8.OL、魔族の街に行く
カタカタと私がキーボードを叩く音だけがその場に響く。
「梨ー沙さん!」
「うひゃ!?」
PCの画面に集中していた私は、突然頬に感じた冷たさに飛び跳ねる。
バッと横を見ると、いたずらに成功した子供のような笑みを浮かべた後輩が、缶ジュースを手に私を覗き込むようにして立っていた。
ニヤニヤしている彼に、私は怒ったように彼の名前を呼んだ。
「ハハ、うひゃだって。」
「誰のせいよ!」
楽しそうに笑う彼とは反対に、私はムッとして頬を膨らませる。
そんな私に構わず、彼は先ほど私の頬に当てたであろう缶ジュースを差し出してきた。
私の好きなミルクティーだ。
「……ありがとう。」
もっと文句を言ってやりたかったのが本音だが、私は差し出されたミルクティーを素直に受け取ると、彼にお礼を言った。
「今日も残業ですか。お疲れ様です。」
「お互い様ね。」
時計の針は22時を差していた。
もうそんな時間か。
職場には、もう私と彼しか残っていないようだった。
私は彼にもらったミルクティーを開け、それを一口飲む。
「まだかかりそうですか?」
「う〜ん、今日はもういいかな。」
そう言うと私は両手を伸ばし、大きく伸びをした。
そんな私に、彼がニヤリと笑う。
「じゃあ今日も、どうですか?」
そう言いながら、彼はジョッキを傾けるようなジェスチャーをしてみせる。
「……行きますか!」
そう言うと私は、開いていたPCをパタリと閉じた。
「よっし!」
そんな私に彼がガッツポーズをして見せた。
「毎日毎日残業に苦しめられていると言うのに……——くんはいつも元気だねぇ。」
おねぇさんもう疲れたよ、と私がため息をこぼす。
「はい!俺は梨沙さんと飲めるだけで元気になれます!」
「そう……それはよかった。若さだねぇ。」
嬉しそうに言う彼。
尻尾を振り回しているわんこのようだ。もちろん彼に尻尾はないのだけど。
「じゃ、行こっか。」
「はい!」
そう言って、私は彼と共に職場を後にしようとして、ふと違和感を感じた。
なぜだろう。
「————様、」
毎日こんな日々を繰り返しているはずなのに、なぜ懐かしく感じるのだろう。
「————ット様、」
そもそも、毎日顔を合わせているはずの、彼の名前が思い出せない。
「————リゼット様、」
ああ、そうだ。私はもう、梨沙ではない。
「リゼット様!」
ハッとして目が覚めた。
目を開けた瞬間に、ものすごいイケメンのドアップが私の視界を占領する。
「うわぁ!?」
あまりにも整った顔が目の前にあり、思わず私は驚きの声を上げる。
そんな私の様子に、目の前に迫っていたイケメンが身を引いた。
「不躾に申し訳ございません。」
身を引いていったイケメンを目だけで追う。
綺麗なシルバーアッシュの瞳と目が合った。
「アル……。」
そこにいたのはアルベールだった。
目が覚めた瞬間に、その端正すぎる顔が目の前にあるのは心臓に悪すぎる。
今も私の心臓はばくばくと大きな音を立てて脈打っている。
「おはようございますリゼット様。いくら呼びかけても起きて来られなかったため、僭越ながら入室させていただきました。」
「そ、そう……。それはごめんなさい。」
「いえ、お疲れだったのでしょう。」
前世の記憶が戻ってから、早いもので2ヶ月が経過した。
毎日私と接しているアルベールは、私のお礼にも謝罪にも随分慣れたようで、過剰に反応を返すことはなくなった。
ヴァーノンに魔法を教わり始めた日から、ヴァーノンが時間を取れない日でもアルベールの剣術指導の合間を縫って魔法の練習も平行して行なっていた。
その甲斐もあり、私はやっとの事で各属性の最下級魔法を発動できるようになった。
闇属性以外の発動には随分苦労したため、魔法の練習を初めて1ヶ月以上かかってしまった。
それでもヴァーノンは驚異的なスピードだと褒めてくれた。
疲れ、か。
確かに私は前世を思い出してから、それまででは考えられなかったほど濃密な毎日を送っている。
それもかなり体に鞭打つような毎日だ。
もしかしたら自分で思っている以上に私は疲れているのかもしれない。
人間、休みも必要だ。
今はもう人間ではないのだけど。
そう考えた私は、横になっていた体を起こしベッドの端に座るように足を下ろした。
「よし、アル!城下町に行こう!」
魔族だって、人間と同じように日々生活している。
魔王城の城下には、魔族たちが住む街があるのだ。
今日は修行は一先ず置いて、息抜きに久しぶりに城下町に出てみよう。
「は。お供いたします。」
そうして私は、朝食を終えた後アルベールを連れて城下へ向かった。
前世の記憶が戻ってから、城下町に出るのは始めてた。
純粋にリゼットとして生きていた頃には何度か訪れたことがある。
ざわざわと城下町はそこそこの賑わいを見せている。
そんな城下を、私はキョロキョロと周囲を見回しながら歩く。
「今日はキャロラが安いよー!」
「今日取れた新鮮な魚はいかがですかー」
「パンが焼きたてだよー!」
さぁさぁどうだいどうだいと、様々なお店の元気な声が飛び交っている。
魔族は確かに血の気の多い者が多いが、このように商人として生活している者もいるし、人間と同じように家庭を持ち静かに暮らしている者もいる。
ちなみに今日の私はなるべく騒がれないように、顔がすっぽり隠れてしまうほど深いフードのついた服を着ている。
私の特性は、私がちらりと視界に入ったくらいではさほど効果を発揮することはない。
私の存在を認識することで、猛烈に作用する。
なので今の私は、下手に住民に声をかけたりしない限りは城にいる時のような騒ぎにはならない。
さぁ、思いつきで城下まで来たのはいいが、何をしようか?
