八章【斯くして少女はブラッドレイとなる<Ⅶ>】
トンネルを抜ければそこは雪景色とまでの一変する様変わりはなく、幸いかにも辛うじて群衆は道路を我が物顔で練り歩きこそすれど、押しつぶされる煩わしさが苛みにやってくる程でもなく、店の中で立ち尽くす商品棚とは違い、練り歩かれる分だけ煩わしさを禁じ得ないという程度の人混み具合だった。
大通りに出てイーストウッド夫人が気兼ねなく左右を見通せるくらいなのだから、歩いて車に向かうという判断は、首の皮一枚より厚みがある迅速な判断だったともいえるが、呑気にブラブラと歩くだけの予断はこの寒暖差に残念ながらない。
すれ違う群衆の寒暖差はとても開きがある、それは爛々とした夏の日差しから春の陽気の穏やかさまでの開き具合。大きな開きがあるのは、事情をまだ知らず熱気の勢いを飲み込めるだけの渇きも怒りも覚えていない者が大部分だから。こん棒の振り下ろされた先を知れ渡れば?おおっ!怖い怖い、考えるだけでゾッとするからさっさと立ち去ってしまおう。
「どう行くんだい?土地勘のない私ではそこのけそこのけ他人の家でもお構いなしに最短距離だが?」
「路地裏は…止めておきましょう。人の流れに乗って真っ直ぐ行って曲がって真っ直ぐ、大回りになってしまうけど危なくない選択肢はこれだわ」
「分かった、アシュトン夫人、何かあればすぐに言う事、我慢は厳禁だぜ?」
アシュトン夫人は小さくうなずくも…本当に分かっているんだろうな?と念を押したい気持ちに私はかられるが、そんなやり取りでも時間の無駄な浪費だ。一分どころか一秒を争う今のこの場ではアシュトン夫人を信じるしかない。
なのでイーストウッド夫人を見失わない様に、と同時にアシュトン夫人の手を握って歩幅を合わせた小走りで背中を追う。
すれ違う人々の表情はまだ空気の色合いの変貌に戸惑い困惑する有様ばかり、だが事情を知っていそうな者を片端から探してもいるので、ここは枯れ草茂る荒れ野と左程の違いはない。
風に誘われた野火が顔を見せればどうなるのか?筆舌の必要性も無く明らか、幸いにもまだ飛び火は遥か彼方、だが嘘は地球を真実よりも速く駆ける、早々に退散してしまおう…おや?イーストウッド夫人が不意に立ち止まった。
「間に合わなかったわ」
「間に合わなかった?人は流れて行っているが……」
複数の材質の物が壊れる轟音が響き渡って来たので背伸びをした。同年代の男子よりも背の高い私でさえ大人の人混みでは先が見通せない、つま先立ちでもすれば僅かに覗け……渋谷で軽トラックが横転させられた光景にとても類似する光景が飛び込んできた。
ただし倒されているのは馬車。
「曲がらないといけないのはあの解体されている馬車の通りなのよ」
「はぁー…いくら私でもあの乱痴気を素通りする自信はないな」
主だって塞がんとしているのは治安維持を行う組織の本拠に向かって、連絡用にどこか開けておくという所作の見えない所は、指導する者が不在である証拠で兎にも角にも目的があって塞いでいるのではなく、塞ぐことが、バリケードを作る事が目的という様子で下手に近づけば、ろくでもない事態に巻き込まれるのは確約されている。
脇道にそれるか?
路地は人混みとは無縁で見向きもされていない、雨の日の河川が如く水嵩の増して行く人の流れに飲み込まれる前に、田畑の様子を見にも行かず緊急速報が出る前に明るい内に安全な場所へと行くように、避難だけでも賢明かもしれない、路地と路地裏を正しく型紙通りに縫い歩けば目的地にいける。
だが…一抹の不安はあると吐露しよう。
こうも治安の乱れた日に人気の乏しい場所を歩く、それも女3人、襲ってくださいいらしゃいませ、とプラカードを掲げているのとどっこいどっこいだ。男手が…おや?
