七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅸ>】
チャック・O・ミルトンは満足気に満足気に獲らぬ内に狸の、この地域には生息しないので何かしろの動物の皮の算用を、書斎の上等な革張りの椅子に体を預けながら恍惚と妄想していた。例えるのなら砂糖黍畑を手に入れる心持ち、砂糖とラム酒は作れるし搾りかすで紙から燃料さらには家畜の飼料。最後の最後の骨の髄までしゃぶり明かしても、まだまだ食い物に出来る部分で溢れ返っていると、新参者と小馬鹿にして来る夜のお茶会の面々を見返し、あわよくば立ち位置を盆を返す様に逆転させられると、ミルトンは上機嫌で妄想に明け暮れていた。
ロンディニオン銀行の総裁さえ、上手く運ばせれば足蹴に出来るのだから普段の足元への用心も疎かになるのは物語としては定石で、ミルトンは例から漏れる醍醐味の分からぬ無粋はせず、定型文の様に足元が疎かになっていた。
日々の変化も気が付けていたのに、今では気が付いていない。
長年、片腕として誰よりも真摯にご機嫌を伺わずに諫めるロンが、腰を痛めてバースで長い療養生活を送り始めた時点で、もう少し自身への気配りを怠らなければ幸いだったのに、彼は手に入れた物の価値の高さに酔いしれていた。
何より雇う流れになったオヘダという件の少女の、有能で物覚えの良さがロンの不在で起こり得ていた不便さを感じさせないのも大きな原因となっていた。
齢は10歳でありながら深慮深く利巧で、気の利いた立ち回りにそつはなく、料理をさせれば同年代と見比べても隔絶の美味さで、スコーンは絶品。
他に雇う女中より月々の給金は多少高くても気にもならない。
むしろ長くこの職で食べてきた彼女達が届かないオヘダ以下なのか?
そちらの方に厚かましく不平を抱いていた。
「今夜か…ロン…はいないんだったな。なら…オヘダを呼ぼう」
僅かに浮かんだ久しく顔を合わせない友人が脳裏に過った後、ミルトンはロン以外で信用に足ると信頼を寄せるオヘダを、専用に設えた呼び鈴を鳴らして呼び寄せる。
用事が無ければ必ず耳に届く範囲にいる、黒猫の様な可愛らしい、少しずつ大人び始めた肌の色の濃い少女が淑やかに姿を現す。
「どうなさいましたか?」
「今夜と明後日の商談だが、今夜は顔合わせで明後日の件が本腰。馬車の手配と…年長の女中を通して荒くれ者に指示を出しておいてくれ。身の程に疎いジェントリだ、粋がっているから軽い社交辞令をせねばんらない」
「分かりました」
数日前に送った手紙の返答が門前へ打ち込まれた銃弾と、如何に自分がならず者と親しく偉いのか?詫びを入れて手紙を返すなら許してやるという文言だったので、ミルトンは裏社会から漏れ出る小川に足を浸けた程度で粋がっているジェントリに、先輩として、正し社交辞令を指南してやろうと、親切心から私兵を動かす様にオヘダに命じた。
自身がかつてとあるギャングのボスに生意気を口走り、手酷く、つまり手取り足取り指南を受けたのだから、今度は自分が後輩に対して教育をしてしんぜようという気持ちで。
と同時に別件を思い出し…。
「オヘダ、セブン・スターライン社は期日を守りそうかな?」
「いいえ…いえもうすぐ莫大な保険金を調達する運びとの事で…ただ僅かばかり期日を延ばして欲しいと、必ず支払うと」
「ふむ……」
一時、ミルトンは脳裏に浮かび上がった言葉を吟味して、よくある命乞いだと結論付け、「残念だ」と呟こうとしたが、船会社の物申す莫大な保険金という言葉が心からのものだったのなら、手に入る金額は一攫千金どころで終わる話でもないと、途中で言葉を口から飛び出すのをせき止めた。
猶予を与えてもいいのではないか?と心変わりが始まるも、相手が不運にも、という理由ではなく悪業の果てに、という結果で自分に弱みを握られたのだから嘘と断じれもした。しかし同時に、船会社の物申す莫大な保険金が心からの言葉なのだとしたら、一攫千金どころで終わる話でもなかった。
嘘だったのなら?
