季節外れの放浪楽士 5
アリリア姫はウォードの領主ギルバルドの末娘だ。上の子供たちと年の離れた彼女を領主夫妻はとりわけて可愛がっていた。
大広間は、大勢の人と、肉やパンの焼けた匂い、そしてにぎやかな話し声と、ギルバルト卿のお抱え楽士の音楽にあふれ返っていた。
普段はあまり姿を見ることのない、領主ギルバルト卿の一家や、騎士とその奥方たち。家宰を始めとする執務官たち、教会の司祭。
それを遠目に見ながら、ティータは、騎士見習いの若者や郷士そして十卒長以上の戦士たちの居並ぶ席で給仕に走り回る。
ニナは、さっきもそっと目配せしてきた。ごまかしてやるから、早くどこかに隠れていろということなのだろう。ためらってしまうのは、アライラにあんなことを言われてたせいかもしれない。
迷っているうちに、主な料理は終わり、デザートの時間になってしまった。ティータはベリーを盛った皿をテーブルに運ぶ。ローウェンの出番があるとしたら、そろそろのはずだ。今を逃したら間に合わないかもしれない。
辺りを見回し、誰も見ていないことを確かめると、騎士たちの席の脇にある柱の陰に入り込んだ。ここなら姿が見えないことはあっても、音は必ず届く。
たぶん、これが彼の音楽を聴く最後の機会になる。
せめてこの辺りを根城にしている楽士であったなら、またの機会を望むこともできたろう。だが彼ははるか南からの旅人だ。二度と現れない可能性が大きい。
一生懸命自分に言い訳している小心さに、ティータは少し笑った。
だが、笑っていられるうちはまだよかった。何もすることがないと、時間の過ぎるのが遅い。今ごろ、誰かが彼女がいないことに気が付いて、文句を言ってるんじゃないだろうか。こんな上座に紛れ込んで見つかったら、親方に叱られてしまう。それに。ローウェンがほんとうに出てくると決まっているわけではないのだ。もしかしたらこのまま宴会が終わってしまうかもしれない。
よけいなことばかりが思い浮かぶ。
やっぱり戻ろうか。何度目かに思ったとき。アリリア姫の席に近づいたものがいた。ゲハルト卿だ。
ついで、今までとは別種のざわめきがあがった。人々の視線の向く先、ため息と感嘆の声を供に連れ、テーブルの間を揺らめくような金髪が最上席のほうへと動いていく。
今まで流れていた音楽が止まる。
「静かに」
卿の胴間声が響きわたる。わきかえっていた人声がさざ波のように小さくなっていく。後ろ姿の楽士は、姫君の前まで来ると優雅な仕草で膝を折った。
「このようにお美しい姫君のお祝いの席で歌えることは、この上ない喜びでございます。わたしの竪琴と歌が姫君の心をお慰めすることができればいいのですが」
その声は、先ほどのゲハルト卿の声よりも遙かに低かったのに、広間の隅々にまでしみわたっていく。鍛えられた歌い手の声だ。
まちがいなくローウェンだった。ほっとしながらやがて来る音を待ちかまえるように目を閉じる。
澄んだ音色が広間を満たした。流れ出したメロディはあかるくやさしい。
四月が来ると思い出す、激しくも美しい春の女神よ。
足元に花は咲き競い、全ての緑は燃え上がる。
喜びはあなたと共にあり、あなたと共に去った。
今あなたはいない。過ぎ去りし麗しき人よ。
何かがおかしい。
ずっとひっかかってはいたけれど。気にならないふりをしていたけれど。やはりあの時川辺で聞いたローウェンの音楽と、城に来てからのそれとの間には、何か違うものがある。
七月が訪れてあなたは来た、静かに微笑む夏の女神よ。
その髪に白い花はこぼれ落ち、緑は目の中にけぶる。
新たなる喜びを連れ、我らがもとを訪なう。
今ここにしろしめす。淡き夏の人よ。
気のせいなのだろうか。それともあの時聴いた曲だけが特別うまかったのだろうか。あるいはあの場所で聞いたから特別素晴らしく聞こえたのか……。