「イーストウッド夫人ですよね?」
「ええ、どなたかし…―――」
どうするか否かを思案していれば唐突に、妙に統一感の乏しいボロのジャケットだのベストだのスーツだのを体格に当てはまらずに着込んだ…労働者?いや浮浪者…にしては体つきはがっしりとしている、な男が左から先導するイーストウッド夫人に声を掛けた。
普通なら尻を蹴り飛ばしてから追い返す流れなのだがイーストウッド夫人は慇懃無礼な距離感の男が耳元を何か呟くと、私のいる距離からでは聞き耳云々の前の周囲の雑音で分からないが、夫人の横顔は険しく鋭さも垣間見せた。
「訳は後程で、こちらへ。安全な場所までお送りします」
「…そうね、お願いするわ」
その男は何もなのか?と視線で尋ねる私に夫人は「今はダメ」と小さく呟いたので、まあここは空気を読んでお口の戸を閉められる乙女として何も尋ねず、不安げなアシュトン夫人の手を握って、男の後ろを歩くイーストウッド夫人に連なって路地へと歩を進める。
少しより長いしばし歩いて、後ろの喧騒が控えめに小さくなった頃にようやく私はその男が何者なのかを知れた。
正確性を求められたなら物陰に身を潜めていたお仲間で正体が知れた、というのが正鵠。
現れたのは警官だった。
人数は背の高い浅く帽子を被る男と、赤毛がはみ出した深く帽子を被る小男が2人。
ボロを着込む男を含めれば警官が3人。
「失礼、大事になるものであの場では」
「そうね、責任を感じてい欲しいわ。慎重に身を隠すくらいなら最初から自制の利かない物は腰から提げないでくださるかしら?」
珍しくイーストウッド夫人は毒を吐いた、吐きたくもなるのは私にも分かる。
騒動の原因が、こん棒で子供を打ち据えた同人ではないが同じ組織に属する者が目の前にいれば、誰であろうと、聖人だって皮肉の一つや六つは言いたくもなる。私も夫人も聖人ではないから、ネチネチとした陰湿な、女の腐れ果てた様な物言いは―――今は良いが未来ではこの表現は禁句だ。兎にも角にも自立心のある淑女には似つかわしもない言葉選びをしてしまうのは必然の帰結だ。
男は何様のつもりか顔を僅かにピクリと引き攣らせてから、紳士的な、というには身の丈の合わぬ数々を着込んだ不格好なお上りさんの身振りで、夫人に会釈をしてから「必ず厳正に罰します」と誠意を見せた。
……夫人は、イーストウッド夫人は気にならないのか?いや今は藁に縋るを厭えない状況下で、気になるのは私だからなのだろう。警官の内の1人、妙に私と視線を合わせずそっぽを向くこじんまりとした男。薄っすらと帽子からはみ出す赤毛、ボロを着込む男以上に身の丈があっていない。上着はどうにかしているが、ズボンに関しては一度裁断してから仕立て直せと言いたいほどに、無理やり裾を捲り上げて紐で結んでいるのは、威圧感で治安を守るべき警官の装いとしては物笑いだ。
しかし……。
「頼まれました、貴女達を探している方から。入り組んでいますが抜け道を案内するのでついて来てください」
と親切に言うのだから様子見をしよう。
イーストウッド夫人が後ろを着いていくと決断を下しているし…後ろを見やればアシュトン夫人が不安を押し殺している、今はまだ私個人が楽しみを覚えるのは場違いであり空気をまるっきりと読めていない。
平静を努めなければならない、落ち着いてついていこう。
とはいえだ、もうちょっぴりの細やかな配慮を期待したいというのが本音だが…三人の男達が先導を始めたのだからこれ以上は野暮だ。
何より後ろを気遣わないといけない私はついでに何かと物陰の多い路地と路地裏を縫って進むのだから、微細極まる物音ッ!?
「なあぁ~」
「猫…でしたね」
「まったく猫だ」
でも、と身構えた先には呑気な欠伸を混ぜた猫の拍子抜けの鳴き声、北エウロパの神話では猫の足音をよくも材料にでもされて消えたというが、それ以前の足音はこの人騒がせよりも大きかったのだろうか?と内心で悪態をつきつつ、振り向きも立ち止まりもしない男3人と立ち止まった私の行動に心臓へ悪い思いをしてから安堵の溜息を漏らすイーストウッド夫人へ少し歩を速めて追いついて、再び路地と路地裏を縫って進む。
しかし…遠回りに過ぎないか?とも思ってしまう。
安全第一でゴロツキの吹き溜まりを避けているのだと説明でもしてくれていれば、多少なれども訝しさは和らぐのだが、ちょっぴりな塩加減すら怠ってしまう精神状態なのか?喧騒が僅かばかりでも木霊する中、一際大きく伝わる度にビクつく男達はされどもズンズンとスタスタと先へ先へ。
まあその格好、先頭を歩く2人は通行人に「こんにちわ」と語り掛ければ「さようなら」とリンチの返答が来るご時世なのだから致し方がないと、弁護のしようはティースプーン一杯の三分の二杯くらいはあるのか?
守るべき私達のいる後ろに気を払う余裕すらない有様だが。
 




