季節外れの放浪楽士 1
日の光の中で目覚めると、ティータはうっすらと瞳を濡らしていた涙を拭った。ここにいると父のことばかり思い出す。幼い頃に二人で過ごした思い出の場所だからだろうか。
季節もあの日と同じ夏の初め。
木の間をぬって光はこぼれ、傍らを流れるウィーレ川の水音は耳に優しく響く。夢の中のような景色が目の前に広がっていた。
バロウが力の場所だなどと言いたくなった気持ちがよく分かる。父を失った直後。彼女はこの場所で大地に抱きしめられるようにして癒されたのだ。遙か昔の魔法使いたちが、力の場所で己を癒したように。
そして今もまた。
数か月前のある出来事のせいで、ティータの体は食べることも眠ることも拒否するようになってしまった。
みかねた教父のウーゴが、気晴らしにもなるだろうと、草摘みの仕事を与えてくれたのだが、最初のうちは、それすら煩わしいとしか思えなかった。だが、いやいやでも城壁の外へ出てみると、気持ちは次第に変わった。
威圧するようにそそり立つ城壁から抜け出せば、少しだけだったが楽になれたのだ。
頼まれただけの仕事を終えてしまっても、城に戻りたくなかった。かといって、行く当てがあるわけではない、あてもなくさまよううちに、ふとこの場所のことを思い出した。
それから、何かと理由を付けて城を抜け出すようになった。一人きりの時間を緑の中で過ごすようになって、彼女の体は久しぶりに生きることを受け入れようとし始めている。
光になれてきた瞳が、薄紫の花の群に止まった。香り草。彼女がそう呼んでいる花だ。本当の名前は知らない。ここでしか見たことがないから。父と交わした約束を守り、この場所には誰も連れてきたことがない。
顔を寄せて胸一杯に香りを吸い込んだ。仄かに甘くさわやかで、それほど強いわけではないのに体にしみいるような香り。まだ半ば眠りの中にあった意識が目覚めていく。
もしかしたら珍しい香草なのかしら。
ふとウーゴの顔が頭をよぎる。役にたつものなら彼を喜ばせることができるかもしれない。
城内の教会の初老の教父は、彼女ならば、頼まれただけの薬草を集めるのに、半日もかからないだろうと知りながら、一日を野で過ごしてくることに何も言わないでいてくれる。
根を傷つけないようにして掘り起こし、水に浸した手巾に包み込む。香草で一杯になっている籠の中に場所を作ってしまいこんだ。
見上げると太陽はだいぶ低くなっていた。そろそろ戻る頃合いだ。
その時、小枝の折れる音が聞こえた。木立の中から灰色の人影が出てくる。
旅人だろう。マントの背には大きな荷物を背負っている。
「ねえ。きれいなお嬢さん。君、ひょっとしてウォードのお城の人」
とびきり愛想のよい声が響き渡る。
ティータが頷くと、フードをはねのけて嬉しそうに駆け寄って来た。
こぼれ落ちる淡い金髪。ちらりと覗くシャツはバラ色。細身のズボンは青。耳元には派手な飾りが揺れている。身なりからすると芸人のようだ。
「道に迷っちゃってさ。城まで連れてってよ」
そばで見ると、驚くほどきれいな顔をした男だった。笑顔も話し方もひどく世慣れた感じがする。
「珍しいのね。こんな時期に芸人なんて」
大切な場所に踏み込まれ、ついぶっきらぼうな調子になった。
「珍しいかな。街では良い時期なんだけど」
「よそは知らない。けど、この辺りじゃ畑仕事が忙しいの。見世物に時間をさこうなんて人はいないでしょ」
「まあそうなんだろうね。おかげですっからかんになっちまった。すこし稼がなきゃ次の街にも行けやしない。城ならいるだろ。戦さえなきゃ暇を持て余してる連中が」
あからさまに不機嫌な対応にも、男がひるむ様子はない。ティータは溜息をついた。この手の調子のいい男は苦手だ。
「分かったわ。でも……一人。なの」
「だよ」
「そう。じゃあ、あんまり稼げないかもね。みんなきれいな女の子が好きなのよ。そりゃあ、あなたもきれいだけど……」
