罪人 4
人というのは意外にゆっくりと落ちていくものだ。そんなことをゲールは思った。
彼の手がティータをつかむかと思った瞬間。バランスを崩したのか、華奢な身体は川の中へ落ちていったのだ。あざやかな赤が水面に広がり、間もなく水に飲み込まれ消えた。
川向こうの男たちの姿も、いつの間にか消えていた。今更追っても、もうどうにもなるまい。徒労感に押しつぶされそうになりながらゲールはもう一度川面を見下ろす。
あの娘はなぜ、あれほどまでに意固地だったのだろう。さしのべた手を振り払い。怯えたように身を固くして。
離れて思う時には、いつも無邪気に微笑んでいるのに。
そう。あれは五月祭の時。娘たちが花冠を作る姿をかいま見たのだ。日差しに鮮やかな赤毛を燃え立たせ、素足のまま駆けるティータはいつもとはまるで別な女のようだった。両手に花を抱え、嬉しそうに仲間に手を振る様は本当に無邪気で。
あんな風に笑うことができる娘なのだと、そのとき初めて知った。
あの笑顔が他の男に向けられることが許せなかった。他の誰でもない、自分の腕の中で、いつまでもその笑顔を守ってやりたかった。
多少強引なやり方だったかもしれないが、自信はあった。共に過ごしているうちには、どれほどかたくなな心もやがて解けていくだろうと。だが、その笑顔が彼に向けられることはただの一度も無く。
人の気配に振り向くとラグが表情をこわばらせて荒い息をついていた。周りを見回して少し口元を緩める。
「つかまんなかったかい」
そんな言いぐさにも不思議と腹は立たない。ラグという男は嫌いではない。答える代わりに崖の下を見下ろした。
いぶかしげにその視線をたどってラグの顔色が変わる。
「ティータは」
「この下だ」
ラグは崖にしゃがみ込み。川をのぞき込む。
「おまえが落としたのか」
「わからん」
突き落としたつもりはない。だが彼から逃げようとして川へ落ちたのは確かだった。いや。それとも。
「行こうとしたのかもしれないな。向こう岸へ。落ちれば死ぬと分かっていただろうに」
モーラに言われるまでもない。気づいていたのだ。
森の中をあの男と二人で歩いて来るティータが、彼といるときとも、五月祭の時とも、まるで違う表情を浮かべているのを見たときから。
ただ、認めることができなかった。
川をのぞいていたラグは、向こう岸に何があるのか探すように目を細めている。
そして何かに気づいたかのように立ち上がった。
「行こうとした……ってこた。まさか、来てたのか。あいつらが」
「そうだ」
ラグはもう一度川面と、向こう岸を見比べる。そして確かめるように繰り返す。
「ティータが落ちたときには、向こう岸にあいつらがいたんだな」
「それがなにか」
だがそれには応えず、彼は首を振った。
「戻ろう」
通り過ぎるときに彼は奇妙な親しさを込めてゲールの背を叩いた。
城を出て親戚の家に身を寄せる。ユーニス自身がそうしようかと思っていたからとっさに出た言葉だった。本当にどちらがましだろう。城に残って白い目に耐えるのと、ろくに顔も覚えていない姉に厄介者扱いされるのと。
あの子は、どのあたりまで行ったのだろうか。
娘が残していったゲールからの贈り物を取り上げて、あらためて苦い笑いを浮かべる。 頑固な子。あの人にそっくり。
夢中になったのはユーニスの方だった。気を引こうとやっきになる若い男たちに囲まれていた彼女には、全く興味を示してこないバロウがどうしても気になったのだ。なんとか気を引こうとしたが、蜂蜜色の瞳はなかなか彼女を見ようとしない。焦れるほどに思いは燃え上がった。あの手この手をつかい、なんとか結婚を承諾させたときは飛び上がるほどに嬉しかった。
だが、小娘を夢中にした男の分かりにくさは、夫として一緒に暮らすようになってみれば、むしろいらだちの原因にしかならなかった。それでも、子供が生まれたときは嬉しかった。最初はあまり関心を示さなかったバロウが、次第に娘を可愛がるようになった時には、これで自分たちもほんとうの家族になれたのだと思った。
しかし、それがとんでもない思い違いだということにすぐに彼女は気付かされる。
ユーニスを置き去りにしてバロウは娘だけを溺愛した。幼い娘と夫との間に芽生えた絆から閉め出され、彼女は少しずつのけ者になっていった。
そして、バロウの死を伝えに来たレグスから、彼が死の数日前に漏らしたという一言。
