季節外れの放浪楽士 2
城の広場は、日没を前にして、仕事を片づけてしまおうと急ぐ人々でにぎわっていた。
「あらティータ。えらいいい男連れてるじゃない。ゲールが帰って来たら言いつけるわよ」
悪気のない声をあげたのは、武器職人の若い女房だ。
割り切ったつもりでも、ゲールの女として扱われると体の奥が鈍く痛む。振り払うように明るい声を張り上げた。
「そこで拾った楽士さん。いい腕よ。後で聴いてあげて」
「よろしく。可愛いお嬢さんは特に大歓迎だからね」
ローウェンもそつなく愛想を振りまいている。女房は嬌声をあげ、隣の女とつつき会いながら去っていった。
見るともなく見送って気が付くと、訝しげな楽士の視線が彼女に向いている。無意識のうちに顔が強張っていたのだ。あわてて、ことさらに軽い調子で付け加える。
「許嫁なのよ。今は殿様のご用で出かけているの」
「もう夢なんて見られない……か」
「え」
「さっきそう言ってた」
何か納得したように頷いている。
それが、いつ口にした言葉か思い出したとたん、顔が熱くなった。うっかり口にしてしまった言葉への後悔と、何も知らないくせに解ったような口をきく男への怒りと。
「嫌なことを覚えてるのね。覚えてても普通は言わないもんでしょ」
声がうわずっているのが分かる。だが言われた方は平然としたものだ。
「普通じゃないの、嫌い? そうでもないでしょ」
言葉を失っているティータの目の前を、土煙を立てて二匹の豚が駆け抜けていく。昼間城内で放し飼いにされている豚が、小屋に追い立てられていくところだ。
ローウェンが盛大に笑い出す。
喉の所に余裕のない罵声がひしめきあった。あふれ出すのを押さえるように、口をぎゅっと結んで歩き出す。置き去りにしてもいいと思ったが、わざとらしい笑い声はしっかり付いて来る。しばらく行くと、豆を煮る匂いが漂ってきた。
振り向くと、ローウェンが神妙な顔で頭を下げる。
歩いたおかげで少し落ち着いたようだ。口から出たのは、少しぶっきらぼうではあったがごく普通の言葉だ。
「そこが食堂よ、そろそろみんな集まってくる頃だと思うけど」
そう言って中をのぞき込む。
「真ん中のテーブル。右頬に傷のある人がいるでしょ。最初に挨拶しといたほうがいいわ」
「ありがとう。本当に助かったよ。しばらくここにいるから、いつでもまた声をかけて」
旅の楽士は意外にまともな感謝の言葉を述べて中に入っていった。
不思議なもので、そうなるとなんだかあっけなさ過ぎて物足りない。つい後を追って食堂の中に滑り込む。幸い、男たちは、見慣れない芸人に気をとられてティータのことを気にかける様子もない。
ざわめきが起こっていた。ローウェンが遠目には男装の美女に見えたのだろう。だが、進むにしたがってあちこちから失望の声があがる。なかには男と分かってからも、変わらず好色な視線を向けているものもいる。
そのどちらにも慣れているのだろう。彼は動じる様子もなく。ティータが教えた古参の槍兵の前に立った。良くできた愛想笑いを浮かべて何か言っている。最初に挨拶した甲斐があってか、古参兵の機嫌は悪くなさそうだ。
「ほう。こりゃまたえらい別嬪さんだな。残念だが、ここにゃあ器量だけでお捻りを投げてくれるような女どもはいないぞ。いいのかい」
「十年くらい前なら旦那にも大目に見ていただけたかなぁ。でも替わりと言っちゃあなんですが、腕は磨いたつもりなんですよ。試しに一曲いかがですか」
答えを待たずに楽器を取り出す。出てきたものを見た戦士たちの間に再びどよめきが起こった。
「おいおい竪琴かよ」
「だいじょうぶかい、このあんちゃん」
その中から声をあげたものがいた。
「『熱い悪魔のロンド』がいい」
次々に同意の声があがる。軽快なリズムと陽気な歌詞で人気のある曲だ。だがテンポが速いうえに、おそろしく複雑な前奏があるので芸人泣かせで有名な曲だ。まして、本来リュートの曲なのに彼の楽器は竪琴。嫌がらせだった。
「熱い悪魔ですか」
ローウェンは何か考えるように首を傾げながら弦をならしている。横にいた若い戦士がにやにやしながら椅子を差し出した。小さく礼を返し、彼は辺りを見回す。
「あの……すみません。どなたか最初のところを歌ってもらえませんか」
思いがけない申し出に、男たちが顔を見合わせる。
「あれは地方によっていくつかヴァリエーションがあるんです。ご希望のものと違うといけませんから」
つつかれて、言い出した者が調子っぱずれな口笛を吹いた。怪しげな音程に笑いが起こる。
「ああ、そいつか。わかりました」
すとん。と椅子の上に腰を落とすと、先ほどとはうってかわった素早さで調弦し始める。そして終わるが早いか、弦をかき鳴らした。
音が一気に駆け上がり、駆け下りる。
勢いに飲まれたように、その場が静かになった。
「ではご一緒に」
