八章【斯くして少女はブラッドレイとなる<Ⅺ>】
「遅過ぎるぞ!待たせている相手を殿下だと分かっているのか!」
テーブルを父親の敵としているのか、半歩間違えればさながら映画の一場面の様に埃を舞い上げて壊れてしまう勢いで、それ以上の勢いを声に宿して顔を真っ赤にコールリッジは怒鳴った。
その衝撃は壁に掛けられているサーベルが揺れる程に。
薄汚れた見るからに労働者が屯して、日々の雇い主への鬱憤を酒を浴びて晴らす場所という雰囲気を醸し出すパブ…ではなく、比較して近くに住む給与に恵まれている熟練工や事務員が足繁く通っている筈の、内装にもきちんと身の丈に合った格式で統一したパブなのだが、コールリッジがテーブルを叩くと掃除を忘れて幾星霜と埃が舞い上がった。
空気も淀んでいるのか埃臭くかび臭くもあり、中流階級の社交場というにはあまりにも清潔感に欠け、廃屋というに相応しい生活感の無さを醸し出す有様だった。
コールリッジはそこに関しても苛立ちを募らせていた。
蛇足に、今も紅茶の一杯も出てこない事にも。
「まあまあ、連日の騒ぎで僕達だって一苦労で来たんだ、待つ事も楽しみとしないと」
「悠長に言ってられないからこの時期に会談の場を設けたのでしょうが!外の騒ぎが静かな内と……」
コールリッジとは逆に落ち着き払うアーネストの、危機感から地元有力者との会談の場を設けるというクリー男爵の提案を受諾した男が、今も熱気から狂気に変わりかねない外の状況を前にして呑気に待とうという態度に、コールリッジは苦言を少しだけ言ってこれ以上言っても頑固者だから聞き入れないだろうと、もう少しだけ待つと諦めて腕組をして掛け時計を睨みつけた。
そのやりとりを苦笑いを浮かべながら眺めるバウアーは、この中で最も平謝りに身命を賭さなければならないクリー男爵も眺めていた。
焦りの無い表情とは裏腹に足は頻繁に焦りを語り、貸し切っているから店主夫妻は不在だと、紅茶も珈琲も給されない自然な言い分を口にしていても、電話機に近づこうともしない不自然さ。
苛立ちを顕わにするコールリッジを宥める仕事をアーネストに委ねて、バウアーはバウアーで状況下を考慮せず配慮を怠り続けるクリー男爵に苛立っていた。
外から壁を突き抜けて響き渡る民衆のうねりよりも早く、エァルランドの今後を憂い力強く働きかけの出来る有力者達は到来する算段だったか、約束の時間から既に遥か遠く過ぎ去っていている。
コールリッジは巻き上げ忘れて時刻を知らせる仕事を怠っている時計にも苛立ちを覚え、乱暴に舶来の腕時計で時刻を確認すると、ちょうど三時間を過ぎようとしていたので、ついに堪忍袋がはち切れた。
「クリー男爵ッ!先方はどうやって来るつもりだ!」
「コ、コールリッジ殿、もうしばし、もうしばしで来られますから……」
「それを最初に三時間前から聞いた、三十分前にも聞いた!朝とは比べるまでもない外の騒ぎが聞えんのなら外科に今すぐ行ってこい、行けるものならなッッ!」
流石のアーネストでもここまでの剣幕をコールリッジが見せたのなら、もう宥めるのは自然界の法則として不可能だと諦めると同時に、ここまで外で繰り広げられている抗議運動が激化したのなら、賓客を危険の中を押して足を運ばせるのはお願いをする立場として憚れる、という体裁を整えて苦渋の決断だが後日に変更しようとクリー男爵へ出席者への電話をお願いしようとしたが…。
「もうしばしです殿下、もうしばし、ええそうとですもうしばし」
自分の面子の為なのか?