自分の死を予感していたのだろうか。彼は言い残していたのだ。
「自分に何かあったらティータを頼みます」と。
その通りの言葉だったかと確かめた理由にレグスは気付かなかった。確かめるまでもなかったのかもしれない。最後の最後まで彼が気にかけたのは娘のことだけだったのだ。
それでも。ユーニスだって娘のことは愛していたのに。
レグスに身を任せたとき、意識のどこかに自分を省みることの無かった夫への反発があったことは否定しない。けれど、それ以上に娘を無事に育て上げるためには一番いい方法だと信じたからそうしたのだ。
けれど、頑張れば頑張るほど、ティータは傷ついた表情で呟くのだ。
「かあさんは分かってくれない」
言葉にこそだしたことはなかったが、バロウもいつもそう言いたげな瞳でユーニスを見ていた。
なぜ。ティータが自分の娘なのだろう。なぜ自分がティータの母親なのだろう。自分など必要なかったのだ。ティータとバロウの間には。
長すぎた。
いらだちと空回りとやるせない思いの中。ユーニスの若さは、暮らしの中に擦り切れていってしまった。多くの男たちの賞賛をあつめた美貌も衰え始めている。
昔、夢見た幸福は、子供じみて笑ってしまうようなものだけでなく、ほんのささやかなものさえ。多くの女は手に入れているようなものでさえ彼女の手をすり抜けていった。
慣れ親しんだ場所で老いていくことさえ……。
扉が開いた。見慣れたシルエットがそこに立っている。
「ティータはどうした」
「姉の家にやりました。本当はこんなに急ぐつもりじゃなかったんですけど、ゲールが」
事情は察したのだろう。それ以上聞かずにレグスはかたわらに座る。
「バロウとの約束を守ってやれなかったな」
「あなたのせいじゃありません」
ユーニスは思い出したようにティータの残していったペンダントを取り上げた。
「ゲールに返してもらえます。もしいやがるようなら。お酒にでも替えて、飲ませてあげてくださいな」
贖った者の気持ちと、置いて行った者の気持ち。それぞれの思いをはかるように、レグスはペンダントを掌に乗せる。
「そうだな。預かっておこう」
「おまえはどうする」
まだ答えの出ていない問いだった。
「おまえもここにいるのは辛いか」
「わたしは……」
口ごもった彼女の肩をレグスが抱き寄せた。
「迷惑でしょ。こんなことになってまだあなたの側にいたら」
「馬鹿なことを。その程度のことで俺の立場が悪くなるとでもいうのか」
ユーニスは目を閉じて、その胸に頭をあずけた。自分のことを気遣ってくれる者が、少なくともまだ一人はいる。
「残ってもいいですか。わたしは」
「そのほうがいい。ここでなら俺も少しは力になってやれる。ゲールのことさえなければティータも城に残った方がいいんだが」
「ティータのことは気に病まないでください。あの子はたぶんあれでいいんでしょう。バロウが生きていたら、きっと好きなようにさせるでしょうから」
ユーニスは身を離しレグスに微笑みかける。
もういい。
愛おしい気持ちに嘘はない。けれどもういい。
娘が自分とは離れた場所でしか幸せになれないというのなら、それでもいい。ここまで育ててきた自分よりも、昨日今日、出会ったばかりの男たちを選ぶというのならそれでもいい。
娘のことは考えまい。ただ、どこかで彼女なりに幸せでいて欲しいと願うほかには。
今のユーニスは、自分の生きられる場所をもう一度築き上げることだけで精一杯なのだから。
「行きましたか」
香草の手入れをしていたウーゴは、一輪だけ咲き残った紫の花にそっと指を触れた。
「あの娘のことではご迷惑をかけました」
レグスは深々と頭を下げた。教父は、少しあわてたように立ち上がる。
「なに。気になさることはない。そうですな。しばらくは嫌みくらいは言われるはめになるかもしれませんが……どうせ一時のこと。すぐみんな忘れますよ。あの娘がこれから味わわなければならない苦労を思えば、たいしたことではありません。それより、実の娘のように慈しんでこられたレグス殿の方がよほどご心労であろう」
気遣われたことにとまどったように、壮年の戦士は首を振る。
「慈しんで……か。そのつもりでした。ですが、やはり血のつながりのない者はだめですね。あの日。引き立てられてきたティータを庇いもせず、この手で罪を明らかにするようなまねをしてしまった。あの娘はわたしを許さないでしょう」
