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魔法使いの夏  作者: mizuki.r
大地の末裔
10/19

大地の末裔 1

 

 数日が変わらずに過ぎた。薬草畑の手入れをしていた時のことだ。

「ティータ。ウーゴ様はどこだ」

 若い戦士が息を荒げて走ってきた。

「お祈りの準備に行ってるけど」

「まいったなぁ」

 彼はその場にしゃがみ込む。

「どうしたの。何か急ぎ」

「塔の捕虜がちょっとやばそうなんだ。ものすごい量の血を吐いて……」

「ロクリス様のこと」

 肯くのを確かめるやいなや、ティータは薬草小屋に向かって走り出した。途中で振り向き、ぼんやりと見送っていた若者をせかす。

 すぐに使えそうな薬をいくつか見繕うと、塔へと急いだ。

 このところずっと病状は落ち着いていたのだ。治ることはなくても、急に悪くなるようなこともないだろうと思っていたのに。

ティータ一人では、と渋る牢番の戦士を急かし、上階へ向かう。

 扉の外まで咳が聞こえてきた。

 鍵を開けて入ると、牢の隅の寝藁の上、ロクリスは丸くうずくまっていた。

 咳き込むたびに、体が大きくうねる。胸の辺りから袖口まで、吐いた血でぐっしょりと濡れている。

 足が止まった。こんな状態の病人にたいして、役に立つことができるのだろうか。

 だが、だからといって、ただウーゴを待っているわけにもいかない。覚悟を決めて踏み込んだ。使いの若者に預けていた荷物が放り込まれ、鍵が閉まる。

 部屋の中にはなにやら覚えのある香りが漂っていた。あの紫の花の香だ。ローウェンが焚きしめたのだろう。だが濃すぎるからか、それとも血の生臭い匂いと入り交じっているからか、爽やかなはずの香りが、いたずらに神経を張りつめさせる。

俯いていたロクリスが、きっと顔を上げた。

「近寄るな。うつる」

 激しい調子だった。だが声は痛々しくかすれている。

 その声にむしろ促されるようにティータは足を進めた。避けるように病人が背を向ける。 細い背は荒い息に揺れていた。ほとんど間をおかず、激しい咳の発作がおそってくるようだ。

 ウーゴがいてくれれば。

 無力感に逃げ出したくなる気持ちを抑えこみ、傍らの壺を取り上げた。咳止めを椀に注いで差し出す。だがロクリスは避けるように身をよじった。

「早く出て行け」

「お薬を飲んでくれなければ、出て行きません」

 怒ったような顔が彼女を見上げる。

 椀をむしり取ると、一気に流し込もうとした。だが、激しい咳のせいでうまく飲めない。

 ティータは横から手を添えると、咳の合間を見て少しずつ薬を流し込んだ。

 かなりの時間をかけ、いくらかこぼしてしまったが、それでもなんとか椀は空になった。

 細い腕が、それを押しやる。

「行け」

だが椀を受け取っても彼女は動かなかった。たしかに今できるのは薬を飲ませることくらいだ。だが、側にいて様子を見ていなければ、何かあったときに対応できない。

「頼むから、行ってくれ」

 その声は泣き出しそうに聞こえた。押しやるようにした手がスカートに触れ、それを赤く濡らす。彼は自分の汚れた両手を見つめ、怯えたように握りしめた。

 そして、再び俯いて咳き込み始める。

 ティータはとっさにその背中に手を伸ばした。

 子供の頃、咳き込んだ時に母がしてくれたように、ゆっくりとさすり始める。気休めかもしれない。けれど、苦しいときに差し延べられる温かい手は、幼い彼女にはとても嬉しいものだったから。

 抗う余裕もないのか、諦めたのか。病人はされるがままになっている。体が熱い。熱もあるのだろう。肉の薄い背中は小刻みに震えている。シャツを通して背骨が浮き出ているのが分かった。

