七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅹ>】
「きゃは♪」
とキャスリンは笑った。
愛くるしいと思える笑顔だったが、暖炉の揺蕩う灯火に照らされただけの薄暗い部屋ではむしろ加虐的な忌まわしい、文字通りの悪魔の様な笑顔だった。特に絶対に覆せない筈の状況下での笑顔は不気味でミルトンの心胆を凍えさせた。
「ねえ、ねえ、ねえ!不思議に思わない?差し出した手紙が差し出した家から持ち出された事に!」
「……?」
ミルトンの思考は突飛な指摘で困惑し、心臓が締め付けられる感覚に苛まれながら改めて手紙を、中身の便箋ではなく外側の封筒を凝視する。
一見だけならただの変哲を探すまでも無い普通の当り障りない、一律料金で郵便局が配達した手紙なのだが、そこがまず不自然な点だった。正規の手続きを踏んだ手紙を差し出した当人の家にある筈は無い。
もう一度しっかりと見れば消印は違和感を覚えてしまう歪さがあり、切手に至っては一度使われた物を巧妙に切り取って貼り付けてあった、つまりこの3通の手紙は露骨で粗雑な偽物だった。
手紙、訪問カード、書留のある紙切れに至るまでこれまでの生涯で数百通数百枚と見極める審美眼を磨き上げ、玄人の鑑定士と自負しても差し支えない、それがチャック・O・ミルトンという悪人。だのに彼はその真贋を見極められず、まんまと騙されて間抜けを晒している。ミルトンは静かに理解した、自分は欲に目が眩んでめくらとなっていた…ただそれがどうした事なのか?と僅かな困惑の果てに結論付けを終えて、気持ちを切り替え商談はご破算…と思った直後、ニタニタと厭らしく微笑むキャスリンが目に留まった。
手には何時の間にか取り出した1通の手紙、最初は買取希望か?と思案したが状況の移り変わりからそれは無いと思ったが直後、それにミルトンは激しく見覚えがあり過ぎて、再度、心臓がギュッと締め上げられる感覚に襲われる。
「見覚えあるかしら?あるわよね??」
「どうして…バカな……!?」
「お買い上げ、1000ポンドで!」
時間の経過で変色したかつては白色だった封筒、雑多な円形だけの印璽、かつてミルトンが恐喝家として船出を飾った頃、資金を手に入れる必要に迫られ気の迷いでは済まされない事に手を出した証明。彼等に土地を提供し物流の基盤を提供し、見返りの莫大な富を得る為に結んでしまった契約の証。
もしもその契約書がナイトロードの目に触れれば、極刑も免れないそれを、手紙に見間違える様に偽装したそれを、最も信頼を寄せる竹馬の友に託したそれを、異常な事にキャスリンが手にしていた。
普段、ミルトンは暴力的な方向性で物事を解決する専らの手段とはしない男だったが、キャスリンの持つ契約書の致命さを誰よりも深刻に受け止めるが故か、人型の肉塊などとは言わせない素早さで、机の引き出しに隠す拳銃を取り出してキャスリンへ銃口を向けた。
最悪は殺して奪い返すだが、白日に晒されるくらいなら止む得ない。カレドランドヤードには手を汚く染め上がっている者が幾らでもいて、弱みは一通り握りしめているので揉み消すには苦労はしないし、そもそもこの時間帯に年端の行かない少女がこの場にいる事自体を知る者がどれだけいるのか?テムズ川から引き揚げられたとしても世間の噂の的になるのは悪名で知れ渡る両親だけ。
何より余程に知性の乏しくなければ、銃口を向けられるという危機的を理解できるはずで、ミルトンは諭す様に…。
「善い子なのだから寄こしなさい、それを」
キャスリンへ向かって告げるが、当人のキャスリンは怯える事も無ければ慌てたり冷や汗をかく素振りすら見せず、微笑みには余裕がはっきりと見て取れた。
「きゃは♪怖い、怖い、怖い。聞いていた話だと…アクィタニアの横流し品だったのに、今は何それ?脂肪に膨れた手だと小さくない?アタシの細腕よりも細いわ…でも箒の柄って感じで好きよ」
それどころか向けられる銃への感想すら述べる有様だったが同時に、どうして以前使っていた拳銃の事を知っているのか?ミルトンが疑問を抱いたその時、後頭部に低い位置から何か細長く硬い物で軽く小突かれて、ガチャッ!という作動音が唐突に響く。
「動かない方がいいですよ?」
「何時の間に…オヘダ?…な…何のつもりだ!?」
「銃を下ろしてくださいよ、脳漿、ぶちまけますよ?」
「お座りなって、ゆっくりお話をしましょう」
後ろから耳に届く聞きなれた声、オヘダの声がミルトンを絶望の坩堝へと誘う。忠実な女中だと信頼したオヘダの、脈絡のない冷たい裏切り。護身用と使っていた以前の拳銃を与えた事が裏目に出た瞬間だった。
誰よりも銃の性能と自らの鈍重さをしっているミルトンは促されるまま椅子に座りなおし、後頭部に銃口を突きつけられたまま勝ち誇るキャスリンを見た。
「何時の間にオヘダを抱き込んだのか…見習うべきでない善き手本たる娘、と侮り過ぎたとはいえ…驚いた」
平静さを失ってはいないという態度でミルトンは口を動かしたが、逆にキャスリンは今から腹を抱えて笑い出しそうな声で口を開く。