「そこのお兄さんたち、飴菓子はどうだい?」
通り過ぎようとしたお店の人に声をかけられ、思わずそちらを見る。
売られているのは、果実を飴でコーティングした、前世でいうフルーツ飴だ。
宝石のようなそれに、思わず私はお店に駆け寄った。
「これください!」
私が、その一つを指差して店主に言った。
「!ま、まさかリゼット様……?」
フードで顔は見えていないはずだが、私に直接声をかけられたことで特性が発動したのだろう。
城下町で私のことを知らない魔族はいない。
私を前にした時の感覚の変化で、私と判断したのだと思われる。
「しーっ!みんなには内緒だよ。」
人差し指を口に当てながらそう言うと、店主はぶんぶんと音がなりそうなくらい首を縦に振った。
「ま、まさかリゼット様にお越しいただけるとは……!好きなだけお持ちください!もちろんお代は不要でございます!」
感極まった様子で、店主がそう告げるが、私はそれに首を横に振る。
「一つでいいの。こんなに食べられないもの。それにお代もちゃんと払うよ。」
「リゼット様からお代をいただくなど、そんな恐れ多い……」
「私が払うと言うのだからいいの!」
そう言って、私はお代を半ば強引に店主に押し付けた。
店主は震えた手でそれを受け取ると、これまた震えた手で私に飴菓子を差し出した。
「ありがと、おじさん!」
「あぁ、私はもう思い残すことはございません……!リゼット様に私の飴菓子をお買い上げいただき、その上お礼まで……!このお代は家宝にいたします!」
日本でいう所の300円程度の硬貨を家宝にするらしい。
私は苦笑しながら、感激している様子の店主にひらひらと軽く手を振って別れを告げた。
そして、先ほど受け取った飴菓子をペロリと舐める。
「ん〜〜美味しい!」
「!リゼット様、そのように無警戒に何でも口に入れられては困ります。」
口いっぱいに広がる幸せな甘さに水を差すようにアルベールから注意が飛んできた。
私は不満そうな顔でアルベールを見る。
「そんな拾い食いでもしてるみたいな言い方しなくてもいいじゃん。」
ぷーと頬を膨らませながら私が言う。
アルベールが何か言い返そうとした瞬間、ガシャーンと大きな音が聞こえてきた。
「舐めてんのかテメェ!」
「あぁ?俺と一戦交える気か?」
明らかにこれから喧嘩を始めようとしているかのような会話が聞こえる。
こんなところで魔族が本気で喧嘩したりなんかしたら大変だ。
野次馬が集まる一方で、女性や子供の魔族たちはその場から逃げるように離れていく。
私はため息を一つこぼす。
「アル。」
「は。」
それだけで私の意図を理解したアルベールが、目にも止まらぬ速さで騒動の真っ只中に介入する。
「ぐっ……!?」
「がはっ……?!」
それは瞬きよりも一瞬の出来事で、その場にいた誰もが今起きたことを理解できなかった。
気付いたら、今にも殴りかかろうとしていた二人のうちの一人が腹を抱えたまま蹲り、もう一人が地面に倒れている。
アルベールは一瞬のうちに、一人に鳩尾へ拳を一発、もう一人に蹴りを決めたのだ。
流石アルだ。
鍛錬を初めてたった2ヶ月の私には、彼が何をしたのか全く目で追えなかった。
剣すら抜かずに一瞬でこの場を片付けた。
私が、彼の方に駆け寄ろうとしたその時、
「わっ!?」
野次馬の一人が私の背中を押した。
おそらく、背の低い私が視界に入っていなかったのだろう。
ズサーッとその場に私が倒れ込んだ。
せっかく買った飴も、そのせいで私の手から離れ地面に転がってしまう。
「リゼット様!」
私の驚いた声を耳にしたアルベールが、慌てて倒れこんだ私の元まで飛んでくる。
アルベールが私の名前を呼んだことで、周囲が「リゼット様!?」「リゼット様だって!?」「どこだ!?」「あぁ、リゼット様だ!」と、途端に騒がしくなる。
しかし、私にそんなことを気にしている余裕はなかった。
急いで私の元まで来たアルベールがそっと私を抱き起す。
「リゼット様!ご無事ですか!?」
「い、いたぁい……」
手と膝を擦りむいた程度であったが、今の私は所詮6歳。
生理的にその目に涙が滲む。
そんな私を見つめていたアルベールの瞳が、怒りに染まる。
そのアルベールの、怒りに満ちた瞳を見た瞬間、私は数年前の出来事を思い出した。