大地の末裔 5
アライラが、薬草園に現れたのは、ローウェンがウォードを出発した次の日のことだ。
「あいつ。昨日発ったんだって」
「らしいわね」
ローウェンとは、あれから何度か話をしようと試みたが、人目があってできなかった。そのことが心残りなのだが、それを悟られるわけにはいかない。
「ちょっとふっきれた顔してる」
「そうかな。かもね」
アライラは安心したように笑った。
「ニナの言うとおりだったね。心配しすぎたあたしがばかだった」
「ニナが。なんて」
「うん。あんたもいい大人なんだから、あれこれ言うのはよせって。あの子にしちゃ、まともなこと言うからちょっとびっくりしたけどさ」
こみ上げてくるものがあった。今からこんなで、これからちゃんとできるんだろうか。
「アライラは優しいね」
「なあに言ってんのよ」
彼女は照れたように、頭一つ小さい友人のおでこを小突く。
「そう言えば収穫祭の時だって。おめでとう。悪いやつじゃないと思うよ。ゲールも。あんたのこと大事にしてるしさ」
「そう思う」
「まあ、ちょっと、何やるにも荒っぽいのがあれだけどさ。サイス達がたちの悪いまねをしたときも、奴らをへこませてくれたんでしょ」
「何があったか聞いたの」
「その……連中が大げさに言うから」
「そう、みんな知ってるんだ」
「うん。でも、びっくりはしたけど、結局そのおかげであんたが潔白だって証明できたんだもの。よかったじゃない」
「そうね。ニナにもそう言われた。多少強引でも頼りになる方がいいわよって」
ほっとしたようにアライラが笑う。
「そうだよね。あんたもそう思うでしょ」
ティータは表情を見透かされないように、空を見上げた。
「そうね」
でも、あたしは……。だから。
ウーゴが現れたのをしおに、アライラは仕事に戻っていった。
朝の祈りの後のこの時間、教父は様子を見がてらロクリスのもと薬を届ける日課になっている。だがその日、ティータは、薬をとりに小屋に入ろうとするウーゴを遮るように立った。
「お願いです。今日だけ、あたしを塔を行かせてくれませんか」
彼はとまどったように目の前の娘を眺める。
「必要なとき以外はそれはしないと、母御に約束したのだよ」
「分かっています。おとといの騒ぎの時、ゲールにも、もういっさい塔には出入りするなと言われました。ウーゴ様にそうお願いするようにって」
「ならばなおさら」
「だからお別れを言いたいんです」
彼は首を振った。
「その気持ちは分からないでもない。だが、それならわたしから若君にお伝えしておこう。あの方は賢い方だ。理由を話せばそなたが直接行けない事情も分かってくれるだろう」
ウーゴの反応は当然だった。だが、だからといってそこで引くわけにはいかない。ローウェンとは話ができなかったのだ。せめてロクリスに今一度会っておきたい。
「あの方は父さんに似てるんです」
ティータは表情を探られないように俯く。
さんざん考えたが、ウーゴの情に訴える他に方法を思いつかなかったのだ。人の良さにつけ込むようで気は進まないし、うまくいくかどうかも分からないが、どうしても本当のことを言うわけにはいかないのだ。
「帰ってこないなんて思いもしなかった。ほんの一時寂しいのを我慢すればすぐに会えるからと思ってた。でも、父さんは帰ってこなかった。お別れも言えないまんま居なくなっちゃったんです。……ロクリス様とお話ししていると、なんだか父さんと話しているような気持ちになりました。静かで、あたしの知らないことをたくさん知っていて、でも馬鹿にしないでいろんなことを話してくれる。できることならずっとお世話をしていたかった。でも、できないことくらい分かってます。だからせめてお別れくらいは自分で」
沈黙が重たい。老教父は困っているのだ。
「それは……たしかに似ているかもしれないが」
ウーゴがようやく口を開いた。探るような視線がティータの上に落ちる。
「約束できるかね。けして、思いあまったまねはしないと」
「何でですか。お別れを言いたいだけなのに」
ローウェンを見習ってできるだけ朗らかに言おうとした。だがあんなに陽気には、なかなか言えない。かえって明るさは空々しく響いた。
ウーゴは痛ましいものを見るようにティータを見つめる。