クリー男爵は帰り支度を始めるアーネストに縋りつく様に引き留め、それにコールリッジが怒鳴りを繰り返していると、漸くあまりにも遅く店の扉が開いた。
「おお、遅かったですな!客人が帰られてしまう寸前だったぞ」
クリー男爵は喜び勇んで店に入って来た者達を出迎えるが、アーネスト達は目をギョッとして驚いた。
当然である。
姿形だけは人間だが、いっそう身の毛もよだつ化け物の方がマシだったと思える程に現れた者達は異様だったからだ。
気味の悪い青白い肌と酷く濁り切った赤い瞳、醜く腐乱した死体の様な顔立ちの男が2人先頭に立ち、最も後ろに比較してマシな大男が1人と真ん中にまだ整然の姿を保っている容姿の整った青年の死体の様な男が1人、合わせると4人が居て当たり前と言わんばかりに店の中に入って来たのだから。
「クリー男爵、誰だ?そいつらは」
手でアーネストに指示を出しながらコールリッジはクリー男爵に尋ねる。
「言っておりました客人ですよクーリッジ殿」
「地元の有力者に何時から死体が混じった?先週のローストビーフでももっとマシだ、そいつ等は以下だ」
クリー男爵はコールリッジの指摘にごもっともだという表情を浮かべ、現れた男達の中から1人が前へ出たので、さっとその場を譲った。。
「初めまして、アーネスト・クリスチャン・フィリップ・テオ・アルトリウス殿下で相違ありませんね?私は吸血鬼のイオン・ウルジカと申す男でございます」
ウルジカはさも紳士であるかのように立ち振る舞いながら会釈をしたが、アーネストはバウアーとコールリッジの横をすれ違いながら前に歩み出て…。
「痴れ者、と謗らせてもらう。吸血鬼の下位者であろうが白磁の色合いを帯びる、お前達は誰だ?僕をこの国の皇子として知って謀るつもりだったのなら侮るな痴れ者」
鋭い目つきで皇子然とアーネストはウルジカを睨みつける。
年不相応に内包する貫禄がよりその気迫を鋭く研ぎ澄ましていた。
ウルジカ自身も通用するとは微塵も期待していなかったので、あっさりと白状する。
「これは失礼を致しました殿下、改めて我々は悪魔の子、この国の闇に新たな秩序を打ち立てる者です」
その言葉を聞くと同時にコールリッジとバウアーは再びアーネストを守る為に、どこからか用立てたサーベルを抜いてウルジカの前に歩み出る。
丸腰で来るようにと策謀していたクリー男爵は壁に掛けてあったサーベルを避けておく事前準備を怠っていたと苦虫を噛み潰し、丸腰だと思って余裕で前に出ていたウルジカは怯んで、付け鼻のクザと味噌っ歯のキケロの後ろへと下がった。
男達が現れた瞬間、コールリッジは壁に掛けられているサーベルをアーネストに気付かれずに取ってくるように指示し、悪戯小僧だったアーネストは悟られずに取り外して、前に歩み出る時のすれ違いざまに2人へ渡していたのだ。
「貴様等!目的は何だ!?」
「暗殺ですよコールリッジ殿、この場、この状況、この段階で、まさか黒ビールシチューを食べて談笑しつつカードゲームをするとでも?」
コールリッジの問いかけにクリー男爵は余裕を持って受け答えた。
その返答に納得など出来ないコールリッジは「気でも狂ったか!?」とクリー男爵を糾弾するが、クリー男爵の目には至って正常でどこにも異常性は孕んでいなかったが、どこか狂気じみた何かは宿していた。
「殿下、今から命を奪う側として説明させていただきます。全てはアルヴィオンの為にです、暴徒と化した市民によって貴方は惨殺された事となり、さすれば陛下は必ずや目を御醒ましになってくださる。エァルランド人など畜生に過ぎぬ、その最も下等な畜生と繋がりを深めるなどという慈愛は帝国を滅ぼす愚行だった、と」
