大地の末裔 2
「そう悪いやつじゃなさそうだったわよ」
ニナはのんきそうに空を見上げて林檎を囓る。
いつかティータと三人で陣取った木陰に今日はアライラと二人だ。
「ほんとうかしら」
アライラはいらいらと指を噛む。
「あっちからゲールのこと聞かれたんだ。で、無愛想だけど仲間からは信用されてるっていったら。ちょっと安心した顔してた。ただ、ティータには本気で惚れてるから、もし他の男と何かあったりしたら、相手ともども殺しかねないよっていったら。ちょっと青くなってたけど」
「ちょっ。ちょっと。それじゃあ全然安心できないじゃないよ」
噛み付かんばかりの勢いで迫ってくる友人に、焦る様子もなくニナは続ける。
「いや、だからさ。その後で、人の噂を鵜呑みにするようなやつかって聞くから。それはないだろうっていったら。それなら大丈夫。って笑ってたから」
のんびりと林檎を食べ続けているニナの横でアライラは膝を抱え直す。
「ああ、もう。噂になるような関わり方をしなきゃいいじゃないのよ」
「そうかな」
「あたりまえでしょ」
「でもさぁ。あいつ。けっこういい感じだったよ。あ、もちろん。友達にしたいとか亭主にしたいとかいうんじゃないわよ。なんていうのかなぁ。女に一時幸せな夢を見せておいて、恨みとか後悔とかは残さずに消えてってくれそうな」
アライラは不機嫌にねめつける。
「何が言いたいのよ」
小柄な娘は、わきまえた顔で笑ってみせた。
「いっそほんとにできちゃっててもいいんじゃない」
「あんた、なんてこと」
目をむいている長身の友人にちらりと視線を向けてから、ニナは林檎の芯を投げ捨てた。
「だからさ。あいつだったら、誰にもばれず、後腐れも無く、綺麗な想い出の一つや二つ作ってくれるんじゃないかって思ったわけよ。幸いっちゃなんだけど、どうせもう処女じゃないんだから、一回や二回やったってばれる心配はないじゃない」
「あんたねぇ。自分の言ってること分かってるわけ」
必死に顰めている声が裏返っている。
「分かってるわよ。あんたこそ分かってるの。あの娘はさ、嫌で嫌でたまらない男とこれからずっと一緒に暮らしてかなきゃいけないんだよ。だったら、せめてこう、思い出すとなんか胸が熱くなるような出来事の一つくらい……いたっ。何すんのよ」
振り向いた先で、ラグが握った拳をこれ見よがしにもんでいた。
「ばか」
「ばかとは何よ。いきなり人のこと」
「くだらねぇこと、くっちゃべってるからだろうが」
「くだらなくないもん」
「人に聞かれたらどうすんだよ」
「聞かれないようにしてたわよ」
「俺が聞いてたろうが」
「あんたには別に聞かれたってかまわないじゃない」
「ばか」
拳がもう一度派手なふりで降りてくる。
「聞かれてることに気付いてなかったじゃねぇか。他のやつだったらどうしてたんだよ」 ニナは言葉に詰まってアライラに矛先を向ける。
「あんた見えてたんでしょ。教えてよ」
「いい薬でしょ」
アライラは冷たく言い放つと。ラグに話しかけた。
「ねえ。本当のところ。男どもの間ではどうなの。あの噂本気にしてるやつはいるの」
彼はニナの頭をこづきながら腰を下ろした。
「今んところは、面白がってるだけですんでるみたいだな。あの芸人はたしかに馬鹿じゃねえ。していいことと、まずいことはちゃんと考えてる。ただサイスとかムラクとか、あの辺の奴らな」
名前の挙がったのは、以前ティータに手ひどくはねつけられ、そのことを逆恨みしている若い槍兵とその仲間だ。
「この前も食堂でわざとゲールに聞こえるようにその話をしてやがった。グラナクの捕虜とまで、なんかあるんじゃねえかとか言いやがってよ」
ニナとアライラは顔を見合わせてうなずき合った。
「あいつらのことなら知ってるけど、でもみんな分かってるし。平気でしょ」
「ああ、ゲールも全然相手にゃしてなかったさ。まあ、モーラのやつまで、最近、連中とつるんでるみたいなのが、なんとも」
「あの子も、もてるんだから、一人の男にこだわんなきゃいいのにね。あたしがあのくらい美人だったら、寄ってくる中からより取り見取りよ」
ラグはニナの軽口に苦笑しつつ。
「まあ。奴らが何たくらんだって。たいしたことができるたぁ思えねぇんだが。ただ、ティータが……」
ラグは足下の草を引きちぎる。
「ティータがなんだって言うのよ」