「彼は、グラナクの。騎士の若君だ。生きる場所も身分も違う。それだけではない。そなたにも分かっているのだろう。あれは死病だ。たとえ無事に故郷へ戻れたとしても、先はけして長くはあるまい」
必死さが誤解を生んでしまったようだ。だが、それでもかまわない。
「だから。ちゃんとお別れを言いたいんです」
ウーゴはしばらくためらった後、背を向けて、小屋の中に入っていった。
だめだったんだろうか。気持ちが沈んでいきそうになった。
けれど、と。彼女は首を振って城壁を睨み付ける。気持ちはもう決まっているのだ。会えなかったとしても、それはそれで仕方がない。自分の信じたことにかけるだけのこと。
そう覚悟を決めかけたとき。ウーゴが小屋から出てきた。
「これを塔まで届けてきなさい。できるだけ早く戻って来るんだよ」
渡された薬を抱きしめてティータは何度も頷いた。
牢の中でティータを迎えたロクリスには、わずかに張りつめた感じがあった。
「あの、実はあたし、もうこちらにはこられないことになったんです。それで、どうしてもお別れをいいたくて」
「嫌な騒ぎがあったらしいね。そのせいなのかな」
ローウェンから聞いていたのだろう。水の椀を返しながら、心配そうにティータを見上げる。
「いえ、ただ秋に結婚することになったんです。それで、その準備もあって……。ウーゴ様のお手伝いも夏が終わったら」
「そう。おめでたいことなら。それでいい。君に会えなくなるのは残念だけど」
その言葉を聞きながら、ティータは何気ないふりで扉のそばまでいき外をうかがう。
ローウェンも旅立ってしまい気が抜けているのだろう。見張りの兵士は少し離れた場所であくびを漏らしている。
ティータはロクリスの傍らに駆け寄り。彼が口を開く間もなく話し出した。
「あたし、本当に一緒に行ってもいいんでしょうか」
ロクリスがわずかに緊張を緩める
「もちろんだよ。君が来てくれれば私も心強い。一緒に来る決心が付いたんだね」
彼女はあわてて首を振る。
「一緒には行けません。やっぱりそれは怖いんです。命に関わらないにしても、やっぱりみんなに迷惑をかけることには違いないし。それに、あたしがしたことを母さんやウーゴ様やみんながどう思うか」
それから、唾を飲み込んで彼女はきっと顔を上げた。
「でも、秋になったら。ほとぼりが冷めてからなら、あたしがいなくなっても、誰もお二人とつなげて考えたりしないと思うんです。たぶん、ゲールとの結婚がいやで逃げ出したって思ってくれる。それならあたし平気だし。母さんだって、ちょっとは困るかもしれないけど、でもなんとか巧く切り抜けられる程度のことですよね。だから、その頃になったらここを出て、どんなことをしてもルールまで行きます。それでもいいですか」
さんざん悩んで、出した答えだった。
けれど、口で言うのは簡単でも、それがどんなに難しいことかくらいは見当がつく。旅などしたことのない女の一人旅なのだ。目的の地に無事にたどり着ける保証など無い。
だから。行こうとしているのだということだけは伝えたかった。
目指す地で待っていてくれるものたちがいるのだという、希望が欲しかった。
しかし、ロクリスはきっぱりと首を振る。
「それはだめだ」
「どうして……」
声が萎んでいく。
「ローウェンが、後からでもおいでと言ったのは、死ぬことになるよりはということだ。ルールまでは遠い。君一人では無事にたどり着けないかも知れないんだよ。たぶん君は分かったうえで、そう言っているのだろう。でも……」
「でも、他に方法がないんです」
言いつのるティータにロクリスは微笑みかけた。
「あるよ」
彼は、もう一度扉のほうを伺い。ティータの顔をのぞき込んだ。
「ここで、待っていてくれ。君にそのつもりがあるなら、迎えの者をよこすから。ローウェンが、顔見知りの商人や芸人の一座に当たってくれるそうだ。信用できそうな相手を見繕って、この城に寄ってくれるように頼んでくれる。だから、君にはここでその誰かが来るのを待っていて欲しい」
緊張がほどけていく。膝が崩れそうだった。決心はしたものの、不安だったのだ。命をかけるつもりではいたものの、たとえたどり着けたとしても、そこに至るまでにどんな思いをしなければいけないのかと思うと。
だが、もし旅慣れた連れがあるのならどんなに心易いことだろう。
しかし、ロクリスは表情を引き締める。