「どうかしたのか」
心臓が跳ね上がる。レグスがすぐ後ろに立っていた。
「あ、いえ……。ええと」
何か言い訳を、と考えながらも、曲のことが気になって頭が働かない。つい向かってしまった視線の先を追い、レグスの表情が苦笑いになった。
「ああ、そうか。好きだったな。歌だの楽器だのが。最近来た放浪芸人か……たしかに若い娘が大騒ぎそうな男だ」
その口調が気にさわって、声がとがる。
「腕が良いんです。あんな上手な竪琴、初めて聞きました」
レグスは驚いたように振り返り、そこにティータを見つけると、なにかを懐かしむような表情になった。
「そうか。そうなのかもしれんな。おまえが言うのなら。バロウのやつも芸人が来ると、やたら細かいことを言っていた。今度のはどこがいいとか、そこが悪いとか。俺にはどれも同じにしか聞こえなかったが。……親子というやつか」
そういう横顔がふと寂しげに見えてあわてて目をそらす。
あなたこそ我らが喜び、
あなたこそ我らが命。
褒め称えよレディ・アリリア
ウォードの夏の女神よ。
竪琴の響きが消え、大きな拍手が巻き起こった。
「見事でしたね。初めて聴く曲だけれど、なにかいわれがあるのかしら」
言葉をかけたのは、奥方のイネスだ。
「お褒めの言葉をありがとうございます。これはもともとネストリウム辺りの夏祭りで歌われていた、夏の女神ラーハゥを讃える歌なのです。それが春の女神が先代の奥方様を、夏の女神が今の奥方様を思わせると、最近ではクロティルド様の御名をいれて歌われるようになりました。こちらの姫君もちょうど七月のお生まれ。お優しげな様子はまさに夏の女神にふさわしいかと」
席のそこここから同意の言葉が上がる。
「それはそれは。とてもお上手だこと」
イネスは満足げに笑った。
「そつのないやつだ」
雰囲気が読めずにいるティータに、レグスが少々皮肉な調子で説明してくれる。
「ネストリウム辺境伯妃クロティルド様といえば、お美しいうえに賢夫人としても名高いお方だ。御夫君との仲もよく跡継ぎにも恵まれていると聞く。なぞらえる相手としては実に適切だな」
「そうなんですか……」
言われてみれば、そんな話を聞いたことがあるような気もする。
ウォードの外のことはあまりよく分からない。生まれてこの方、城壁の外で眠ったことさえ一度もないのだ。もちろん、普通の娘はそれが当たり前だ。だが、そのことを思うと、彼女は得体の知れない寂しさを感じずにはいられない。
「適当なところで戻れ」
背を叩いてレグスは自分の席の方へ歩いていった。ほっとしてその姿を見送る。
彼には子供が居ない。そのぶん彼女のことを気にかけてくれていることは分かっていたが、やはり側にいられるのはうっとおしい。
母のことが無ければ、少々うるさいけれど面倒見のいいおじさんのままだったら、好きになれたのかもしれない。とも思うのだが。
ティータは首を振って音楽に意識を集中させる。ローウェンは、ギルゼルトから求められたのだろう。聖王戦記を奏で始めていた。
だが、いったんひっかかってしまうと、演奏の出来の違いが、どうしようもなく気になった。音の高さもリズムも正確だし、声だってちゃんとでている。なのに、川辺で聞いたものとはやはり何かが違うのだ。
命がこもっていない。そんな気がしてならない。
歯がゆい思いの中、曲は終わった。といっても、この辺りに来る芸人の中ではとびきりの腕前であることにはかわりはない。あの日の演奏を聴いていなければティータだって、充分以上に満足していたはずだ。
領主はご機嫌のようだった。
「なかなかの腕前だな。娘たちも気に入ったようだ。どうだ、しばらくウォードにとどまっていかんか」
ゲハルトに促されて楽士は領主の前に進み出る。
