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記録データ.浅野

▼以下、浅野貴志による物語



第一章『呼び出された夜』


俺は、その夜もいつも通り仕事をしていた。

ただ、いつもと違ったのは「時間」だけだ。

終業時間を過ぎても消灯されないフロア、

やけに静かな空間に鳴り響くキーボード音──それが俺の日常だった。


「浅野さん、今日の夜、少しだけ会議室に来てもらえますか?」


その一通のチャットが届いたのは、午後五時を少し回った頃だった。

送信者は──田所部長。


理由は明かされていなかった。ただ、

そのメンツが続けてチャット欄に現れた時、嫌な予感がした。


坂口主任、宮島先輩、倉持……

そして俺。


まるで、選ばれたような感覚。

何のために?なぜ今夜に限って?


けれど断る選択肢はなかった。

彼らの機嫌を損ねると何が起きるか、俺はもう何年も見てきた。

「わかりました」とだけ打ち込み、席を立った。


会議室C──

あそこは、かつて“彼”が最後にいた場所だ。


“彼”の名前は、社内で禁句になっていた。

資料からも、データベースからも削除され、

まるで最初から存在しなかったかのように扱われていた。


けれど、俺は覚えている。


村瀬真一──

かつて俺たちと同じ部署にいた男。

誰よりも真面目で、誰よりも空気を読まなかった。


だから潰された。


「お前のせいで、俺が怒鳴られたんだよ!」

「空気読めや、村瀬!」

「女のくせに〜って言ったくらいで騒ぐな、マジ面倒くせえ」


罵声が日常だった。

俺も、止めなかった。

──いや、止められなかった。


そして、彼は消えた。


あの日、会社に来なくなって、

数週間後に「退職した」とだけ知らされた。


俺は、あの夜のことを思い出しながら、

エレベーターに乗って八階へ向かった。


【20:16】


扉が開いたとき、

すでに誰かの気配があった。


俺はそれを気にせず、

ただ「いつものように振る舞うこと」だけを意識して、

会議室Cのドアノブに手をかけた。


ギィ……と重い音を立てて、

俺は“罠”の中へと足を踏み入れた。


第二章『音のない裁き』


会議室に入った瞬間、冷たい空気が肌にまとわりつく。

季節は春のはずなのに、室内は冬のような静寂に包まれていた。

窓はすべてブラインドで閉ざされており、外の明かりも届かない。


先に来ていたのは田所部長だった。

無言でこちらを一瞥し、またノートパソコンに視線を落とす。

その動きに、昔から俺は慣れていた。

関わるな、余計なことを言うな──

田所の目は、そう言っていた。


やがて坂口主任が入ってきて、軽く俺の肩を叩いた。

「おつかれ。今日も残業か? ああ、俺たちもだけどな。ははっ」

薄ら笑いが、妙に耳に残った。


続いて宮島先輩と倉持が入ってきた。

倉持は不満げな顔で「なんで俺まで?」とぼやきながら、椅子に腰を下ろす。

宮島は水を一口飲んで、メイクの崩れを気にしていた。


会議が始まる気配はない。

田所も坂口も、話を切り出さない。

妙な沈黙が、室内を支配していた。


俺は不安をかき消すように、出された水に手を伸ばそうとした──

が、そのときだった。


「グッ……!」


田所部長が、突然、喉を押さえて苦しみ出した。

椅子を蹴飛ばし、机にぶつかり、倒れ込む。

その拍子に名札が滑って床に落ちた。


「え、ちょっと田所さん!? 嘘でしょ!?」

宮島の悲鳴が響く。

坂口が立ち上がろうとして、同じようにむせ返り、机にしがみついた。


倉持が立ち上がる。

「何が起き──」と叫ぶ寸前、

会議室のドアが、内側からゆっくりと開いた。


「……誰だよ……」


誰かが呟いた。

だがその問いに答える者はいなかった。

代わりに、ひとりの男が、工具箱を持って部屋に入ってきた。


作業服。

顔は半分フードで隠れている。

だが、その眼だけは──どこか、見覚えがあった。


「施錠……した……?」


倉持が絶望的な声を漏らす。

男は背後でゆっくりと扉を閉め、

カチャ、と音を立てて鍵をかけた。


次の瞬間だった。


宮島が逃げようとした。

しかし男は、何の迷いもなく腰の工具箱からナイフを抜き、

宮島の足を切り裂いた。

悲鳴、というより“叫喚”。

彼女はそのまま床に倒れ、動かなくなった。


男が言った。


「覚えているか?」


……声は低く、そして確かだった。

かつて毎日聞いていた声──


村瀬、真一。


信じられなかった。

彼は、死んだと聞いていた。

いや、少なくとも“退職した”ことになっていた。


「……なんで……」