「なにをいわれる。あなたの立場で庇うわけにはいかないことくらいティータも承知しておりましょう。それに、失礼を承知で申しますが、たとえ庇ったとしても庇いきれるほどの力をお持ちではない」
直截的なウーゴの言葉に、レグスは少し苦笑したように見えた。
「ですが……。あの時、あの娘は、私を見つけて、嬉しそうな、安心したような顔をしたのです。実の父であれば、あんな表情を向けられたら、命にかえても守ってやろうとするでしょう。けれどわたしにできなかった。あの娘より、任務の方を選んだんです。所詮、都合のいいときだけ子供を可愛がっているつもりになっていただけのことだと、ようやく分かりましたよ。だからあの娘は、けして私には懐かなかったのだと」
ウーゴは静かに微笑んだ。
「何を言われる。いま、ご自分でおっしゃったではないか。瀬戸際であなたを見つけたとき、ティータが嬉しそうだったと。あの娘とて、自分のしたことは分かっていたはず、あなたのしたことを恨むはずはありません」
「しかし……」
「それに。あの時と言い始めればきりもない。もとはといえば、このわたしがあの二人に近づく機会を与えてしまったのだ。もし、きっぱりとはねつけていれば」
「ですがそれは」
「そう、それは人が悔やんでも仕方のないことなのだ。と私は思います。それに、ティータは生きているではありませんか。辛い目に遭うかもしれない。しなくていい苦労を背負い込んでしまったのかもしれない。けれど、それでも生きていれば、幸せだと思える瞬間に出会えるかもしれない。そう思うのですよ」
「ならばいいのですが」
二人は視線を交わした。
互いに、相手が今回のことで、少しばかり不愉快な立場に置かれていることを知っている。けれどまた、それを切り抜けていけるだけの才覚もあれば、過去の積み重ねもあることを知っている。
だから、彼らは共にそれをもたない娘のことを気遣うのだ。
信じられない光景がニナの目の前に展開していた。
どこから酒を調達してきたのだろう。すっかりできあがったラグがゲールに酒を勧めている。ゲールの方はむっつりと押し黙っているので、酔っているのかどうかは定かではないが、次々に注がれる濁り酒を拒むでもなく空けているのだから、かなりの量をすでに飲んでいるはずだ。
「あれ、何よ」
いつの間に現れたのか、アライラがニナの服を引っ張る。
「知らないわよ。あたしに聞かないで」
「でも、じゃああの噂は嘘なのかしら」
「どんな噂」
「ティータが……死んだって」
「えっ。だって今朝あんた送り出したって言ってたじゃん」
「だからその後ゲールが」
そういって彼女はまた椀を空けた男の方をちらりと見る。ニナは笑い出した。
「んなわけないでしょ。だったら何でラグのやつがゲールと飲んでんのよ」
「やけ酒……にしては変だし」
そんな二人の横でぼそぼそと呟いた者がいる。
「ティータが死んだのは本当みたいよ。川に落ちたってゲールが言ってたから」
気色ばんだアライラがモーラの襟首を捕まえる。モーラは横を向いて吐き捨てた。
「あたしに当たらないでよ。こっちだって気が滅入ってんだから。嫌な女だったけど、いざこんなんなるとあたしだって」
はっとしたようにアライラが手を離す。モーラは気のない様子で続けた。
「逃げようとして崖から落ちたんだって。見たのはゲールだけだし、そのゲールが喋らないから、それ以上のことは誰も知らないけどね」
「じゃああれは何なのよ」
ニナがラグを指さす。
「ゲールがここに来てしばらくしてから、いきなりラグが酒持って現れたのよ。で、真ん前に座り込んで。……ゲールが外から戻って来た時も、ラグが一緒だったらしいんだけど、何があったかはわかんない。なんだか恐くて誰も近寄れないのよ」
話を聞き終わるやいなや、ニナはつかつかと二人の方へ歩きだした。
「ちょっとどうするの」
「とっつかまえて事情を聞くのよ」
ひきとめるアライラとモーラの手をすり抜けてはラグの後ろに立つ。
「よぉ。なんだニナか。おまえも一杯」
「ちょっと来な」
襟首を掴んで食堂の外へ向かうニナ。抵抗するでもなくラグは引きずられていく。アライラがあわてて後を追う。目の前で起こったことを気にする様子もなく椀を口に運ぶゲールから、モーラはそっと目をそらした。
「なんだよ」
手が離れると彼は、怪しい手つきで引っ張られた襟を直した。