 グラナクでも指折りの使い手。ゲールの言葉が頭をよぎる。だがこの身体では戦えない。かつてどれほどの槍使いだったとしても、ここにいるのはただ苦しんでいる病人だ。

ふと、彼の中にひどく濁った部分があるのを感じた。それが荒れ狂い全身を濁らせている。

 いったいこれは何なのだろう。

 そんなことを感じながら背をさするうちに、手の平から微かな熱が背中に伝わり始めた。それはロクリスの体の中に取り込まれ、濁りとぶつかり合い、そして消える。

 わずかではあるが濁りが薄くなったような気がした。

 感覚に導かれるままに、ティータは熱を送り始めた。次第に右手が熱くなっていく。体中からそこに熱が集まり始めたのだ。そして指先から病人の体の中へ流れ込んでいく。

 そうしながら意識の隅で気になっていた。今体の中を流れていくもの、この感覚はどこかで覚えがある。どこでだったろうか。と。

 やがて思い出した。

 森にいると、体になにかが流れ込んでくるように感じることがある。あれと似ているのだ。

 思い出の川辺にいるときに、光として感じられる生き生きとした力。ローウェンの歌を聴いているときに体中に満ちたあの力。それはゆるやかにティータの中からロクリスの中へと流れ込んでいく。

 少しずつ、少しずつ。病人の体の中で荒れ狂っていたものは静まっていった。だが濁りの根本は消えてはいない。

 消せないものだろうか。彼女はさらに指先に熱を集めようとした。しかし、もう送り出せる熱はほとんど残っていない。それでも、微かに残っているものを絞るように集める。もう少し。もう少しだけ。

「大丈夫。もう、だいぶ落ち着いた」

 その言葉に、ようやく我にかえった。

 いつの間にか、彼の息はずいぶんと静かになっている。

 ほっとすると同時に寒けが襲ってきた。牢の中とはいえ、夏なのに凍えそうなほどだ。隅にある小さな窓からわずかながら日が射し込んでいるのが、とても恋しい。そこに行きたい。そう思ったらたまらなくなった。