「けれど、自分で動くよりもただ待つ方が辛いかもしれない。できるだけ早くなんとかするつもりだとローウェンは言っていたけれど、都合の良い一行がすぐに見つかるとは限らない。確かな約束はできないんだ。運がよければ、秋の初めには迎えに来られるかもしれないが、収穫も終わる頃になってしまうかもしれないし、運が悪ければ、雪が溶けてからになるかもしれない。それでも待てるかい」
いったん緩んだ体が凍り付くのが分かった。
「収穫祭を過ぎるかもしれないんですね……」
「なにか気に掛かることでも」
「いえ。待ちます。大丈夫です。たいしたことじゃないから」
こみ上げてくるものを押しとどめてティータは微笑む。けれど、頬が引きつってしまうのが分かる。
「心配事があるなら言ってごらん」
今だって彼女はゲールのものなのだ、いまさら誓いの一つや二つどうということはない。そう言い聞かせてみても、こみ上げる不安感はどうにもならない。
「収穫祭の時に婚礼が」
ロクリスは差し延べかけた手をそのままに、視線を遊ばせる。
「そうか……。でも、耐えられるなら。やはり、ここで待っていた方が良いとは思う」
ティータは頷く。覚悟はできている。いつか抜け出せる日が来ると分かっているのだ、そのくらい耐えてみせる。
若者の手は目的を失ったように、しばし空中をさまよっていた。だが、やがてその手を膝に下ろし、彼はしっかりとティータを見据える。
「けれど。それでも、どうしても耐えられなかったら。グラナクのオウルの荘園までおいで。父の領地だ。街道沿いにグラナクに入って半日。ペルネルの村のすぐ先で街道から西へ向かう分かれ道に入り、さらに半日行ったところにある。ルールよりは遙かに近い、君の足でも三、四日あればたどり着けるだろう。とはいえ、旅慣れていない者には安全な道のりだとは言い切れない。ウォードで育った君がグラナクの者の中で過ごせば、いやな思いもすることもあるだろう。でも、それでもましだと思うほどに辛いことがあったら、そのときはいつでもおいで。君のことは母に話しておく。きっと良いように取りはからってくれるだろう」
望みもしなかった好意だった。あふれ出るものをこらえながら、何度も何度も頷く。
その視線の先に、ロケットが差し出された。彼がずっと身につけていたものだった。そして、その先にはもう一つ見覚えのある飾りが下がっている。
「ローウェンの耳飾りだ。もう片方は使いの人に預けるから、それと合わせてみれば彼のよこした人間だと確認できる。ロケットは万が一グラナクに向かうときに、向こうの領内に入ってから何かの役にたつかもしれない。裏に私の家の紋章が入っているからね。ただ、どちらもお金のほうが必要になったときには売ってくれてかまわないよ。ロケットはたいした品ではないし、耳飾りも片方だけだが、路銀の足しにはなるだろう」
おそるおそる差し出した手の上に、さらさらと鎖が落ちかかる。
耳飾りは、暗がりの中、懐かしい瞳と同じ色の淡い光を放っていた。当たり前のようにローウェンの身を飾っていた物だが、外してそれだけを見ると、石の大きさや凝った細工に驚かされる。ルールで彼が受け取った賞賛を証だてるものの一つなのだろう。
ついでロケットをあらためる。確かに宝石などはついていないが、しっかりと重みがあり、細かな細工が施されている。中を開くと女性の絵姿があった。
「大切なものなんじゃないんですか」
ロクリスは少し照れたように微笑む。
「手放さずにすんだら、会ったときに返してくれればいい。母にはもうすぐ会えるから」
つられて口元が緩む。
「きっと。きっと返します」
促されて服の下に隠す。
その時、ロクリスが顔をこわばらせた。ちらちらと視線が扉の方へ向かう。
空いた椀をとるふりをして、扉の方をちらりと眺める。見張りの戦士が戻ってきていた。声は顰めていたから話の中身は聞こえなかっただろうが、あまり話し込んでいるところを見られるのも都合が悪い。
ティータは、元気よく立ち上がった。
「そろそろ行きます。ウーゴ様のお言いつけを聞いて、体は大事にしてくださいね」
「そうだね。君も元気で。会えなくなるのは寂しいけど。体に気を付けて、幸せになるんだよ」
それから声を顰めて。
「きっとまた会えるね」
「はい。待っています」
薬草園に戻りつくと、気遣わしげな表情で待ちかまえていたウーゴが、ティータの背を優しく叩いた。
申し訳なさに彼女は視線を落とした。