「理解に及ばず、僕を殺したところで殺害した者を然るべき罰を与えそれで終わりだ。ましてや市民はまだ暴動に至っていないし、そこまでの規模の暴動を起こさぬ為に警察、駐留軍、多くが自制を徹しているんだ。クリー男爵、貴方の目論見は外れている」
アーネストは必然として事態を重く見る者が方々で、最悪の事態を避ける為に動いている事を知っていたので、クリー男爵の目論見はどうやっても外れると確信して反論したが、全ての実情を知らぬだけの甘い展望だと、全ての事態を把握するクリー男爵は嗜虐的な笑みでアーネストの言葉を論破した。
「ギャング、革命家、浮浪者、雇える者は雇い唆せる者は唆し、然るべき武器と衣装を用立てました。彼等は無辜の市民を装い警官を襲い、彼等は厳格な警官を装い市民を襲い、彼等は警官も市民を囃し立てる…残念ですが殿下、火の手からはここは遠く聞こえぬでしょうが、既に枯れ野は燃え上がっております、貴方が悠長に待っている間に子どもを一匹、警官に扮したギャングに駆除させたので」
「悪魔め、なんという事を!?」
「ですが殿下、ご安心ください。暴動は瞬く間で鎮圧される段取りを海軍将校と付けております、完全武装の海兵300人を乗せた駆逐艦が、知らし合わせてこちらへ到着する頃合いなのですよ。ああそうそう、上陸戦の勢いで流れ弾が大公の頭上に振るかもしれませんが」
勝利を確信した笑みを浮かべるクリー男爵に、アーネストは悔しさを表情に滲ませることを抑えられなかった。
相手をただの日和見ばかりの情けない中堅貴族だと仄かに軽蔑していた自身の能天気さ、視野狭窄に陥りまんまと罠に飛び込んだ間抜けさ、アーネストは敗北感に打ちのめされていた、ただしその相手はクリー男爵ではなくその後ろで全てを計画し実行した黒幕に対してだった。
逆にクリー男爵に対してはその低能さと無能さに憤慨していた、していたが罵声の言葉を飲み込んで何者が全てを企てたのか?アーネストはクリー男爵を問いただす。
「誰が後ろにいる?」
「後ろとは?」
「語った展望の稚拙さとここまでの策略が同一の男の頭脳から出た謀略だとは思えない、物事を幼児の様に俯瞰出来ない、たかだか300人でエァルランド人を、人狼をどうにかできると思い上がる愚者には到底不可能だ」
「失礼ですな、これはわた…――――」
最後までクリー男爵は喋り終える事無く、綺麗にその首は宙を舞い、呆けた面で床に落ちて転がり、首を失った体は血しぶきを吹きあげながら、首を追いかける様に床に倒れる。
後ろに下がっていたウルジカが手刀で首を切り落としたのである。
「まったくもって愚か極まる、そうは思いませんか?市中に武器を流し満たしているのだから、海兵が乗り込めばその武器を持って市民は蜂起するのが歴史で証明されている。大公という民族統合の象徴がなくなれば、歯止めのない終わりなき泥沼の内戦が始めるだけだというのに」
ウルジカは転がるかつてクリー男爵だった首を踏みつけながら言い、さらに言葉をつづけた。
「彼は捨て駒だったのです。此度の殿下暗殺を企てた狂人として、貴族院の過激派を唆す操り人形として…さてこれは我々の計略です殿下、アルヴィオンを内戦で疲弊させその隙間に我々が入り込む土台を作る。全ては我らのナイトロードの御心です」
ウルジカが指をパチンと鳴らし、それを合図にキケロとクザが左右に分かれ、大男のキブがコールリッジに歩みだす。
緊張した構えでコールリッジはキブを見据え、キブは相手が歴戦の猛者である事を見抜いて、間合いを大きく取って自身の体格を生かす為に、相手の間合いの外から攻撃を仕掛けようとテーブルに手を伸ばす。
その瞬間だった。
今日一番の、誰もが予想もしていない、予想のしようのない、そして最も場違いでこの事態を狂乱の喜劇の一幕に変えてしまう者が、
「アッハハハ!火炎瓶だぜ!」
カーラが窓ガラスを突き破って、どこからか持ち込んだ火炎瓶をウルジカへ目掛けて投げた!




