季節外れの放浪楽士 4
その日から、ローウェンの姿を城のあちこちで見かけるようになった。澄んだ音色に気づいてそちらを見ると、人垣があるのだ。ティータのなじみの曲もあれば、南で流行っているのだろう、聞き覚えの無い曲の時もあった。
聞けば足は止まってしまう。川辺で聞いたときの、心が震えるような思いこそ味わえなかったが、今まで出会ったなかで最高の楽士の一人あることは間違いない。
だが、ある日突然、その姿が見えなくなった。
探し回っているわけではないのだから、そういうこともあるだろう。とはいえ、おそろしく目立つうえに、たいてい人の多いところにいる男だ。気にかけていながら姿を見ないとなるとやはり気になる。
旅に出たのだろうか。次の町へ行くための旅費くらいなら、もう稼げていそうだ。だが、行ってしまったのなら、そのことが耳に入りそうなものだし、それに、一言くらい彼女に声をかけてくれてもいいような気もする。
ティータは厨房で玉ねぎの皮をむきながら思いを巡らしていた。
一息ついて顔を上げると、朝食の給仕の仕事を終えたのだろう、ニナが小走りにやってくる。その後ろにはアライラの大柄な姿が見える。
三人はこの城で一緒に育った幼なじみだった。アライラは器用さをかわれて縫い物の仕事をしているが、暇を見ては、二人が働いている台所に現れるのだ。
「ねえ、ちょっとぬけて食べてきちゃおうよ。アライラも来たし」
さっきまで給仕に走り回っていたニナの額にはうっすらと汗がにじんでいる。食事をとるには一番いい時間だった。もうしばらくすれば、夕食の支度でまた忙しくなる。
パンとチーズの固まりを調達すると、三人は台所を抜け出し、リンゴの木陰に座り込んだ。葉ずれの音をさせて風が吹き抜けていく。汗がすうっと引いていった。台所は火の気が絶えないせいで夏場は蒸し暑くてたまらないのだ。
だが、食べ物が目の前に出されるとティータはこっそり溜息をついた。幸せそうに食欲を満たす女友達の横顔をそっと伺う。そして、パンを半分に千切ると、差し出した。
「もう少し食べない」
「何、言ってんの。ちゃんと自分で食べなさい」
子供に言い聞かせるようなアライラの言葉に、横でニナが頷いている。
彼女たちが心配してくれていることは分かっていた。この一月で少しは戻ったとはいえ、ゲールとの一件ですっかり痩せて、疲れやすくもなっているのだ。でも、分かっていても、どうしても以前と同じように食べることができない。なにをたべても美味しくない。
今の彼女にとって、食物を噛み砕き、飲み込むことは、命をつなぐためにしなければいけない、面倒な仕事の一つでしかない。
しかたなくパンの塊を口の中に押し込んでいると。
「そういえば、あの芸人あんたが拾ってきたんだって」
アライラが自分から噂話の口火を切るのは珍しい。答えようとして、飲み込みづらいパンに苦労していると、ニナが嬉しそうに返事を代わってくれた。
「ああ。あのえらく男前の歌い手でしょ。そうよ」
厨房の仕事の合間に、ティータから聞き出した事情を、おもしろおかしく話しだす。
仕事の合間にあれこれ聞かれたので、だいたいのいきさつは話してある。
もちろん。出会ったのが父との思い出の場所だったということと、アルトリオンとエルディスを見たことは除いてである。
ニナは話がうまいので、ティータが聞いていても面白いくらいだった。ただし、触れなかった分を差し引いても余るくらいのかなり尾ひれが付いている。もっとも、それはいつもの事なので、アライラも分かっているはずだ。面倒なので、口ははさまずに置く。
それでも大筋は正確に、ティータが放浪芸人を拾った経緯を説明し終わると。今度はどこから仕入れたのか、聞いたこともない話を披露し始めた。
曰く。ルールを飛び出してきたのは、人妻といい仲になって、ご亭主に殺されかけたかららしい。高価そうなあの竪琴は、彼に夢中になった名人がどうしても使ってくれと押しつけてきたものらしい。どこぞの子供のいない金持ちに気に入られているので、実はそこに行けば働かなくても贅沢な暮らしができるらしい。
それから……。
パンに気を取られているふりをしながら、耳をそばだてる。もしかしたら昨日から姿が見えないわけが聞けるかもしれない。
だが出てくるのはいかにもな挿話ばかりだ。誰でもが思いつきそうな、本人が言ってまわりそうな。それでも、チーズに手を伸ばしたときようやく。