「何時?何時だったかしら?ねえロベルタ」
「…?来ているのか、他にも?」
ロベルタ、という名前だけミルトンは聞き覚えがあった。眼前のキャスリン付きの雑役女中、ロベルタ・イスパノ。件のラジオ放送で婚約者と共に元婚約者を侮蔑した少女…そこまで来てミルトンは気が付く。
「ええ、裏切ります裏切りません以前に最初から獅子身中の虫でしたよ。ロベルタ・イスパノです」
「驚いた?ねえ驚いた??ずっと前に貴方が陥れた庶民院の議員…あの方、お父様にお金を借り縋りに来ていたの、でアタシが立ち聞きいて調べた、家に手癖の悪い女がいた、ちょっと手癖の悪さの躾に爪を剥いだら全てを教えてくれたからロベルタを送り込んだ」
ケラケラと笑いながら悍ましい事をジャム瓶の蓋を開ける様に口走るキャスリンに、ミルトンは尋ねるべき事を尋ねた。
「どうやって手に入れた?」
「もー察しの悪い人、言ったじゃない!買った1000ポンドで、快く売ってくれたのよロブ・ロンは」
「ありえん!彼は私が唯一信頼する男だ!唯一友と言える男だ!」
「あーもう、本当に察しの悪い!もしかして頭の中まで脂肪?脳みそでスエット・プディングが作れたりするのかしら?」
その物言いにミルトンは理解が出来なかった。生まれた年、生きてき道は途中まで違えども、共に最下層の貧しい労働者の子として生を受け、家族を失う苦痛に耐え忍びここまで成り上がってきた竹馬の友が、自分を裏切る?発想として最初からミルトンは持ち合わせていなかった。
「ロンに何をした?」
キャスリンがロンに危害を加えた、それ以外にはありえないのだと重ねて、自身の窮地の立場を忘れて問い詰めた。
しかしキャスリンは聞き分けの悪い童に言い聞かせるように喋る。
「バースへ彼が行くことになった理由を、貴方は話したのかしら?もしかして、言葉にしなくとも分かり合える友情とか思っていた?なら見当違い、思いは言葉にして初めて通ずるのよ」
「腰を痛めたというのなら湯治を勧めただけだ!私がロンを切る捨てるなど考えん!」
「だったら若い泥棒黒猫を可愛がるのは程々にしておくべきだったわね。重宝されていた自分の文盲だった過去を口に出され、腰を痛めれば片田舎に押し込まれる…口封じの前準備と怯えてしまうわ、腰骨の曲がった老骨に居場所はないって」
そこまで言い切られれば、流石のミルトンも理解が及んだ。
確かにオヘダを、ロベルタを手元に置いてから何かと手塩を懸けてロベルタを育てた。しかしそれは年老いていく友人に何の憂いも無く自分の余生だけを考えて欲しいという親友からの、慎ましやかな心遣いのつもりだった。
だがミルトンの行いは、今まで数多いる切って捨てられて来た者達と自分が結局は同列だったという、絶望的な思い違いを与える行いでしかなかった。ロベルタを思いやっての言葉は隠れて見守るロンに、細やかな疑心の種を心に突き刺し、時間がそれを育て最終的に棘で締め付け、彼に裏切りを選択させた。
行為としては何の落ち度も無く、あるとすれば最初に手紙の不自然さに気が付けていれば、キャスリンに介在する余地は与えなかった。
「安心してこの秘密はアタシと、貴方と…ああ、そこにいる泥棒黒猫とだけの秘密」
「ロンがいる」
「セブン・スターライン」
キャスリンの言葉にミルトンは手短くもう一人の秘密を知る人物の名前を口にしたが、キャスリンは同じように簡潔にその社名を口にした。
「アタシね、助言をしてあげたの。適当な氷山に適当な豪華客船を言い訳の利く角度からぶつけてしまえばいいって、そすれば保険金で支払いの目途が立つって!で実はその船はね、ロンが乗っているの!」
「な…に……何だと!?」
「嗚呼、可哀想、可哀想、可哀想、老後は凍える北限の水底で、悲しい名簿に名前を連ねる三等客室のロブ・ロン。秘密は守れて貴方は安心、ついでに多額のお金で貴方の懐はさらに温か!」
何故そんな事に?という疑問が浮かんだ直後に後ろに佇むロベルタを感じてミルトンは察する、これはキャスリンの描いた謀略だった、と。
「きゃは!そうよ、そうなの、そうなのよ!貴方がロベルタを傍に置いた時からずっとずっとずぅっっと…手のひらの上の演目」
ミルトンは椅子から崩れ落ちかけた。さらりと口から出た親友が故人となる現実、さらに思い当たる節のある今までの自分では危険が大き過ぎると嫌煙していた行為の実践、それら全てが眼前の幼い少女の、自分の半分どころかも生きていない少女がやってのけて、打ち明けられるまで感付くことも出来なかったという真実。
「……分かった叶えよう、望みはなんだ?」
なので受け入れた。
弱みを握られた程度の事で逆転の目は決して潰えていなくともミルトンは静かに悟った。自分は既に蛇の舌の根の所までのみ込まれている、この少女には、この異質な少女には勝てない、ナイトロードのように深淵すら覗けぬ底知れぬ闇を持ち、何より正しく狂っている、同じ悪人としての格が違い過ぎると。
だからミルトンは敗北を認めて、キャスリンは悪魔の様に笑った。
「お友達になりましょう」