 だが、立ち上がるだけで一苦労だった。体がおそろしくだるい。   

「すまない。ずいぶん無理をさせてしまったようだ」

 彼は、なにかにとまどっているようだった。何故なのか分からずティータは曖昧に微笑む。そして、日差しの中に歩み入る。

 光が染み込んできた。

 渇ききった時に水を貪るように、身体が光を吸い込んでいるのが感じられる。わずかな光も逃さないように、彼女は目を閉じてそれを受け入れた。

 差し込む光から、かすかに吹き込む風の中から。

 けれど足りない。こんなにもわずかばかりの光では飢えはしのげない。

 あそこなら。川縁の草地なら。それが無理なら、せめて城の外であれば、もっとたくさんの光を吸い込むことができるのに。

 夢中になって風と光を浴びているとき、ロクリスのつぶやきが耳に届いた。

「君がいやしてだったなんて」

 ここが何処なのか思い出し、彼女はあわてて高貴な囚人に向き直る。

 病人をほったらかし、なぜだか我を忘れて光を浴びていたのだ。恥ずかしいやら、申し訳ないやらで彼女は俯いてしまった。

 その様をなんととったのか、ロクリスがあわてたように付け加える。

「すまない。君が言いたくないなら何も言わないでいい。だが。ありがとう。ほんとうに助かったよ。君が危険を顧みずに、この身を癒してくれたおかげだ」

 礼を言われることは嬉しかった。だが、そこまで大仰な言い方をされると、困ってしまう。ただ、薬を飲ませ、背中をさすっていただけなのだ。

「そんな。わたしは何もしてませんから」

 ロクリスは心得たように頷く。

「ああ。そうだね。安心してくれ。今のことはけして誰にも言わないから。いや、だがローウェンは。彼は知っているのだろう君がいやしてだということを」

 意味の分からない言葉を自分に使われたことにティータはとまどった。だが、やがて、彼女の知っているある言葉が、その言葉と同じ音を持つことに気づいて愕然とする。 

「あの、今、癒し手って言いませんでした。それって昔話とかにでてくる。あの病気を治す」

 軽い咳のあと、彼はわずかに目を細めた。

「そう。癒しの力を持つ者のことだよ」

 はっと、ティータは彼に向き直る。それまでの会話を辿りなおして、とんでもないことに気付いたのだ。

「あたしがそうだと……」

 ロクリスは不思議そうに彼女を見つめる。

「今、わたしを癒してくれたろう」

 冗談なのだろうか。それとも何かのたとえ話なのか。

 なぜ?

 そう思ったとき、先ほどの妙な感覚を思い出した。ロクリスの中の濁り。流れ込んでいった熱。たしかにあの時、彼女は自分が何かをしたような気がした。けれど、では何をしたのかといわれるとよく分からない。気のせいだと言われてしまえば、そんな気もする。

 もしかすると彼は、あれを癒しの行為だと言っているのだろうか。

「あの光が……」

「君にはあれは光として感じられるのか。そう……たしかに光という言葉が一番近いかもしれない」

「あの。あれで本当に具合がよくなったんですか」

ロクリスは頷く。

 想像が当たっていたことは分かった。だが、それでも分からない。 

「でも癒しって、何かもっと違う。もっとすごいことでしょ。」

「そうだね。伝説に出てくる癒し手は、ひとたび死の淵を越えたものを甦らせたり、一瞬で傷を癒したりする。だから、それとは違うのかもしれない。でも、今たしかに、君の手から流れ込んでくる力は、わたしの発作を和らげてくれた。それを癒しと呼ぶのは違うだろうか」

 自分の手を見る。いつもと変わらない手だった。

「それに、今は伝説の時代とは違う。大地の力自体がはるかに弱まっている。大魔法使いの血筋も薄くなり、人々の間に消えてしまった。今、残っている魔法があるとしても、それは、伝説に比べれは不出来な写し程度のものでしかあり得ないんじゃないかな」

 ロクリスの言うことはそれなりに筋は通って聞こえた。だが納得できるかどうかとなると別だ。

「でも、やっぱりそんなこと言われても。だってそんな便利な力があるんなら、何で今まで何にもできなかったんですか」

 ティータの頭の中に、失ってしまった人たちの姿がよぎる。もし、自分が本当に癒し手なのなら、なぜ救えなかったのだろうか。

「今まで……そうか」

 彼は労るようにティータを見た。

「癒しは、魔法は自由に使えるとは限らないようなんだ。ある程度の力はあっても、使い方が分からなければ使いこなせない。なのに、長い封印の時代の間に技が失われてしまった。今まで何も起こらなかったとしても不思議ではないと思うよ。さっきのは、たぶん偶然が重なってたまたまうまくいったんだろう。……偶然だけとも」

 最後の言葉は、聞こえるか聞こえないかのつぶやきだった。

「もしかしたらそうなのかもしれません。でも……でも、いきなり癒し手だなんて。そんなことを当たり前みたいに言われたって」

 目の前のロクリスはあまりにも穏やかで、そのことがティータをよけいに戸惑わせる。

 今まで、ごく当たり前の騎士の若君だと思っていた。その人が魔法の力や癒しの技について、こんなにも詳しく語っているなんてあまりに奇妙だ。

「そうだね。さっき初めて自分の力を知ったのなら、すぐに受け入れられなくても無理はない。でも、それは君の一部だ。いつかは認めざるを得ない。わたしも、わたしは君の他にもいろいろな人を知っている。自分では操れない不思議を起こせる人もいる。ささやかだけど魔法を使える者もいる。君と同じことのできる人も知っている。何度も癒してもらったよ。その人がいなければわたしは生きながらえていなかっただろう。だから……認めないわけにはいかないんだ。魔法使いは今でもいるんだと」

