八章【斯くして少女はブラッドレイとなる<XIV>】
天井……空気は肌寒いがよく換気に気を使った、呼吸をする際に埃臭さから来る息苦しさとは無縁な、淀みの無い澄んだ空気。
カーテンは風にあおられて日を遮る役割をおざなりしているが、その方が差し込む陽光に適度な暖かみを感じられ、誰かの気遣いで活けられる花の香を伴う風が頬を撫でるたびに心地よさを醸し出している。
……………あれ?私は、ああそうそう、出血多量で死んだんだった…という事は意外にもここは天国か?ないな、信仰心という物はジェインと共に死んだ。あの時に、ジェインと時雄が混じり合った、あの瞬間に感じた感覚が、神の存在を明々白々に否定したのだから当然の顛末としてここは天国ではない。
少しずつだが頭脳が明瞭になって来たから分かる、ここは病室だ。
看護に関してはこちらも著名な女性の記した指南書が金科玉条されている、既に時代に遅れになりけり知識さえ、看護婦が従うべき軍紀であると。あっちの世界での今の現在も同じなのかは私の、正確には時雄の知識不足で明言を下げるが、こちらでは私が調べた限りでは幾つかの事柄が時代遅れで時代錯誤となっていた。
ただし清潔である事などを徹底する事は、人類共通の不変な鉄則として遥か未来まで語り継がれるのは間違いない。
そのおかげで換気の行き届き、淀みを含まない空気のおかげで楽な呼吸が出来ている。
腰の鈍痛による息苦しさだけは拭えないが。
さてではここが病院だとしてだ、問題が二つ…いや三つか。
一つは、ここが一番の問題だがどれだけの期間をベッドに身を任せていたのか?確認の方法は上体を……問題なくは無いが、腰の鈍痛を込々として動き辛さから勘案すれば、そう長い期間を寝て過ごしていた様子はない。
片腕は…右肩から先はない、壊れていたのだから邪魔と外しているのは当然だ。
そして思考が明瞭になる毎に鋭敏に鳴り出した痛みは、やはりそう長い期間を寝て過ごしていた訳ではない事を物語っているから、幸いにも…まあざっと1,2週間。
さて次に二つ目の問題はエァルランドの地は平穏を取り戻したのか?または絶賛内戦の真っ最中なのか?
ここが真っ最中ならば、病院という病院は野戦病院の慌ただしい情景が聞えてきそうだが、木霊するのは靴音ばかり、たまに看護婦の和気藹々な世間話が扉の向こうから伝わる程度の忙しなさ。とてもとても内戦の真っ只中という雰囲気は醸し出されていない。
つまり懸念事項の二つは気にも留めなくてもいい、という訳だ。
さて最後に残るのは、まあ昨日か、先週か、先々週か、の程度の時間経過で上手く綺麗にまとまる筈がないし、私の出る幕は既に終えているから大人達の責任感に委ねるしかない。あの亡きクリー男爵なる人物がどのような立ち位置にいた人物なのか?は最早私に知り得る術はないしね。
なる様にしかならない、ならなければ学園に入ってから私は一肌脱いで見せるだけだ。
「さて、私の目覚めはどう伝えるべきか?」
ナースコールなどという文明の利器は当分先。
各部屋から使用人の空間へ繋がるサーヴァントベルは、流石に病院に存在する訳もなく、取りあえずは定期的に様子を見に来る看護婦の来訪を待つしかないか?それとも淑女らしからぬ大声を張り上げるべきか?…いや喉がひどく乾いているから待とう。
その時に水差しも頼もう。
と私が呑気に身構えていると噂をすれば影が差すという諺どおりに、看護婦が現れて…
「……せ、せ、先生!?ブラッドレイさんが目を覚ましましたッ!!」
ここからしばらくちょっとした騒動が開幕した。
♦♦♦♦
「騒動と喧騒の申し子だな」
「そうかい、これでも私は静やかにオルゴールが奏でる音色に耳を傾ける乙女なんだが?」
私の目覚めを聞きつけたブラッドレイ卿が病室に現れて、諸々の経緯、私が如何にして殿下の窮地を知るに至ったか?何と戦い、何の魔の手からアルヴィオンとエァルランドを救ったのか?