「男の相手をするにはちょっと董が立ちすぎてるかな。でもあっちの手管ならその辺の商売女より上だぜ」
気の利いたことを言ったつもりなのかもしれないが、その手の話は苦手だ。
顔に出たのだろう、若者の表情が苦笑いになる。
「まあ、いいさ。どうせ俺にはこいつがある」
体をひねって背中を指す。大きな荷物のほかにもう一つ、平たい袋が掛かっていた。楽器のようだ。
ティータは、思わず身を乗り出した。
「何、それ。リュート。でもそれにしては形が変ね。レベックかなにか」
彼は実に嬉しそうに笑うと、袋から楽器を取り出した。
「え、竪琴……」
「そう、イキだろ」
「え、ええ。イキっていうか……」
言いよどむ彼女の後をさらりと続ける。
「イキっていうより古くさい」
思っていたとおりのことを言われて言葉も出ない。
「どうせろくでもない演奏しか聴いたことがないんだろう。けど、一度ちゃんとしたのを聞いてみな、考えが変わるから。……もっとも今じゃあ、魅力のある竪琴弾きなんて、ランドゥール以外の土地には片手で数えられるくらいしかいないけどね」
楽を奏でるのにふさわしい長い指が、使い込まれた艶やかな胴をなぞる。その様子がとても幸せそうなので、ティータは初めてこの男に悪くない感情を抱いた。
「ひょっとして、その片手の中にあなたも入っているわけ」
「ひょっとして! 失礼だな。今この時、大陸で一番うまいのは俺だ。なんなら一曲弾いてみようか」
好奇心からつい頷いてしまう。もしかすると、本当にいい腕をしているかもしれない。彼はマントを外して、座り込み。手慣れた様子で弦を締めはじめた。
「君はほんとに運がいいね。自分だけのために俺に歌わせたがっている女性がどれほどいるか知ってる。こんなところを見つかったら、妬まれちゃって大変だよ」
返事をするのが面倒で黙っていたが、反応がないのを気にするふうもない。
やがて、手が止まり。視線が上がった。
「どんなのが好きなの」
「そうね。はやりの恋歌より、英雄とか魔法使いの出てくる叙事詩の方が好きよ」
「珍しいね。君くらいの年頃の娘さんにしては。ロマンチックなのは嫌い」
男は、さして珍しくもなさそうに少しだけ笑う。
「色恋に夢なんて見られないもの。嵐を操れる魔法使いの方がよっぽどロマンチックだわ」
彼は小首をかしげると、少し悪戯っぽく髪をかき上げた。
「夢を見られないからこそ、そういう歌を聴くんだけどな。まあいいや」
それから楽器を持ち直すと、目を閉じて空を仰いだ。曲を選んでいるのだろう。再び目を開いたときには表情が一変していた。さっきまでとは違う、真剣な眼差しで調子を合わせ始める。
乱れ、競い合っていた音が、次々に和らぎ、とけあっていく。
ティータは思わず座り直した。
「大地の魔法使いのバラードから。エルディスの死を知らされた魔法使いの嘆きの歌を」
アルトリオンとエルディスの友情の物語は彼女の一番好きな話だ。
自分が何者かも知らない病弱な少年と、野生の申し子のような山の族長の娘。兄弟のように育った二人だが、自分のなすべきことをするために少年は山を去る。それぞれの道を歩む二人。だが十数年の後、アルトリオンが捕らわれ、危機に陥ったとき、エルディスは身の危険も省みず救出のために駆けつけるのだ。
けれど長大な生を生きる力ある魔法使いと、人の営みに順うしかない女戦士の間には、やがて避け得ない別れが訪れる。
彼が選んだのは、その時の歌。知らない者のいないほど有名な歌だ。だが芸人が自分の技量を示そうとするときに弾くような凝った曲ではないはず。
しかしいぶかしむ間もなく。
ぽぅーおん。
優しい音が水辺に響いた。
あふれ出て、こぼれ落ち。せせらぎや、草の葉を震わせ、ティータを震わせ、全てを震わせて流れていく。
たしかにこれは竪琴の音。けれど今までに聞いたことのあるそれと、なんて遠く隔たっているんだろう。
体が震えた。柔らかな膨らみを持った音がしみこんでくる。
