……貴族の知識など役に立たない仕事ばかりだったが、働くことで誰かに認めてもらえる感覚は、どこか心地よかった。
「君、変わってるな。背筋が真っ直ぐすぎる」
そう言ったのは、一人の青年。旅人だと名乗るその男は、ふとした偶然で宿に立ち寄ったらしい。
金の髪に琥珀色の瞳。どこか品のある立ち居振る舞いに、ただ者ではないと警戒した。
だが彼は、それを意に介さず笑った。
「君、ずっとここにいるのか?」
「……行くあてもありません」
「なら、俺の城に来ないか?」
「……は?」
私は目を疑った。
彼の正体は、隣国エルディアの皇太子、カイエル・レオニスだった。
◆
「断る」
「……理由を聞いても?」
「私には、何もないからです。あなたに与えられるものなど、何も」
私はその好意を、幾度となく突き返した。
優しくされるほど、心が壊れていくようだった。温もりを知ってしまえば、また失った時、二度と立ち直れなくなる。
けれど彼は、諦めなかった。
「なら、俺がお前を奪おう」
彼はそう言って、私の過去を調べ上げた。
婚約破棄、姉からの暴行、両親のネグレクト。そして、それを誰一人咎めなかった王国の仕組み。
「俺の許しが出た。あの国の腐った貴族どもを、全部潰す」
「……何を、する気ですか?」
「お前の代わりに、復讐してやるんだよ。俺の“妃”として、堂々とな」
数日後、ハルツェル侯爵家は隣国による経済的制裁により破産。
姉レイチェルは、王子との関係を暴露され、貴族令嬢の地位を剥奪された。
父は不正献金の証拠を暴かれ、爵位を剥奪。母はその衝撃で倒れ、屋敷は売却された。
王子セシルは、自身の政略結婚破棄の影響で王位継承権を失い、国外追放処分に。
私は――何もしていない。ただ見ていただけ。
カイエルが、すべてやってくれた。
◆
そして今、私はエルディア王宮の正装を身にまとい、王妃候補として、玉座の間に立っていた。
「エルミナ・ハルツェル。……いや、これよりは、レオニス・エルミナとして名乗るがよい」
カイエルが私の手を取って、宣言する。
ここには、私を蔑む者はいない。私を“役立たず”と罵る姉も、無視する両親もいない。
「……まだ、信じられないのです。こんな私が……」
「お前は“こんな”じゃない。俺が見たのは、お前がどれほど強くて、美しいかってことだ」
彼の手は、あたたかかった。過去の全てが嘘だったかのように、心を溶かしてくれる。
ようやく気づいた。
私は――愛されたかったのだ。
誰かに、必要とされたかった。
「……ありがとう、ございます。カイエル様」
「違う。夫になるんだから“カイエル”でいい」
その言葉に、私は思わず笑った。
もう、あの冷たい館には戻らない。
私は、私のままで生きていく。
次期王妃として。愛される女性として。
---
祝福の鐘が、青空に響き渡る。
「……本当に、今日なんですね」
鏡の前で、私は小さくつぶやいた。
純白のドレスは、かつての自分とはまるで似つかぬほど、眩しかった。
背中に広がるレースの刺繍、細やかに施された銀糸の紋章、王家の象徴である蒼き宝石。
どれもが私が“選ばれた存在”であることを証明していた。
「とてもお美しいです、エルミナ様」
侍女がそっと微笑む。かつては名前さえ呼ばれなかった私に、今は人が敬意をもって接してくれる。
変わったのは周囲ではなく、私自身なのだと、ようやく理解できた。
「……行こう、私の足で。私の意思で」
私はドレスの裾をつまみ、扉へ向かう。
今日は、カイエルと結ばれる日。――私の、新しい人生の始まりだ。
◆
「王城での式は、政務の重臣、外交の代表、そして各国の要人を招く、最大級の国事行事です」
側近がそう説明する中、私は王宮の大広間の扉の前に立っていた。
そして――
扉が開かれた。
広間の中央、純白のバージンロードの先には、カイエルが立っていた。
凛々しい軍装に、王家の紋章を飾り、堂々たる姿で私を見つめるその瞳は、優しく、温かい。
私は一歩、また一歩と進む。胸がいっぱいになりそうだった。
その途中――見知った顔が目に入った。
レイチェル。セシル。父と母。
すでにすべてを失い、爵位も名誉も剥奪された彼らは、今やただの「招待客」だった。
だが今日だけは、あえてカイエルの意向で呼ばれたのだ。
その意味を、彼らは痛いほど理解しているはず。
「……お前が、王妃になるだなんて……」
レイチェルの唇が震えているのが見えた。
けれど私は、ただまっすぐ前を見て、微笑んだ。
――もう、あなたたちに私は何も求めない。
私は、私を選んでくれた人の元へ向かうのだから。
◆
神官の言葉に従い、私たちは向かい合った。
「皇太子カイエル・レオニス・エルディア。あなたは、このエルミナを生涯の伴侶と認めますか?」
「はい。命尽きるその時まで、彼女を守り、愛し、共に歩むことを誓います」
カイエルの言葉に、心が震えた。
今まで聞いたどんな言葉よりも、力強く、あたたかい。
「エルミナ・ハルツェル。あなたは、このカイエルを生涯の伴侶と認めますか?」
「……はい。すべてを失ったあの日、手を差し伸べてくれたあなたに、心から感謝しています。
私は、生涯あなたの隣に立ち、共に生きていくことを誓います」
涙が、頬を伝った。
でも、もう拭わない。これは弱さではない、強さの証だ。
「この二人の契りが、神と民の前で結ばれたことを、ここに証します」
神官が高らかに宣言する。
その瞬間、カイエルが私を優しく抱き寄せ、額にそっと口づけた。
「……ようやく、君を正式に“俺のもの”にできたな」
「ふふ、前からあなたのものでしたよ?」
小さく笑い合う私たちの周囲から、歓声と拍手が湧き上がった。
◆
その後の披露宴では、国内外の賓客が次々と挨拶に訪れた。
中には、私の旧友だった令嬢たちや、かつて私を見下していた者たちもいたが――
「王妃となったエルミナ様に、ぜひ我が国の公女教育をお任せしたいのです」
「さすが王妃殿下。知性と気品を兼ね備えていらっしゃる」
誰もが敬意をもって、私を「王妃」として迎えてくれる。
私は、もう「悪役令嬢」ではない。
愛され、選ばれ、国と運命を共にする人間なのだ。
◆
夜。
式が終わり、王宮のバルコニーから夜景を眺めていると、カイエルが隣に立った。
「今日の君は、まるで女神のようだった」
「また、そうやって……」
「本気だよ。……でも、今からは“妻”としての君を独占できる」
カイエルの腕が、私の腰を抱く。
どんな過去も、どんな痛みも、この腕の中にいると溶けていく気がした。
「カイエル様――」
「妻になったのに、“様”はやめろ。……カイエルで、いい」
「……はい、カイエル」
ようやく呼べたその名前は、どこまでもあたたかく、私の心に染み渡った。
「さあ、夜は長い。今日からは君の全てを、俺だけのものにする番だ」
その言葉に、胸が高鳴る。
もう恐れることは何もない。
私の人生は、今まさに――本当の意味で、始まったのだから。