俺の口からその言葉が漏れたとき、

村瀬は俺の方を見た。


笑っていた。

それは、かつての彼が一度も見せたことのない、

歪んだ、狂気に満ちた笑みだった。


「お前もここにいるとは、思わなかったよ」


静かな声だった。

けれど、その中には確かな怒りがあった。


俺は、声を失った。


倉持が逃げようとするも、

村瀬に取り押さえられ、薬剤を注射される。

泡を吹き、崩れ落ちる倉持。


坂口は椅子の上で痙攣しながら、もう動かない。


田所は──すでに息絶えている。


残されたのは、俺ひとりだった。


村瀬は俺の前に立ち、

じっと、何も言わずに見つめてきた。


そして、言った。


「お前は、止めようとしてたよな」


俺の喉が、ごくんと鳴った。


「……けど、お前は何もしていない。

あのとき、俺が毎晩トイレで吐いていたのを知ってて、

ただ目を逸らしていた。それが一番、俺を孤独にした」


彼の目には、怒りだけでなく、

悲しみすらあった。


「俺は全員殺すつもりだった。でも、お前だけは……」


言葉はそこで途切れた。


村瀬は、机の上にノートを置き、

中の写真を開いて見せた。

昔の笑顔──だが今見ると、それは仮面だった。


そして、彼は自らの口に小瓶を運んだ。

毒。間違いない。


俺は、叫んだ。


「やめろ、村瀬!! そんなことで、救われるのかよ!!」


だが村瀬は、俺の言葉を聞いてはいなかった。


「俺の終焉は、お前に見届けてほしかった。それだけだ」


最後の一言を残し、彼はゆっくりと椅子に座り、

そのまま──静かに、動かなくなった。


俺は、何もできなかった。


ただ、監視カメラの“目”が、

全てを記録していた。


俺の罪も、俺の無力も、全部──


第三章『生き残った者』


人は、恐怖が限界を超えると、感情をなくすらしい。

あの夜、まさにそれだった。


倒れ伏す同僚たち。

床を汚す血と薬液。

死んでいった村瀬。


俺は──ただ、座り込んでいた。


音も色も、なかった。

あったのは、カメラの赤いランプだけ。


小さく、律動的に点滅していた。

まるで、「見ているぞ」と告げるように。


どれほど時間が経ったのか分からない。

時計を見る気力もなかった。

俺の手は震え、膝は床に崩れたまま、身体の芯が冷えていくのを感じていた。


──ふと、音がした。


「……う……ぅ……」


……誰か、生きてる?


目を凝らすと、倒れていた宮島が、微かに指を動かしていた。

口から血を流しながら、それでも微かに息をしている。


「宮島……!」


俺は這うようにして近づいた。


「宮島! しっかりしろ!」


呼吸は浅く、意識は朦朧としていたが、生きていた。

急いでポケットからスマホを取り出し──いや、通話はできない。

この階は夜間、回線が遮断される仕様だった。防犯上の理由だ。


非常ベルは……使えない。村瀬が操作してロックしていた。

だが、彼女を見捨てるわけにはいかない。


俺は立ち上がり、扉に駆け寄る。

内側からかけられた鍵は、村瀬のポケットにある。

血にまみれた作業着に手を突っ込んで、震える指で鍵を取り出した。


……重い。


扉のノブを回す。

開かない。

間違えた鍵だった。もう一本、別の鍵を──

カチャ。


開いた。


俺は再び宮島のもとに戻り、

彼女を背負いながら、ふらつきながら廊下へ出た。


エレベーターではなく、階段を選んだ。

この建物の監視カメラがあるのはエントランスとオフィス内のみ。

階段には記録がない。

だから──俺たちがどんな顔で逃げたのか、誰にも知られない。


そして──俺たちは、生き延びた。



【エピローグ:数日後】


会社は沈黙した。


事件は「何者かによる凶悪犯罪」として報道され、

詳細は伏せられたままだ。


村瀬の名前は、一切出てこなかった。

死んだ者たちの罪もまた、伏せられた。

会社の保身によるものだ。


宮島は、奇跡的に回復した。

だが、精神的な傷は深く、今も療養中だ。


俺は、辞表を出した。

もう、この場所にはいられなかった。


──あの夜の出来事は、

──村瀬の「裁き」は、

この世界から消されようとしている。


けれど、俺は忘れない。


彼の苦しみを、孤独を、怒りを。


そして──自分が「止めなかったこと」を。


カメラは、今も静かに回っている。


誰の目にも映らない場所で、

罪と後悔を、淡々と記録し続けている。


俺の中に、それはずっと、

止まらずに点滅し続けている──赤いランプのように。


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