 認めないわけにはいかない。彼は自分に言い聞かせるかのようにそう言った。

『ロクリス殿の父上は息子を魔法使いだと思っている』

 突然ローウェンの言葉が甦ってくる。

 そういえば、あの時はうっかり丸め込まれてしまったけれど、なぜカイル卿は息子を魔法使いだと信じるようになってしまったのだろう。たいてい、人は自分に都合のいいことの方を信じたがるものだ。かわいがっている息子であれば、些細な疑いなど信じまいとする方が普通ではないだろうか。

 それができなかったということは。

 体が緊張感で震え出す。

 疑うことすらできないほどはっきりと見てしまったのではないだろうか。息子が魔法を使うその瞬間を。

そして、彼自身が魔法使いであるなら、それならば確かに認めざるを得ないだろう。今でも魔法は存在するのだと。

「そのうちの一人がご自分なんですね」

 思わず口をついて出た言葉に、若者の柔らかかった表情が凍りつく。彼はきつく唇を閉じ、じっとティータを見つめた。

 口に出すべきではない事だった。思ったがもう遅い。

彼の内側に渦巻いている思いは、表情からだけでは察することはできない。だが壊れそうなほどに何かが張りつめていることだけは感じられた。

「ローウェンに聞いたんだね」

ティータは縮み上がる。不用意な一言で、ローウェンに迷惑をかけてしまっただろうか。ただ、救いはその言葉に怒りの色はないことだ。

「いえ。あの人はお父様がそう疑っているとだけ」

「で、君がそれは真実なのだろうと」

 おずおずと頷く。

 なぜか彼は悲しげな微笑みを浮かべた。そしてわずかに瞑目すると、彼女の足元を指し示す。

「足元にある花を拾ってくれないか」

 そこには小さな白い花が落ちていた。どこから紛れ込んできたのだろう、中庭に咲いていた花だ。風に運ばれたとも思えない。誰かの髪にでものってきたのか。

 そんなことを思いながら、そっと拾い上げる。それはつい先ほど枝を離れたかのようにみずみずしかった。

 言われるままに手に載せて差し出すと、彼はゆっくりと肯いた。そして大きく息をする。

 濃いブラウンの瞳が、淡い金色の光を帯びた。空気の流れが変わる。掌の中に力が満ちる。

 ふわり。

 花が浮かび上がった。

 小さな花は踊るようにくるくると宙を遊ぶ。風はない。あったとしても普通ならあり得る動きではなかった。

 見とれていると、急に激しい咳が聞こえた。同時に花びらは掌に落ちる。

 今、目の前で起こったこと。これはいったい何なのだろう。一瞬ではあったけれど、ささやかではあったけれど。だが間違いなく、常ならぬ力の発露だったのではないか。

 ティータは視線を上げて、まだ咳き込んでいるロクリスを見る。

「この程度のものだ。しかもリュシスの力を借りなければ自由に操ることさえできない」

 自分の力を認めながら、彼はひどく自嘲的だった。

「でも不思議なものでね、普段は自由にならないくせに、我が身の安全に関わるとなると、使うことができるんだ。今回こそこんなことになってしまったが、今まで何度この力のおかげで、危機を切り抜けてきたことか。そう、わたしの力はほとんど自分のためだけにしか使うことができないんだ。せめて君やあの人のように人を癒す力であれば、少しは誇ることもできたのに」

 咳のせいだけではないのだろう。ロクリスはどんどん苦しげになっていく。

 ひどく居心地が悪かった。これは自分のようなものが聞いていいことなのだろうか。

 しかし、遮ることもできない。

「だから、父上がわたしを疎んじられるようになったのもしかたのないことなのだ。ましてわたしはこんな力のおかげで、真実そうである以上の使い手だという評判を手にしてしまった。誇り高い騎士である父上には耐えられるはずもない。だが、だから、たとえ、それがわたしの望んだことではなくても……」