絡み合い響き合う和音が心地よい。ともすれば退屈になりがちなゆっくりとしたテンポは、むしろうねるような力強さを伴って聞く者を音の流れの中に引きずり込んでいく。
何度も何度も聴いたはずの曲。けれどこれは本当に彼女の知っている曲なのだろうか。
幼き日は姉のように、
会えぬ月日はただ懐かしく、
友として手を握ったあの日。
そして今こそ呼ぼう我が女神と。
なんという声なんだろう。たった一人の人間の声の中に無限の音が秘められている。竪琴の音色の無限と、歌声の無限とが響き合って生まれるなんて鮮やかな色彩。思わず瞳が熱くなる。
その時。滲んだ視界が薄紫色に染まった。
一面の紫の花。そのただ中で膝立ちになった一人の女がティータを見据えている。大地の色の髪。森の色の瞳。背には矢筒。
そしてもう一人、今まで草に埋もれて横たわっていた人物が身を起こす。ほっそりとした姿。灰色の髪。灰色の瞳。すこしやつれた面差しには、だが不思議な静けさがたたえられている。
それは、まさしく伝説の中のエルディスとアルトリオンそのまま。
魔法使いらしき人は、ふっと表情をゆるめると連れに何かを語りかけた。女のきつい緑の瞳が緩む。そして微笑んだ。力に満ちた微笑み。
野を駆ける君を追い、どこまでも行きたかった。
緑の中に埋もれ、いつまでもいたかった。
けれど今、私は一人。
全ては遠い。君もまた。
二人の姿と重なり合うように楽士の姿が見えた。今、竪琴は彼で、彼が竪琴なのだ。伏していた顔が上がる。一面の花と同じ紫の瞳。それは何かを問うていた。だが何を問われているのか、それは分からない。
あの日の野に変わらぬまま私は立つ。
君はいない。
再び失われし人よ。
エルディス、我が野生の女神。
不協和音が、魔法使いの痛みそのままに心に突き刺さる。目の前の穏やかな光景と、どうしようもない喪失感と孤独。
音の力と六つの瞳の持つ力と。
体の奥で眠っていたものが目を覚ます。呼応するように大地から力が流れ込む。圧倒的な流れは体の中に澱んでいた物を洗い流す。光が恐ろしい勢いで体中を満たしていく。
花の香りがする。花そのものになる。花は大地とつながっている。
意識が白熱する。
ようやく、我にかえったとき、幻は消え失せていた。
男は竪琴に手をかけたまま、放心している。
「今。今のあれはなんなの。いったい何が起こったの」
彼は、自分の腕を揺さぶるティータの手をぼんやりと見つめていたが、次の瞬間、視線をあげ、婉然とした笑みを浮かべてみせた。
「ね。ちょっとしたもんだろう」
あまりに急な変わり身に怯み、掴んでいた手が離れる。
「ところで。あれって何。どうしたの。そんな切なげな顔をして。ははぁん。あまりのすばらしさに惚れたな。でも悪い。君もなかなか魅力的なんだけどさ。遊びですまない女の子には手は出さない主義なんだ」
返ってきた答えは、求めるものとあまりに違っていた。
「やめて。はぐらかさないで。ちゃんと答えて」
「はぐらかしてるつもりはないんだけど……。困っちゃったね。ほんとに分かんないんだ。君の言ってることがさ」
たしかにあんなことが起きたにしては、男は落ち着いていた。動揺している自分のほうがおかしいのではないかと思えてしまう。
「まいったなぁ。そんな顔しないでよ。可愛い女の子に泣かれるのは苦手なんだよ」
言われて、自分が子供のようにべそをかきかけていることに気づく。だが、なんと言われても、やはりさっき見たものが幻には思えないのだ。
「エルディスとアルトリオンを見たわ」
男は嬉しそうな顔になった。
「そうだろ。よく言われるんだ。光景が目に見えるようだって」
そういう意味ではない。と、訴えたかったが、口の重い彼女には、うまい言葉が見つからない。
「ね、言ったとおりの腕前だろう。だから城に連れてってよ。急がないと日が暮れちまう」
沈黙を了解の意味にとったのか、楽士は、さっさと楽器を片づけはじめる。
「戦士連中。こういうのが好きだとは思えないんだけど」
「ご心配なく。その辺は玄人だからね。うまくやるよ」