それらの経緯を全てブラッドレイ卿には包み隠さず説明し終えたら、最初の感想は実に皮肉を込められたものだった。
しかし、ここは空気を読んで、売り言葉への買い言葉は慎み、当り障りのない返答を私は返した。
先程まで医者に看護婦に警察官にと、けが人でしかも見目麗しい乙女のけが人を相手にしているとは心得ていない連中が病室を騒がし、出鼻を挫かれたブラッドレイ卿が話の邪魔だと追い返さなければ、ついでに新聞記者まで顔出しをしそうな雰囲気だったし、傷が癒えぬというのに根掘り葉掘り、しまいには言葉の端っこから勝手気ままな憶測推測自論を書き立てられる事を未然に防いでくれたと思えば、まあ皮肉くらいは軽く受け流す度量を私は持っている。
ああそうそう、出鼻を挫かれたというのは…
「さて、正式な手続きを終え書類はもう少し掛かるが…寝起きに驚かせてやろうとかん口令を通達徹底していたのだがな……」
私の扱いが正式に決まった事を寝起きドッキリの要領で私に通達する予定だったのが、看護婦が口を滑らし、さらには三日は危篤状態だった私が元気よく目を覚ました事に驚嘆した医師が、本当に大丈夫なのか確認をする際にも口を滑らしに滑らし、とどめと事情聴取に突撃して来た警察まで漏らすというネタばらしをしてしまった。
なので何時か起きる時に備えて用意周到に待ち構え、意気揚々と病室に姿を現した時のブラッドレイ卿の、頼んでもいないのに「ブラッドレイ嬢、ブラッドレイ嬢」と連呼する一同へ向けられた殺意の視線は、それはもう見物だった。
「そう落ち込むなよ、今日という今日まで朗報続きだったんだろう?なら寝起きドッキリの失敗くらい、すぐに立ち直り切り替えくらいの失敗談じゃないか」
「ふむそうだな、さて聞きたいだろう幾つかを…おおそうだ、一番の朗報は母子共に健やかだったぞ」
「フフッ、確かに一番の朗報だな」
アシュトン夫人の事は三つめの問題。
一応、銃弾からは守ったと自負していてもお産はに関しては、私に出来るのは天に願うだけ。たぶん大丈夫だろうと思っていたとしても、何が起こるのか分からない、最悪は楽観的に構えている時に気さくに顔を出す。
私が病院へ運び込まれて三日間の危篤の末、峠を越え山を越えて谷を越えて容態が安定したのが四日目でそこから累計して一週間とちょっと、その間にアシュトン夫人の肥立ちは良く、生まれたばかりの赤子も元気よく母乳を飲んでいるそうだ。
「それでこの一週間とちょっとで事態はどういう運びで進んだんだい?」
「アルヴィオン側の不手際と謀略、それと武器を持ち込んだ不始末を和らげる為に実も花もエァルランド側で手打ちとなった。カーラが焼いた家々の家主への補償は、相続者が国外へ逃亡したクリーの資産から賄い、銃撃戦をしたりした事などは私と皇室が手回しをして最初から起きていないとなった」
そうだった、あの時は所謂ランナーズハイの様な、深夜の会議中の様な、血を流し過ぎての冷静な判断力の欠如というヤツで、勢いというか出来心というか、言うだろう?新しい玩具を貰った子供が、嬉しくて嬉しくて駆け回るのと同じ真理だ。
法律に幾つも抵触していたとか、その時にはまるで考えていないお茶目。
懸念していた帝室と公室の縁談話は…実も花も公室が得る形という最善とは言えないが、エァルランドの平穏を取り戻すにはと、アルヴィオン側が折れて一旦は纏まったらしい。
火種というかしこりを残す形だが、内乱やら内戦を起こすよりはマシという判断だったのだろう。
とここまではこれで一段落と言えるものの、勝手にあちらからやって来た懸念事項がある。諸氏も気になるドラキュラなる連中だ。