 そう言うと、先の言葉を見失ったかのように足元を見つめ、唇をかみしめた。微かに震えているその口の端を、まだ拭いきれていない血が汚している。

 なぜこの人はこんなにも自分を責めるのだろう。やりきれなくて思わず口を挟んだ。

「そんなの変です。だってもともとみんなが同じように生まれつく訳じゃないでしょう。力の強さだって体の大きさだって違うじゃないですか。人より恵まれてるところがあれば、戦うときに有利なのはべつにロクリス様に限ったことじゃないはずです。どうしてご自分だけがそんなに悪いことをしてるって思うんですか」

「これは禁じられた異端の力だ」

 さきほどは明るく金色の光を湛えていた茶色の瞳が、今は闇に沈み、黒よりも暗い。

 やはりこの人と自分はどこか似ている。そう思った。彼が己を追いつめるその道筋がなんだか分かってしまう。だからこそ、そのままにはしておきたくない。

「でも癒しの力だって……。あれも大地の力なんじゃないんですか」

「そうだね。同じ大地の力による癒しもまた禁じられた技だ。ということはその力のおかげで生きながらえてきたわたしは、存在そのものが罪というわけか」

 乾いた笑い声が上がり、咳で途切れる。

「あたしにはそうは思えません」

叫んでいた。

「もしさっきあたしがしたことが癒しだというなら、あの時使ったものが大地の力だというなら、あれがそんなに悪いものだなんてあたしには思えません。教会が魔法使いを異端者だって言うのはきっと何か別な理由があるんです。あれは……あの力は、いつも森で感じてました。とてもきれいで澄んでいて。その力を使うことが、ただそれだけで悪いなんて、そんなのなんだか変です」

 ロクリスの暗くこわばっていた表情が微かに揺らぐ。 

「そうだね。わたしも、そう信じたい。いや、自分ではそう感じてるよ。けれど、人はそうは思わない。たぶん」

一瞬泣き出すのかと思った。しかし彼は涙を落とすことなく、視線だけを落とす。

「強くなれれば。でも、強くないから。わたしはローウェンのようにはなれないから」

 ティータの脳裏に、つい最近に竪琴弾きと交わした会話が甦る。

 自分の音楽が持っている奇妙に力について、彼が口にしたときの気楽そうな口調。もちろん彼女に語らなかった思いはあるのだろう。それでも彼ならばあの脳天気な物言いも強がりだけではないのだろうと思える。

「そうですね。ローウェンは。でも、きっとあたしだって、誰だってあの人みたいにはなれない」

「そうか。君も知っていたんだったね。彼の歌が持っている力を」

「ええ。たぶん」

 ロクリスはじっと目前の闇を見据えている。

「彼は。何であんな風に笑っていられるんだろう。あれほどのものを背負って、平気な顔をして。わたしだったらたぶん耐えられない」

 彼が自分を責めるのが正しいことだとは思わない。けれど、そうせずにはいられない自分を貶めるのはもっとよくないと思った。

「いいじゃないですか別に平気でいられなくったって。ローウェンは、そりゃあ、あたしだってあんなふうになれたらいいと思うこともあるけど、でも、あんな人ばっかりだったらきっと困ると思うもの。ロクリス様はロクリス様のままで本当に良い方です。あたしみたいなものを見下さずに話してくれるし。病気のことだって、うつらないようにとても気を使ってくれて。自分が辛いのに人のことまで気にかけるなんて普通はできません。あたし、ここに来るようになったのは最初はウーゴ様のお手伝いができればって思ってただけでした。でも今は何よりロクリス様に元気になって欲しいんです」

