第9話 お別れ
千秋は差し込む朝日に目を細めながらベンチから立ち上がる。朝の澄んだ光と空気によって心まで洗われ、もしかしたら本当に生まれ変われるのではないか、という気分にすらなる。
「生きてるって感じるもの…見つけられるかな、今更…。」
すると、背中にヒヤッとした感覚があった。まるで氷の固まりを背中に押し付けられたような…。何事だと思わず振り向こうとすると、右側にまた例の筋肉男が立っていて、どうやら千秋を励まそうと背中をバシッと叩いたのだろうが、叩いたであろう部分が冷たい。
「またお前か!」
こんなところまでついてきているが、こいつもしや家まで来るつもりなんじゃないだろうか。千秋が訝しんで筋肉男を睨んでいると、三十日月はアハハハハ!と笑い出す。
「この男、よっぽど君のことが気に入ったんだろうねぇ…ははは、幽霊に励まされる自殺志願者なんて…コントにでも出たら?」
「いや、マジで笑えないって…。」
千秋は呆れながら返すが、筋肉男は親指をあげてサムズアップしている。何でやる気満々なんだ、こいつは。
その様子をニヤニヤしながら眺めていた三十日月だが、今度は筋肉男の方を向いて、質問を投げる。
「きみ、私たちについてきてるけどさ、普通だったら幽霊ってのは死神を避ける。死神によっては問答無用で消しにかかるやつもいるしね。私はルールさえ破ってなければ普通の害のない幽霊はスルーしてるけど。」
さっきの老婆が黎を見て恐れていたのは、そういうことか。そういえば黎と会ってから老婆と筋肉男以外、他の幽霊を見ない。三十日月は話を続ける。
「まあ、さっきの奴はあまりにも人を殺していたから、見ちゃったからには野放しにするわけにもいかなくてね。あのちっさい赤子みたいな奴らいただろ?あれは老婆に取り憑かれて殺された被害者だよ。良かったね、明もあの仲間にならなくて。」
千秋は思わず身震いする。少なくとも20人近くはいただろう。殺された挙句、あんな不気味な姿に変わってしまうなんて…。
「普通、死後の魂は私たち死神が管理、回収する。その時、拒否されたり逃げられたり…まあ回収し損ねると魂だけの存在、いわゆる幽霊になって彷徨う。
きみ、帰幽したくて死神の私についてきたんだろう。」
「きゆう?」
明が問う。初めて聞く言葉である。
「神々の元に帰るってことだよ。分かりやすい言葉だと言葉だと…成仏とか昇天とか?まあ厳密には違うんだけど。その手伝いをするのが死神の仕事。ちなみに、さっきの老婆みたいに魂ごと消しちゃうと帰幽できないんだ。――で、どう?やる?」
三十日月が問いかけると、筋肉男は首を縦に振る。
「よし、成立だ!ちょっと待って、ええと、どっかにしまったはず…。」
そこで三十日月はごそごそとコートのポケットや服の中をまさぐり何かを探し出す。なんだ?と千秋が思っている間にも、三十日月は目的のものを見つけたらしく嬉しそうに声を上げる。
「あったあった!良かったー1枚予備で持ってて。」
懐から取り出したそれは、くしゃくしゃになったA4くらいのサイズの紙だった。
「?なにそれ、すごくシワだらけになってるけど…。」
千秋が聞くと、三十日月は紙を伸ばしながら
「契約書だよ。」
と事も無げに答える。
「契約書ォ!?!?」
思わず千秋が聞き返す。チラと見ると確かにA4の紙には文字がビッシリと書かれていて、千秋の仕事でもよく見る既視感のあるものだった。というか、死んだあとも契約とかあるんだ…。あと、そんな大事な契約書をくしゃくしゃにしていいのか…。
千秋が内心色々とつっこんでいる間にも、三十日月はつかつかと筋肉男の前へと移動し、契約書を掲げた。そして、前文箇所であろう部分を読み上げる。
「三十日月黎以下甲という、と、…えーと君名前分かんないからとりあえず名無しって言うね、名無し以下乙という、は甲乙間の帰幽契約に基づき、双方合意のもとこれを締結する。」
黎が読み終えた瞬間、筋肉男の体が青白く光り始めた。おそらく、成功したのだろう。その証拠に、だんだん体がぼんやりとしてきて消えかかっている。心なしか、筋肉男が嬉しそうにも見えた。
「今までお疲れ様。君は良い奴だ、またどこかで会おう。」
三十日月が眉を下げ、微笑みながら簡潔に別れを告げるた。そして、黎と筋肉男がチラとこちらを見る。…え、これ何か言わないといけない雰囲気…?いや、でも会って数時間しか経ってないし、そもそも知り合いって訳でもないし…。千秋は急なフリに焦ったが、何とか別れの挨拶を口にする。
「あー…自販機で選んでくれたスポドリ…あれいいチョイスだった。おかけで命が助かったよ、ありがとう。
もしまた会えたら、お互い生きてる間に会えるといいな。その時はランニングでもしよう。」
三十日月は自販機での出来事を知らないので怪訝そうな表情をしていたが、筋肉男の方はあの時と同じように親指をぐっと立てて、そしてそれを最後にサアア…と霧のように消えてしまった。
「あの世で幸せに暮らしてほしいな…。」
ポツリとそんなことを言う千秋は、さっきまで筋肉男いた何も無い空間を見ると、なんだか急に寂しさが襲ってきて、若干涙ぐみそうになっていた。そこに三十日月が
「ま、あの世なんてないんだけどね〜。」
と、さっきのセリフと感傷に浸る気持ちを台無しにするような、とんでもないことを軽い口調で言い出す。
「え…な、ないの…?極楽浄土とか、天国とか、三途の川とか!もしかして地獄とかもないのか!?」
「あはは、ないない!そんなの昔の人間の作り出した思想の中に出てくる場所でしょ!まあそれで善人になる努力をするのはいいことだけどね。」
千秋が死後の世界がないという、とんでもない事実に酷く動揺しているというのに、三十日月は何でもないというふうに千秋そっちのけで、さっき筋肉男がいたあたりの場所に屈んで何かしていた。
「じゃ、じゃあ、死んだら僕達ってどうなるんだ…?」
千秋が恐る恐る尋ねる。今まで多くの人間が悩んだり恐れたり悲観したりしてきたに違いない、人生における最大で究極の謎である。回答を聞くのが少し怖いような感じがして、思わずゴクリと唾を飲む。三十日月はスっと立ち上がり、くるりと千秋の方に振り返って口を開く。
「これだよ。」
おそらく屈んだ時に拾ったのであろう。三十日月は、自分の手に持っている柔らかな白の印鑑を千秋に見せながら、そう言った。