「どういうことなのよ。なんであんたがゲールと飲んでんの。ティータはどうしたの。ゲールと一緒に戻ってきたってんなら多少は事情がわかってんでしょ。ほんとうなの、川に落ちて死んだってのは。ゲールがやったことなの」
ラグは、ぼんやりと濁った目で地面を見ていた。
「少し違うな。川に飛び込んだんだそうだ」
「どう違うってのよ」
襟首を掴んで揺さぶるニナに逆らうでもなく首をゆらゆらさせながら答える。
「だからさ。落ちたんじゃなくて、自分から飛び込んだんだよ。向こう岸めがけて」
「見たの」
「いや」
「じゃあなんで」
「ゲールがそう言ったのさ。あいつがそこで嘘をいう理由はねえだろ」
呂律は回っていなかったが、意外に落ち着いた言葉だった。ニナは、不審を顕わに幼なじみの様子を睨み付けた。だが、すぐになにか考え込んでいるかのように指を噛み始める。
「でも、じゃあ、やっぱりティータは」
代わりに質問を続けたのはアライラだ。
「ま、普通じゃ、あそこに落ちたら助からねえな。けど、絶対じゃねえ。ゲールが確かめたのは川に沈むまでだけだからな。見えなくなってから岸に這い上がったかもしれねえし、運よく誰かに助け出されてるかもしれねえ。首つりの縄が切れたんだ、何があったっておかしくねえだろ」
アライラは思わず目を伏せる。その横でニナは相変わらず指を噛んでいいる。
「でも、やっぱ分かんない。だからって、なんであんたがゲールと飲んでたのよ」
独り言のような言葉に、ラグの口元に苦い笑みか浮かぶ。
「置いてかれたもん同士だからな」
ニナがはっとしたように目を見開き、もう一度口を開きかける。アライラがあわてて肩に腕を回し。ラグから引き離しながら、早口で囁く。
「もうやめな。いいからそっとしといてやろう。酔っぱらわなきゃいられなかったんだ。それだけだよきっと。あたしはもう戻るよ。それより。仕事のあとで一緒にユーニスおばさんのところに付き合ってくれない。様子見たいし。場合によったらヘンなとこから聞かされる前に、ちゃんと話しといたほうがいいと思うんだ。けど、一人じゃちょっと」
女友達が素直に頷いたので、アライラは安心したように戻っていった。しかし、その背を見送った後、ニナは素早く踵を返した。怪しい足取りで、食堂へ戻ろうとしているラグの襟首をもう一度わしづかみにする。
「ちょっと、待ちなさい。あんたにはもう少し聞きたいことがあんの」
奇妙に迫力のある声で囁くと、人気の無い場所にラグを引きずり込んだ。
「なんでティータは自分から飛び込んだと思うの。まさか、首つりから助かったばっかりなのに、自分から死のうとしたなんて思った訳じゃないよね」
睨み付けるかのように見上げられ、ラグの頬がかすかに引きつる。
「そりゃ。ゲールから逃げようとして」
「ほんとにそれだけ。ならよそに逃げる方が助かる可能性は高いじゃん。ねえ、生真面目なアライラはいないんだから、ほんとのとこを言いなよ。あんたとゲールを置いて、あの子はどこへ行ったの。なんで川に飛び込んだの……いったい、誰が川から助け出すって言うの。もしかして。向こう岸には誰かいたんじゃない。たとえば、美男の芸人とか」
ラグがいきなり笑い出した。ひとしきり笑ったあとに顔を擦る。細い目にかすかに滲んでいる物があった。
「何でそう思うんだよ」
「あんたがヘンだったから」
黙り込んだラグの横にそっと寄り添う。
「見ちゃったんだ、あんたがティータの部屋に忍び込んでなにかこそこそやってたの。処刑の日だって、こっそり森の方へ行ったでしょ。見たくないだけなのかなって思ったけど。でも、縄が切れてすぐ現れたし。なんか妙なこと考えるんじゃないかと心配してはいたけど。ねえ。もしかして、あの連中となんか企んでたの……まさか、縄に細工とかしたんじゃ……」
「できるか。そんなこと。ま……なんとかできねえかと、じたばたしてはいたさ。おまえの言うとおりだ」
ラグは低く笑うと、壁に寄りかかった。
「あいつらが来てたのは、ゲールが見てるんだよ。川の向こうに現れたんだそうだ。だからティータは行こうとしたのかもしれない。そう言ったのもゲールさ。なあ、黙っててくれねえか。俺のためだけじゃねえ。あいつらがティータを迎えに来たなんて知れたら、レグスやユーニス小母さんに迷惑がかかるかもしれない。ゲールも。そう言ったら承知してくれた」