「ああ、芸人にとってこれ以上に嬉しい言葉がございましょうか。これほどご立派な殿や姫君にお気に召していただけたなど、身に余る光栄でございます。もちろん、今しばらくこの地の美しい夏を味わわせていただけることは、わたくしにとってもこの上ない喜び。実はわたくし、こちらに伺うまで、これほど北の地の夏が淡く静かで美しいものだということを存じあげずにおりました。お許しがいただけましたうえは、気まぐれの虫が騒ぎ始めるまでの一時、しばしこの地に羽を休めることにさせていただきましょう」
舌を噛みそうな言葉がよどみなく流れ出てくる。騎士たちが半ば呆れたように、顔を見合わせた。ギルバルトが手を挙げる。
「もうよいわ。お主の舌の滑りがよいのはよく分かった。好きなだけゲハルトにもてなしてもらえ」
ローウェンは実に優雅な動作で礼をした。
そして突然。
「ところで、殿。寛大さに甘えて、ひとつお願いをさせていただけますか。聞くところによるとグラナクの騎士カイル卿のご子息ロクリス様がこちらで捕虜になっておいでのはず。お会いする事はかないませんでしょうか」
今度の言葉は、広間中のものにはっきりと意味が伝わった。
横にいたゲハルトは驚いたように楽士の顔をのぞき込む。ギルゼルドもぎょろりとした目をさらに丸くむいた。
ローウェンは、あわてる様子もなく話を続ける。
「実は先日グラナクを通りがかり、カイル卿の館にしばし滞在させていただきました。そのおりに奥方より。もしも、ウォードを訪れることがあれば、なんとかご子息にお目に掛かって、無事を確かめて欲しいと頼まれたのです。ご存じ無いかも知れませんが、ロクリス殿は患っておられます。ウォードの殿が心の広い方と言うことは存じあげておりますが、健康なものでも辛い囚われの生活。病をもった身でいかばかり苦しい思いをしているだろうかと、母君はそれはもうたいそうご心配の様子だったのです。もちろんわたくしのようなものが、僭越とは思いましたが。よくよく考えてみれば、こちらとあちらを気ままに行き来できるのは私どものような放浪芸人くらいのもの。それに殿はたいそう男気のあるお方とお聞きしております。ならば、なんとか母上のお言葉を伝え、お慰めすることもお願いできるかもしれないと思ったしだいなのです」
家宰のグルド卿がそっと領主に近寄り、耳元でなにやらこそこそと話している。
その時。そのすぐ脇のテーブルから声があがった。
「グラナクの騎士カイル殿のご子息と申したのは確かか」
尊大な視線をローウェンに向けているのは司祭のラクタスだった。
「たしかでございます」
「殿。カイル卿ならばわたくしもよく存じ上げております。たいそう信仰が厚く、前々より教会のために多くの力添えをくださっている御仁。そのご子息がご病気というのに知らない顔はできません。そのお方の世話。教会にまかせていただけませんでしょうか」
混乱したようにギルゼルドは家宰に目を向ける。
やや金属質の声が響いた。今度は奥方のイネスだ。
「司祭様。お待ちください。この場はアリリアの祝いの席、その話は場をあらためてにしていただけませんでしょうか。殿もお願いいたします」
領主は間をおかずにうなずく。司祭もしばらくして続いた。
彼女はついでローウェンに向かった。
「そなたもよいな。さすればわらわからも一人の母親として殿にお願いしてやろう」
彼もまた殊勝げに頭を下げる。
「申し訳ございません。姫君には失礼なことをいたしました」
「分かればよい。ならばもう一曲。今度はアリリア、そなたの好きな曲をいいなさい」
姫君はすぐに曲の名を口にしたらしい。楽士は座り直すと、優しい恋歌を奏で始める。
だがそのとき、ティータはもう曲を聴く気もおきず、騎士たちの間にウーゴの背中を探していた。