 ロクリスは面を伏せたままじっとしている。陰になっているのでどんな表情をしているのかよくわからない。

 反応がないことに、ティータはあわてた。身分の低い小娘が、目上の者に対してするには、あまりに生意気な物言いだったかもしれない。

 考えあぐねていると。

「ありがとう」

 呟くような声がそう言った。

 そして、顔を上げ、ぎこちなさを残しながらも微笑む。

「話せて少し気が楽になったよ。だが、いろいろと不愉快なことを聞かせてしまってすまなかった。」

「そんなことはないです」

「本当にありがとう」

 そういう彼の表情は、まだ微かに揺らいではいたが、いつもの物静かなものに戻りかけている。

 本当に楽になれたとは思わない。だが、言えなかったことを口にできれば、そしてそれをただ聞いてくれる人がいれば、それだけでもいくらかはましな気分になれることをティータ自身、経験したばかりだ。

 彼が落ち着いたと言うのなら、しばらくそうっとしておこう。そう思って座り直したが、だんだん居心地が悪くなってきた。

 見ればロクリスもどことなく居心地悪そうに窓の方を見ている。

「一つ聞いて良いですか」

 その言葉にむしろほっとしたように茶色い頭が揺れる。 

「ローウェンのあれは。あれも何かの魔法なんですか」

 彼は手を組み直し、何かを考えるかのようにじっと見つめる。

「本人から聞いたわけじゃないんだ。ただ、彼を知ってからいろいろ調べたので、自分なりの考えは持ってる。それでもいいかな」

 ティータが肯くと、彼は静かに話し始めた。

「君も知っているかもしれないが、昔、オルバインの民というのがいた。海辺に住み、古代の神を奉じていた者たちだ。彼らの中から選ばれた巫女たちは、神の声を聞く力を持っていたという。その頃の王や領主たちは、事ことあるごとに彼らを通じて神に伺いをたてたそうだ。そのオルバインで神に捧げる音楽を奏でるときに使ったのが竪琴だ。竪琴というのは元々そういう楽器だったんだよ。そして、普通、神を依らせる巫女になれるのは女性だけだったが、ただ一つの例外として、男でも最高の竪琴弾きだけはその音楽を通じて神の力を表すことができたというんだ。もっともそれほどの腕前を持つ者はめったに出ない。いくつもの世代を通じて生まれなかったこともある。伝説にも、ごくわずかしかその存在は記されていない。だがそれでも確かにそういう力を持つ者が生まれることはあったんだ。けれどやがて、オルバインの地も教会の支配下に入り、巫女たちはいなくなった。あの地方では、竪琴はいまでも聖なる楽器だけれど、神の器となる者は現れなくなった。いや、そう思われていた」