なんだか悔しくて、思い切り不機嫌な声でいやがらせを言ったのに、あっさりといなされてしまう。
愛想よく促されてしまうと、断りもできず。しかたなく、肩を並べて歩き出した。
「名前を言ってなかったね。俺はローウェン。君は」
その名は西の国の響きがした。
「ティータよ。どこから来たの」
しゃくだが興味は引かれる。これほどの腕前の竪琴弾きに会うのは初めてなのだ。
「俺。ああ、どこって言ったらいいかなぁ。一カ所にはあんま長くいないから。ランドゥールで竪琴を習ったあとは、だいたいルールとレンヌの辺りをうろうろしてる。最近はオルネに行ってたな」
ルール公領もレンヌ伯領も遙か南西の土地。そしてランドゥールはルール公領の南部、海沿いに位置している。ティータにとっては物語の中にあるのと同じくらい遠い場所だった。耳にするのは、ほとんどがおもしろおかしく誇張された噂話だけだ。
「オルネって言ったらルールで一番大きな街なんでしょ。なんでこんな所まで。向こうの方が腕のいい芸人さんには暮らしやすいでしょうに」
彼はその言葉に、少しだけ肩をすくめた。
「ちょっとした野暮用。それに、うんざりしたからかな。長く一カ所にいるといろいろしがらみが増えて。それはそれで悪いもんじゃないけど。時々ね 」
同意を求めるように笑いかけてくる。そんなものかもしれない。と思った。特にこういう種類の男にとっては。彼女にだってその気持ちは分からないじゃない。
「いいわね。面倒を嫌って逃げ出しても、あなたの腕ならどこでもやっていけそう」
「逃げ出したいの。君も」
たんに話を合わせただけのつもりが、あらためて聞かれて慌てた。そんなつもりで言ったのではないけれど、言われてみれば、たしかに逃げ出したい。
だが、それを今日会ったばかりの芸人にうち明ける気も、もちろんなかった。
「一度よその国へ行ってみたいのよ。ランドゥールはね。一番憧れてるところかもしれない」
それはそれで嘘ではない。
「ふぅん。まあ大きい街もあるし、温かいし、美味いもんも多いしね」
「それにランドゥールの楽士は大陸一って言うじゃない」
「それはまあ、そうかな」
ローウェンはあっさりと頷く。
「たしか『神の唄人』だっけ。一番うまい楽師はそんな名前で呼ばれているのよね」
「そうだね。もともとの意味は違うけど、今では大陸で一番古いといわれる竪琴引きのギルドの長が代々神の唄人と呼ばれてる」
「竪琴引きなの? てことは、もしかして、あなた聞いたことがある」
「あるよ」
間髪入れずに帰ってきた答えに、つい身を乗り出してしまった。その様子を見たローウェンは楽しそうに笑う。
「もちろんちゃんと観客としてじゃないけどさ。意外? 俺みたいな放浪芸人が宮廷楽士様の演奏を聴いたことがあるなんて。でも、彼の気まぐれはルールじゃ有名なんだ。だからどこで何をしていようとみんな驚きもしない」
信用できるのだろうかと疑いながらも、やはり尋ねてしまう。
「うまいの」
「うん。ものすごくね。でも、たとえ君がルール公やランドゥール伯の客になることがあったとしても、今さっき聞いた以上のものは、たぶん聞けないと思うな」
そういえば、自分より巧い人間には会ったことがないと言っていたっけ。思わず笑いが洩れて、でも次の瞬間納得してしまった。たしかにルールの宮廷楽士なら技術は優れているのだろう。けれどさっきの音楽。あれは、何かと比べるなどということが卑しく思えるほどに美しいものだったから。
「そうね。たしかにそうかもしれない。ほんとに素敵だったもの」
素直にそう口にしていた。
返事がない。
今までは間髪入れずに戻って来ていたのに。と、見上げると。ローウェンはとまどったように彼女を見ていた。
「まいったな。そんなに簡単に納得されても」
とりつくろうようなおどけた口調。あわててそっぽを向いた横顔に浮かぶ照れたような笑みは、さっきまでの商売用のものとは少しだけ違って見えた。