「へん……じゃねえか」
ニナは意味もなく遠くを眺め、アライラは真顔で眉を寄せる。
「なんかあったの」
「何がってわけじゃねえけど。たとえば捕虜の世話だけど。頼まれたんならともかく、自分からやるって言い張るようなやつだったか」
「会いたかったんじゃないの。少しでもさ」
ニナが妙にしみじみと呟いてから、にやりと笑った。
「気にいらなさそうじゃん。なあに、妬いてんの」
からかわれた方はつまらなそうに寝ころぶ。
「ばかかおまえは。だから、それだけのことで、あんなに人目に立つことを平気でやれるようなやつだったかって言ってんだよ。ウーゴ様の方から頼まれたってんなら不思議じゃねえぜ。むしろあいつらしいと思うけどよ。でも周りがやめろって言うのに自分からってのは、あいつらしくないっていうか」
アライラが頷く。
「目立つのは。なんにしろ嫌いだったもんね。ティータ」
「やけになってなきゃいんだが」
「それはないんじゃない。きれいになったもん」
ニナのあまりにそぐわない発言を、二人が同時に同時に責め立てる。
「そりゃ関係ねぇだろうが」
「あんた。茶化すのもいいかげんにしなさいね」
「関係ならあるって。べつにさ。顔の形が変わったとか言ってるんじゃないもん。あの子、前からそれなりに目鼻立ちは整ってたじゃない。けど、なんか地味っていうか、暗いっていうか、今ひとつ花がなかったのよ。それが、最近なんだかすごく生き生きして造り以上に綺麗に見えるんだよね。やけになったりしてる女の顔じゃないよ。あれは」
ラグは驚いたようにニナを見て、それからため息をつくと困ったように空を仰いだ。
「そう……だな。たしかに変わったよな。……あいつが現れてから。結局、そこまで惚れ込んでるってだけのことなのかな」
その姿を見て、ニナはあわてたように付け加える。
「いや、だから。その。そうとは限らないって。ううん。たしかにローウェンと関わりがあるのかも知れないけど。でも、色恋だとは限らないっていうか。なんか。その。あたしも話してて思ったんだけど。ちょっと変わってるよね。あいつ。南の人ってああなのかな。話してるとなんとなく、それまで深刻になってたことがばかばかしくなって、不思議と気が楽になるような感じがするんだ。人見知りの激しいティータが、うっかり気を許しちゃったのも分かる気がする」
「気が楽……かねぇ」
困惑したようにラグがつぶやく横で、アライラがうさんくさそうに肩をすくめた。
「結局、あんたも丸め込まれただけなんじゃないの」
「かもね」
あまり気にしているふうもなくニナは笑う。
「とにかくさ。あいつが馬鹿じゃないのは分かってるんだし。ティータもいい大人なんだし。何にも起こんないうちから、まわりであれこれよけいな心配してたってしようがないよ。ね」
そういって、ラグの腕をたたくニナの仕草は意外に優しかった。
ロクリスに会う機会はなかなか訪れなかった。ローウェンの姿も見かけない。
急な用事の入ったウーゴに頼まれてティータが塔へ向かったのは、あの日から十日もしてからだ。
牢に近づくと竪琴の調べが流れてきた。ローウェンだ。階段を上がりながらも笑みがこみ上げてくる。
歌の入らない優しい舞曲。
牢番の戦士さえ、普段とは似合わずにそうっと扉を開く。
微かに緊張したように振り向いたロクリスは、入ってきたのが彼女だと気付くと口元をゆるめた。
声は出さずに頭だけ下げてその場に座る。せっかくの演奏の邪魔をしたくなかった。竪琴弾きは、一瞬彼女を見ただけで、とぎれることなく指を動かし続けている。
優しくて愛おしくて切ないような音色だ。
不思議だった。神の依り代。神に捧げる音楽。そういわれて納得できる楽の音を奏でながら、彼自身の存在は、ずっと人間くさくて、心安い。
それは、ちょっとした手違いなのか、それとも神の配材なのか。
なんだかとても安らいだ気分になっていた。この埃っぽい牢の中が、夏の木陰よりも、冬の日溜まりよりも、穏やかで心地よい場所に思える。
「もう少しで終わるから」
声をかけてくる間もローウェンの手は止まらない。そしてロクリスに何か囁いた。
話しかけられて、少しとまどいながら二人を見比べていたロクリスだったが、やがてローウェンに向き直り。低い声でなにか話し始める。
「東側の壁に行くには、内壁を越えた後すぐに右手に曲がり……」