とん、とん、とん、とん。足でリズムをとると両手が弦の上を走り出した。
迷いのないリズムで、はぎれのよい前奏が流れ出す。音と一緒にローウェンの体が揺れる。いつか手拍子が広がっていく。嫌がらせのために選ばれたはずの曲は、腕前を披露するのに最適だったようだ。
娘さん。娘さん。
さあさあ、早く出ておいで。
つれなく気取ってすましているより
熱いワインをおあがりよ。
演奏の合間を縫って、ティータに向かって片目をつぶって見せる。いつの間に気が付いていたのだろう。
ともあれ、うまくいったのだから、ティータには、もうここにいる理由はなかった。小さく手を挙げて別れを告げる。出口へ向かって後ずさろうとしたとき、頭が何かにぶつかった。いつの間にか誰かが後ろに立っていたのだ。
言葉以前の声を発して彼女を受け止めたのは弓兵のラグだった。隣では、彼の弟分のウィムが顔を引きつらせている。
周りにいる戦士たちが、なにやら意味ありげに目配せしあった。
「よお。表に出てるなんて珍しいじゃねえか」
ラグは気安げな笑みを浮かべて話しかけてきた。給仕の仕事の最中だと思ったのだろう。ティータは普段、台所の下働きをしているのだ。
「あの人を案内してきたの。道に迷ってたのよ」
ティータもごく気楽な調子で答える。だが、ウィムのこめかみがひくひくと動き、見物人たちは不満げに目を見交わした。
実は、ほんの三月ほど前まで、ティータはラグと一緒になるものと思われていたのだ。もしかしたらそうなっていたかもしれない。と彼女自身思わないでもない。その方がたぶん幸せだっただろうとも思う。
けれど、それは過ぎたこと。生真面目なウィムがむやみに気を使うのも、無責任な若い者が興味を示すのも、ティータにとっては煩わしいだけのことだ。
「こりゃまた。えれえ男前のを連れてきたもんだな」
そんな空気に気づいているのかどうか、ラグが素っ頓狂な声をあげる。
「腕前もね。なかなかでしょ」
「たしかにいい声してやがる」
「声だけじゃないわよ。まったくどういう耳してるの」
昔と変わらないやりとり。だが、ちらり。とティータを見るラグの表情が揺らぐ。慌ててティータは籠を持ち上げて見せた。
「じゃあ。あたしまだこれから、ウーゴ様の所に行かなきゃいけないから」
これ以上いると、噂話の種を増やすことになりかねない。
「ティータ、……」
ラグが何か言いかけるのを、気づかないふりで背を向ける。だが、昔のようにたわいもない冗談や、からかいの言葉が投げかけられることはなかった。
なんだか寂しい。
けれどそれは彼女にとって少しばかり寂しいことではあっても、悲しいことでも辛いことでもなくて。だからこそよけいラグと顔を合わせたくないのだ。
タイムにパセリにバジルにミント
ローズマリーにチャイブにセージ
冷たいお手てがあっつくなったら
冷たい心も融けるかな
よく通る声が響いてくる。のってきたのか手がすこしばかりお留守になっているようだ。あの人、やっぱりバラードの方が得意みたいね。楽しげな曲につられるようにティータはすこし微笑んでいた。
礼拝堂の裏手にある薬草園の小屋で、ウーゴは一人、薬草を煎じていた。
城の教会には、他に司祭と若い教父がいるのだが、薬草園の世話や病人の手当などは、ほとんどこの初老の教父の手にかかっている。
ティータをみとめると、笑顔で歩み寄ってきた。足をすこし引きずっている。何年か前からリューマチを患っているせいだ。
「いつもすまぬの」
手渡した籠をざっと確かめる手が止まる。湿った包みが現れた。
「道ばたで見つけた草なんです。とても良い香りだったので、なにかの役にたつかもしれないと思って」
包みを開けたウーゴは首を傾げる。
「これは。わたしもはじめてみる植物だね」
ためつすがめつ眺めた後、鼻先に近づける。
「たしかに良い香りだ。すこし調べてみたいが、預かっておいても良いのかな」
「もちろんです」
興味を持ってくれたたことが嬉しい。城で働く者にとって、彼は他の教父や司祭にくらべ、より身近で大切な存在だった。つねに下働きの者のものたちの間に入り、病気や悩みに親身になってくれる。
気付くと、穏やかな視線が彼女に向けられていた。
「なにか」
「だいぶ元気そうだ」
言われて思わず目をそらす。
以前ウーゴに諭されたことがある。強くおなりと。母のこともゲールのことも許せるくらいに。でも今ティータが笑っていられるのは、強くなったからじゃない。ゲールが側にいないからだけなのに。
力づくで彼女を自由にした男を、その男との縁談を進めた母を。許すことなどできない。少なくとも今はまだ。
ウーゴは困ったような顔でティータを見つめる。
「やはりまだ母御を許せぬか」
「いいえ」
けれど、それはウーゴを困らせたくないからそういったまでのこと。
これから部屋に戻れば、母と顔をつきあわせなければならない。そのことを思うとどうにも気が重かった。