 ティータは唾を飲み込む。

「それが現れたと」

「わたしはそう思っている」

 時折咳き込みながらも、彼は楽しげに見えた。きっと、槍を構えて馬上にいるよりも、そうして伝説について語っている方が、似合っているのではないだろうか。

「そのお話。少しは聞いたことがありました。でもローウェンと結びつけて考えたことなんて無かった。でも、たしかにそう言われればそうだわ」

 ロクリスは困ったように笑った。

「あまり感心しないでくれないか。本当かどうかなんて分からないんだから。ただの空想だよ」

 そう言う物言いが、なぜかひどく懐かしくて、ティータはあらためて目の前の若者の姿を見直した。

「なにか」

「あ、すみません。昔、父さんがいろんな話を聞かせてくれたんです。なんだがその時のことを思い出して」

 ロクリスは首をかしげる。姿や面差しはさして似ているわけではない。だが、やはり話し方や、まとった空気に何か父を思い出させるものがあった。

「父上か、幸せそうな顔をしている。良い父上なのだね」

「小さい頃に死んじゃったからちゃんとは覚えていないんです。でも、大好きだったから」

「そうか、それは不用意なことを言ってすまなかった」

あわててそう言ったあと、ロクリスはふと、寂しそうな目をした。

 彼と彼の父のことを思い出し、ティータの胸の奥が痛む。

 そのとき。外からあわただしい足音が聞こえてきた。

「全く、何を考えておる。ティータまで閉じこめてどうする気だ。薬を取りにも戻れぬではないか」

 珍しく、ウーゴが声をとがらせていた。

 かんぬきを外す音。

 返事は扉が開く音にまぎれる。

 開くが早いか飛び込んできたウーゴは、二人の様子を見て表情をゆるめ息をついた。

「落ち着かれたようだな」

「はい。ただ、ずいぶん血を吐いてしまったので」

「ああ、そのようだな。ティータそなたは薬草園の方に戻って湯と着替えを用意してくれ。ランに持たせてな」

もう少し話していたかった。だが、必要がない限りは病人には近づかないという約束になっているのだ。

 仕方なく立ち上がる。

 入り口で振り向くとロクリスも名残惜しげに彼女を見ていた。


 牢を出たとたん、忘れていた疲れが再び襲ってきた。痛みなどはないのだが、指一本動かすのもだるい。薬草園に戻っても仕事にならず、ウーゴに勧められるままに早めに戻ることにした。

 部屋に入ると、ユーニスが珍しく横になっている。気にはなったが、自分がだるいこともあって、気遣う気にはなれない。だが、手を洗おうと蓋を開けると、瓶の水がほとんどなくなっている。母が水汲みに行かないなんてよほどのことだ。

「どうしたの」

「ちょっとだるくて」

 よく見れば、顔が赤い。額に手を当ててみるとかなり熱が高かった。

「熱があるじゃない。ちょっと待ってて、ウーゴ様を呼んでくるから」

「やめなさい」 

 行きかけたのをユーニスはあわてて押しとどめた。

「ただの風邪よ。ウーゴ様を煩わせないで」

「でも……」

 たしかに、寝ていれば治るような病気でウーゴの手を煩わすわけにはいかない。だが、そう言っているうちに取り返しがつかなくなることもままあるのだ。

「大丈夫。自分の体は自分で分かるわ。ちょっとこのところ無理をしすぎたのよ。ゆっくり休めば治るわ」

 母の言うことももっともなので、せめて詳しく様子を見ようと傍らに腰掛けた。たしかにだるそうではあるが、咳や発疹があるわけではない。

 ふと、自分の手が見えた。さっきのことを思い出す。

 そっと額に手を乗せた。あの時の感覚を思い出せないかと目を閉じる。

「何してるのよ。変な子ね」

 ユーニスはくすぐったそうに笑った。

 けれど伝わって来るのはいつもより少し熱い体温だけ。他には何もない。

 溜息をついて、目を開いた。

 ユーニスはぼんやりと娘を見上げている。風邪であるにしても、無理が祟っていることにかわりはないのだろう。どんなに若々しく見えても、やはりそれなりの年なのだ。頑張りすぎれば疲れが出てもおかしくはない

 ゲールとの一件では穏便に話をまとめるために、ずいぶんと走り回っていた。やり方や結果には納得できないものがあっても、娘のことで苦労をしている事は事実だ。

 なのに、寝込むほどになるまで、気づきもしなかった。

 少し楽にしてあげられないだろうか。もう一度掌に思いを込める。だが何も起こらない。昼間感じたあの感覚は甦らない。 

 やはり気のせいだったのか。癒しの業が使えるなんて。

 だが、あの時交わした会話を思い出して考え直す。

 たとえ力があっても、いつでも使えるわけではないと言っていたではないか。たまたま何かが重なったときしか使えないと。ロクリス自身もそうなのだと言っていた。

 ……いや。しかし、あの時彼は力を使いこなしていた。自分の意志で。

 なぜ。

 そういえば何か気になることを言っていた。何かを使わなければ、自由に力を使えない。

 どういうことなんだろう。方法があるんだろうか。

「ねえ、悪いんだけど、日が暮れる前に少し水を汲んで置いてくれない」

「あ、ああ、ごめんなさい。ぼおっとしてたから」

 ティータはあわてて立ち上がった。出来もしない癒しの業より、今しなければいけないことはたくさんありそうだった。



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