ローウェンがさらに何かを答える。
話題になっているのが、この牢から出て城の塀を乗り越えるための道順なのだと気づきはっとした。会話の間中、楽士の手は一瞬も休んではいない。見張りの戦士は、竪琴の音にじゃまされて、彼らが言葉を交わしていることに気づかないのだろう。
そうだ。彼らはこの城から逃亡しようとしているのだ。ティータにとっては絶対的な存在であるウォードの領主の裏を掻こうとする者だ。震えが走った。自分が見逃そうとしていることがどういうことなのか、改めて見せつけられたような気がする。
ようやくその曲が終わると、ロクリスが少し気まずそうに振り返った。
「すまない。その……」
近寄ってきたローウェンが耳元で低くささやく。
「俺がいるときはたぶん外で話を聞かれてるんだ。で、俺たちがしようとしてるのは聞かれちゃまずいことなんでね」
それから、いきなり普通の大きさの声で。
「久しぶり。最近会えないから寂しかったんだ。ロクリス様のところにはちょくちょく来てたんだって。ひょっとして俺のことだけ避けてた」
「何言ってるのよ、あなたのほうが偉い方々のお相手で忙しくて、貧乏人の相手なんてする暇もなかったんでしょ」
あわてて調子を会わせてみる。ローウェンが笑いながら片目をつぶった。
ティータはロクリスに近づく。
「いつものお薬です」
そして声を低める。
「あの。あたし、聞きたいことがあるんですけど」
二人が目配せしあう。
「あの時のことだね」
ローウェンが楽器を持ち直した。
「すぐ戻らなきゃ行けないの。もう一曲くらい良いだろう」
答えるより前に、明るい音楽が流れ出す。はりのある声が響き渡った。
「大丈夫、事情はあらかた彼もわかってるから」
ロクリスがささやく。たしかにこれからする話も、人に聞かれては困るものだ。
時間が惜しくて咳き込むように話し始めた。
「あの。あの時、私、本当に癒しの技を使ったんでしょうか。ロクリス様の気のせいじゃないんでしょうか。その……あの後、母さんの具合が悪かった時に、もう一度同じことをしようとしたんです。でも全然できなくて」
「あれは癒しだ。少なくとも私はそう思った。彼にも話したが、私がそう判断したなら、たしかに何かがあったんだろうと彼も言っている」
ちらりと、流し目をくれて、ローウェンが頷く。
「確かめたいんです」
その言葉に、二人の視線が集まる。
「ロクリス様、言ってましたよね、この前。何かの力を借りれば魔法を操ることができるって。それをあたしにも教えてもらえませんか」
ローウェンが、目を見張り、改めてロクリスに視線を向ける。
「いや、それは」
ロクリスは視線を落として首を振った。
「もしかして、あたしには知らせたくないことだったんですか」
二人の若者はは困ったように顔を見合わせていた。
「うっかりしてしまった」
ロクリスがうめく。
「まあ、言ってしまったものは仕方ないですよね。で、君は確かめてどうするつもりなの」
実のところ、そんなことまで考えてはいなかった。
「本当に癒し手だったら、そのことが人に知られたら、魔女として処罰されるんだろ。それでもいいの」
「困るわ。でも……」
頭の隅にはあったが、あまり考えないようにしていたことだ。少し考えてからようやく言った。
「自分のことがよくわからないのはもっと不安なのよ」
ローウェンはしばらくの間。何か考えているようだった。それから、不安そうなロクリスに笑顔を向けてからティータに向き直る。
「近いうちに城の外に出られる」
「外。なんで。足りない薬草があるから取りに行こうとは思ってるけど」
「込み入った話になりそうだからね。外の方がよさそうだ。明日は出られる」
「明日はだめなのよ。明後日なら行けると思うけど」
「じゃあ明後日。一仕事終わった後で、初めてあったあの草地でゆっくり話そう。夕の鐘の鳴る前にはあそこに行くから」
曲が終わってから、 ローウェンと一緒に牢を辞し、門のところで分かれた。
一人になると、さっきの会話があらためて思い出される。
本当に癒し手なら、魔女として、異端者として追われることになる。
そうなったらはたして自分は平気でいられるんだろうか。ローウェン達を恨んだりしないだろうか。
だが、癒し手であるかどうかさえ曖昧なのに、追われる心配など身に迫ったものとして感じられなかった。