「それについては逃げた2人を含めて目下調査中だ」
「私は知らなくても良い事情というヤツかい?ブラッドジェリーみたいに」
「いや、ナイトロードを含め、首脳部すら知らぬ連中だ。どこの何者なのか?皆目見当がつかん、というよりも此度の一件は全方位で皆目見当がつかぬと大騒ぎだ。そうでなければ絶対安静の少女に警察官が詰め寄るものか」
追い出された警察の、警部だとか名乗る男やその部下一同は、駐留軍と共同でエァルランドへ武器が流れ込む事態を可能な限り避ける為に、徹底した厳戒態勢を敷いていたのにも関わらず、安い粗悪な拳銃が関の山のエァルランドに物によっては外国で最新鋭とされる機関銃まで流入していた事態に、今も総動員して刀狩りならぬ銃器狩りをしている真っ最中だと言っていた。
押収されるか、進んで提出されたりした量はこの一週間で年間記録を塗り替え、今も記録更新の真っ只中。
ついでに私が好き勝手にした軽?機関銃とやらは、どうにもアルヴィオンの陸軍正式採用されたばかりの最新型だったらしい。
そんな物騒極まりない物が市中に無償で配られた、堅気の武器商人ならロンディニオンの一等地に悠然と構える高級ホテルで、それなりの期間を豪遊して暮らせる代物が無料で。
さらには得体の知れぬドラキュラを名乗る連中まで添えて。
「だけどさ、私が1人、トリスタンが1人、死体は手に入ったんだ、そこからどこ生まれとか推理は出来ないのかい?」
「件の死体は解剖する暇もなく急速に腐り果て、骨も何もかも腐臭撒き散らす肉塊となったそうだ」
腐り果てた…動く死体の様だと形容した容貌の連中には様になり過ぎる最後の最後だが、とても真っ当な生き物のなれの果てとはいえない。推理しようにもウルジカと大男の生け捕りは失敗しているようだし、私自身もこの状態だ。
今は諸手でお手上げと、療養に専念するしか無い。
なので咽喉を潤そう、すぐ傍の水差しは新しく入れ替えているから、水は新鮮なうちに飲むのが最高だ。
「おお、そうだったそうだった!忘れる所だった、此度の一件に陛下はとても感銘を受け、その忠勇に報いる為に皇宮での初拝謁での特別な優先権、そしてお前の子供の名付け親なると仰られたぞ」
「ぶほふぁッッ!?
私は人生で初めて本格的に、気分や勢い、コメディリリーフとかそういう冗談おふざけを一切抜きに、話は終わりなら喉を潤そうと口に含んだ水を盛大に吹き出した。
普通は、常識的に、私が常識という言葉を本気でお茶目なしに口にしてしまうほどに、恐れ多い事が二つ同時にブラッドレイ卿の口から発せられたのだから、それも言い忘れていた!という不敬極まる流れで。
あ…傷口開いたかも……いや気の所為だった。
深呼吸をして落ち着こう、明文化と言及していないという事は、一時期の気の迷いだと周囲が止めている筈だ。ロンディニオンの社交界という華やかにして男女の権謀術数が渦巻く舞台に、私がデビューする事でさえ怪しい、きっと女帝陛下もその頃には綺麗にさっぱり忘れている事だろう。
「ふむ、では話はこれで終わりだ、絶対安静だと後ろから医者共が睨んでおるしな。そして今日からカーラ、お前は私の娘だ。義兄は近い内に紹介しよう」
「ああ是非とも会ってみたい、フフッ、楽しみにしているぜ、お父様?」
私の返答に満足気に微笑んで、ブラッドレイ卿は部下たちを引き連れ、ついでに|まだ事情聴取し足りない警察官《野次馬》を追い出しながら去って行った。
こうして残された私は、現在のこの時の最先端の病院食という悪夢に苛まれる後日談に襲われたが、取りあえずは結果的に自ら関わる事となったこの騒動の幕は一旦だけ下ろされた。