それなら何時も通りに醜聞で、退屈を持て余す世間を騒がしてやれば良いし、これもオヘダが提案して始めた事柄なのだから、成功だけでなく失敗の経験も学ばせるには丁度良い、とミルトンは結論付けて一度だけの期日を延長を認めるとオヘダに告げて、上機嫌に太巻きな葉巻を取り出す。それを自分の手で両端を適切に切り、こだわりのある火の付け方で灯して燻らせる。
あっという間に部屋中を独特な、薔薇の香りに似た燻る芳香が充満して耐えきれずオヘダは顔をしかめ、その表情を観察してからミルトンは幾つかの指示を出して、退出を命じ、夜を待ち侘びる為に隣接する寝室で静かに時を待った。
♦♦♦♦
ボーン、ボーン、という低い音をヘルヴェティアで製造された置時計は響かせると、秒針が時計版を一周する間にだけ作動する仕掛けが、コンマのズレも無く動き出せば、内部に組み込まれた蓄音機が高名な交響曲の、一番の盛り上がり所を奏で始め、ミルトンを寝所から呼び起こした。
時間が来た、と思い月明りを導に傍らのサイドテーブルの上にあるマッチ箱に手を伸ばして、まだ散漫する意識を錆びれた歯車を動かす手際で火を点ける。頼りないか細い灯火を、同じサイドテーブルの上のオイルランプへ移して、月明りでぼやけて浮彫りになっていた室内を顕わにした。
寝室に置いてある小さな置時計は深夜を指し示し予定通りの時間に目を覚ましたのだと確認し、早々に商談の準備を進める為、書斎へと足を運ぶ。
「気の利いた子だ」
暖炉は絶える事無く爛々と燃え盛り、室内を温かに照らしていた。
ミルトンはオヘアの仕事だろうと、理解して感心しつつオイルランプを書斎机に置いて来訪者が来るのを静かに待とうと、引き出しから葉巻を取り出した辺りから違和感に気が付いた。
不思議な事に書斎から裏手の、物陰に通ずるベランダの窓の近くに、飛びつかれてもすぐに拳銃の重い引き金を引ける位置に置いた椅子に、小さな陰影が薄っすらと浮かんでいた。まるで幼女の人形の様な陰影…暗がりに目が馴れ始めるとすぐにそれが人だと理解して、ミルトンは思わず葉巻を手から滑り落としてしまう。
というのも人だと気づいた直後に、はっきりと目が合って見えた、生気を宿した白磁の肌に、美を突き詰めた造形美と、爛々と照らされて煌くブロンドの髪が合わさった姿は、生きた人形としか見えなかったからだ。
今にも鈴の音の様な声で歌いだしそうで、そう思うのは精巧に作られ過ぎた故の錯覚だと納得しそうな、しかし瞬きをして呼吸をする仕草で間違いなくそれは生きた少女で。
突然の、まるで予想していない事態にミルトンは目を見開いて呆然とした。
「始めして、ミルトン氏。父、ディラン・メイヤーで代理で来た、キャスリン・メイヤーよ、アタシ」
「……」
思い描いたよりも幼く、しかし愛らしい声色に、ミルトンは呆然と自失したが同時に不可解さに襲われて正体を取り戻した。
何故?年端の行かない少女が、オヘアと同じ年の少女がこの時間帯に、この自分の前に座っているのか?徐々に、状況を飲み込むうちにキャスリンへと向かていた感情は不気味さへ姿を変えていった。
時刻を見ると来訪して然るべき人物が来るには、予定の時刻よりも随分と早く、当然だが表からも裏からも入る事は叶わない。しかし実際に目の前に座っている、少しずつ事態の異常さが明々となる中、ミルトンは努めて平静を装い…。
「お嬢さん、お家へ帰りなさい。安心していい、ちゃんとした大人が馬車で送ろう」
と夜闇の怪しさにかどわかされて、軽はずみに出歩いてしまった少女に大人として言い聞かせる様に、ミルトンはキャスリンに自宅まで送り届けると言って、使用人の中で真っ当な人間は誰だったか思案した。
ここでロンがいれば、と思ったがいない以上は妻帯者にでも頼もうと、子持ちなら万が一の外道は起こすまいと、しかしここで最初にキャスリンが口にした言葉を思い出す。
ディラン・メイヤーの代理で来た。
「緩慢な見た目はお頭の作り方まで反映されているのね?夜も遅くに少女が来訪する、それって、異常なのよ?」
キャスリンの瞳を直視たミルトンは背筋を冷たい感触が駆け回り考えを改める。ゾッとしたその瞬間に目の前で座る人形の様に美しい少女は見た目通りに少女ではない、明らかに異質な、年不相応な知性が、大人が子供の生皮を逆剥ぎ被っている様な異質さを感じ取ったからだ。
慎重に言葉選びに神経をすり減らさなければならない。
ミルトンは覚悟を決めてキャスリンへ飾りっ気のない単刀直入の、後手に回られた後でも現時点における必勝の言葉を口にした。
「差し上げた手紙に書いてある通りの金額を振り込んでいただけなければ、この三通の手紙を新聞社に寄付しなければなりません。ディラン氏の不倫と奥方の醜聞、あとご息女…君の妹の医療行為を中断させた事への懺悔の手紙を」
ミルトンがオヘダから買い取った手紙、それはディランが不倫相手へ送った手紙、キャロルに関しては炊き出しのスープに使う肉の代用として使う、履き潰された革靴をかき集めて欲しいという依頼の手紙、そして最後に息のある娘への医療行為を中断させて死なせたことへの懺悔の告白が記された手紙。
出だしの1通は男の嗜みと尻に敷かれていない限りは言い捨てられる事だが残りの2通は社会的な死を、弁明の余地も無く免れず、ミルトンとしては最後の一通こそが大本命であり、これさえあれば幾らでもディラン以外からも搾り取れると、平然とオヘアに1000ポンドという大金を支払ったのだった。
一つ懸念していたジェインの実態も、調べれば調べる程にその家の最も善き娘であるという覆しようのない事実も分かり、ラジオ放送も知らぬ者の同情を誘い知る者達からは決定的な憎悪を買い、メイヤー夫妻のバースからロンディニオンへの移住を阻んできた叔父が納得しせざるおえなかったのは近隣住民の凶行を懸念しての事だった。
ミルトンはだからこそ強気を保っている、が手紙の不自然さに最初に気が付けていたらこの先の展開は起こらなかったのかもしれない。