「じゃあ、ゲールも承知でティータを逃がしたの」
「おいおい、おまえ、あの状況でティータがほんとに生きてると思うのか。目もくらむような崖から落ちたんだぞ」
「だってあんたが」
「かもしれねぇってだけだ。普通は無理。でも、たぶんあいつ自身は死ぬ気じゃなかったんじゃねえか。そう思えてさ」
「なんで……。そう思うの」
「じゃあ、おまえは、そうは思わねえか」
ニナは顔をしかめた。
「そうだね。あの子はそうかもね。でも、あいつら助けてくれようとするのかな。てかさ、泳げんの」
「大丈夫さ。あれでけっこう情はある。ま、あいつが駄目でも、もう一人のほうが死にそうになりながら飛び込んでくれるだろ」
ニナはうんざりしたように肩をすくめる。だが、ラグがそれに気づいた様子はない。
「なんか、気がそがれちまったな。どっかで寝てくるわ」
それを見送るニナは、まずい物を食べさせられたような顔をしていた。
もうずっと、昔。まだニナが子供だった頃。意味も分からないのに、母さんに聞かされたことがある。
女にはね。二種類あるのさ。男を心配させて困らせて振り回す女と。男に心配させられて困らせられて振り回される女。若いうちは、振り回すのが羨ましく思えるかもしれないけど、そのうち男だって振り回されるのに疲れて、自分が振り回す根性もなくなってくる。長い目で見りゃあ。どっちがよけいに幸せってもんでもないんだよ。
その言葉が正しいのかどうかは、あやしいものだと思うけれど。ただ、一つだけ確かなことがある。
あたしは一生振り回されてるんだ。きっと。
「バカヤロー。人がこんなに心配してやってんだ。少しは気づいて感謝しろボケ」
スカートを持ち上げて、壁を思い切り蹴りつける。
ティータ。同類だと思ってたのにな。
でも、考えてみればあのユーニスが母で、彼女が惚れ込んだバロウが父なのだ。仕込みが違うのだからしようがない。
しようがないけど……。
ラグがああじゃなければ、もっともっと親身になってあげられたかもしれないのに。
彼に惚れてるわけじゃない。そうじゃなくて、今まで三人を同じに可愛がってくれた兄貴が、急に一人だけ特別扱いしだしことがなんだか寂しくて。そのことを全く嬉しいとも思っていないらしいティータに、だからなんだか腹が立ったんだ。
ティータのことになるとラグはまるで人が変わってしまう。普段は、いい加減に気楽にやっているようにみえて、大事なところはしっかり押さえているし、しちゃいけないような無茶はけしてしない。それなのに、ティータに関わると、そこのさじ加減がおかしくなってしまうようのだ。
実際には何もできなかったにせよ、やっぱりティータを助けようとしていたわけだし。隠していたけれど、あの男達と接触していたのも間違いない。ニナだからいいようなものの、他の人に気付かれたらどうなるか、分からないはずはないだろうに。
あの芸人。
以前、ティータのことで、話をしに行ったことがある。くるくると変わる表情。聞いているだけで心地よくなってくる深みのある声。まるでつかみ所のない。それこそ関われば振り回されるだけで終わりそうな男だったけれど。
彼もティータのことになると、ラグみたいに真剣な表情をするんだろうか。
そういえば。
別れ際、挨拶代わりに軽く頬にキスをされた。あれだけで一日中どきどきしてたんだから、本気で迫られたらそりゃあかなわないわ。
それでも。と、ニナは思う。
あたしはやっぱりあんたは馬鹿だと思うわ。
たとえあの男がどれほど魅力的だとしても、もう一人とやらがどれほど必死になってくれたのだとしても。
さっきまでここで酔っぱらってた男ほど一生懸命だとは思えないもの。
それにしても。
今あの子は、ゲールが信じるように、一人冷たい水の下に眠っているんだろうか。それとも、ラグが望むように、三人でどこかの道を歩いているんだろうか。
生きていてくれればいいな。できれば幸せだといいな。と思う。
そうでなければ、いつか自分の幸せをおもいっきり自慢してやれないじゃないの。
ニナは幸せになるつもりなのだ。そして、それを誇りたいのだ。
ティータはここでは幸せを見つけられなかった。でも、自分はここで、ちまくてせこくて貧乏くさくても、でもしっかり地面に足をつけて幸せになってみせる。
だから。そうしたら。また。会いたいね。
いつか……
エピローグはこの後続けて投稿します。