「ゲハルト様に気に入られちゃって、あそこの客分になってるらしいのよ。ほら、あの方好きじゃん。腕のいい芸人とか連れて歩くの。しかも、今度のは腕だけじゃなくて見栄も極上だしさ。ほんと綺麗だもんねえ。戦士連中と同じ男だなんて信じらんないくらい」
そういうことだったのか。たしかに彼の腕前なら、ありそうなことだ。
気分がしぼんでいく。
騎士の客分になったのでは、旅立ってしまったのと一緒だった。ウォードにいたとしても、あの音色は城の中央にそびえ立つ内郭の中にしまいこまれ、ティータのような下働きの者の耳に届くことはなくなってしまう。
「ティータ。どうしたの。気分でも悪い」
心配そうなアライラの声。
「食べ過ぎたみたい。気持ち悪い」
ごまかすつもりで言ったのだが、たしかに鳩尾の辺りがどっしりと重たい。本当に食べ過ぎてしまったようだった。苦笑いが浮かぶ。だがアライラの表情は緩まない。
「ちょっと聞いときたいことがあるのよ」
向きなおらせずにはいない調子だった。眉根に小さな皺が寄っている。
「あんた。まさか本気でのぼせてるんじゃないでしょうね。あの芸人に」
思いがけない問いだった。ティータはあっけにとられ、友の顔を見返す。
「どうなの」
たたみかけてくる口調は重い。
「冗談じゃないわ。なんでそんなこと言い出すの」
笑いながら首を振った。アライラはティータを見据えていた視線を落とし肩をすくめる。
「言いふらしてるやつがいるのよ」
「ああ、それなら。あたしも聞いた。でもサイスやムラクの言うことなんて、誰も信用しないって」
ティータを嫌っている若い槍兵の名が上がる。たしかに彼らなら、たいした根拠などなくても、その手の噂をたててくれそうだ。
「誰が言ったかなんて、すぐ分かんなくなっちゃうよ。それに、たしかにあんたちょっと変らしいじゃない。仕事おっぽりだしてあの男の後を追っかけ回してるって聞いたわよ。親方にまで怒られたんでしょ」
ニナがあわてて口を押さえて、そっぽを向く。どうやらその辺は彼女の口から伝わったことらしい。
たしかに、つい聞きいってしまうから、外の仕事から戻るのが遅くなってしまったことはある。それで親方に怒鳴りつけられたことも一度はある。けれど追っかけ回してと言われるのは心外だ。
「歌を聞いてただけよ」
ティータは溜息混じりに訂正する。
「たしかにあの人の竪琴と歌は好き。でも、当人に興味はないの。どっちかっていうと、あの手の男と関わり合いになるのはごめんだわ」
ニナが横でしたり顔で頷く。
「そりゃそうだ。あんなのに惚れたら、四六時中焼き餅焼いてなきゃいけないもんね。へたすりゃ、男にまで焼かなきゃいけないし……」
「あんたは黙ってな」
アライラは、唇をとんがらせているニナを押しやって、ティータの腕をつかむ。
「本当に本当なのね」
やましいことなど無い。それでも気圧されてしまうほど真剣な調子だった。
「もちろんよ」
腕を掴む手から力が抜けた。
「ならいいけど。……でも、もう少し気をつけなよ。つまんない噂、流されて困るのはあんたなんだから」
気を付けると言ったって、どうすればいいというんだろう。そう思ったが、心配性の友人を安心させるために、とりあえず頷く。
「分かったわ。それにどうせ、もうこの辺には姿は見せないでしょうし」
アライラはしばらく目を合わせた後、ようやく笑顔を見せると、思いきりよく立ち上がった。
「ごめんね。変なこと言っちゃって。でも安心した。じゃあ、あたし忙しいから、先に行くわ」
さっさと立ち上がると、手を振って行ってしまう。
「忙しいって。じゃあ、もしかして。あのことを心配して、わざわさ来たのかしら」
「たぶんね。相変わらずせわしないやっちゃ。でも、ま、そろそろゲールも戻ってくるんだし、たしかに妙な噂流されたらやばいよね」
何気ないニナの言葉。でもそれはほとんど呪いのようだった。ゲールが帰ってくる。思い出したとたんに体中が締め付けられるように重たくなる。
顔色に出たのだろうか。
「あ……ええと。ねえ。話は変わるんだけどさ。あさってはアリリア様のお誕生祝いじゃん。たぶん、ゲハルト様のことだもの絶対自慢げにあの人を連れて出てくるよね。そしたら、あたしがごまかしてやるから、仕事さぼって聞いてれば」
あわてたようにニナはそう付け加えた。