七章【大きな蛇の舌の根で<Ⅷ>】
理解できないし理解したくないしそもそも理解以前の問題で何を言っているのかしらこのサマースキルさんは?アタシが今までコツコツと、それはもうコツコツとコツコツと買い集めて、計画的な、ちょっぴり法に触れそうな境界線の僅かに一歩前で、堅実に築き上げた資産が1ファージングすら無い?とっても不出来極まるお粗末な作り話、与太話だわ。だってそうでしょう?資産の運用管理その他の全ては、表向きにお父様を据え置いて、全権はこのアタシが握っている。
女性が個人で財産を持つ事は、まだまだ難しく堅苦しこの時代、うら若き少女のアタシなら殊更。だけど、お父様で人形劇を演じたならば、悠々自適に財産を積み重ね、最終的に物語は相続というめでたしめでたしで終わる。
と、長々と独白したけど、つまりお父様はアタシの意思を介在させない、という選択肢はとても限られた、玄関先の物置を彩る金魚鉢の様な世界の中だけ。
「きゃは♪お父様がアタシの足を引っ張り回す知恵者でも、アタシの裏側で謀略を巡らせるお利巧さはないのよ?サマースキルさん?さあ、正しい結果を提示して」
「残念ですがお嬢様、全て奥様が物見派に寄進しました。誓約書の写しはこちらです」
そういって差し渡された一枚の写真には、癖が強過ぎて古代の象形文字の様相を呈する明確なお父様の筆跡。契約書の文言ははっきりとディラン・メイヤーの総資産の無償譲渡が明記されていた。
買い集めた今後も着実に成長する、一大産業に成長する情報通信産業に関する株を名指しで……ないわ~全財産無償で譲渡、寄進とかないわ~、ないわ~……いいえ、それ以前にどうやってお父様がアタシの許諾を伺い奉る事も無く、重大な決断を下してしまったのか?実はそこが一番の安全装置になの。
お父様の最大級の欠点は…どれこれもあれもそれも最大級の欠点だけど、決断に他者の助力無くして下せない精神面の虚弱さが、お父様の最大級の欠点。占い師への依存、あの女から、妻から誘われて帰依した物見派への依存、そしてアタシへの依存。中途半端にも届かぬ精神性しか育めなかったお父様の欠点。
重大な決断だけをチラつかせる、不安を煽り孤独を演出する、さすれば自主的に頼り甲斐を醸し出すアタシへ依存し、アタシの宣託なしには何も出来ない…筈。
どうやって?誰が?どうやって?誰が……あの女?
「それこそが一番あり得ざる可能性よ。あの女にそれだけの知能は無い、知能が無いからあの様、あの様だからこそ知能は無い。アタシを出し抜くなんて一光年を一飛びで駆け抜ける未来技術を実現する遥か未来並みに早いわ」
「ええ、ですからほらここと…ここと、それとこれも間違いだらけで、難癖を箇条書きで送りましたので再来週までは履行されません。再来週以降は保証できかねますが。とまあこんな杜撰な誓約書は奥様程度でしか作れません、証明終了」
間違いだらけの誓約書、考案して一枚の紙に一纏めたのはあの女だという何よりの証拠…いいえ、それであってもお父様が宣託を抜きで行動を移せるだけの勇敢さがあれば、今まで以上にアタシは悶え苦しみ、胃がエメンタールチーズの様に穴だらけ。方法が分からない、お父様を勇気づける、善き妻の、淑やかに夫を支え背中を押せる言の葉なんてあの女が口走れるはずがないのよ。
だからこれはサマースキルさんの悪戯ね。
「本当に人が悪いわ、見え透いた嘘は、どれだけ手を込んでいても大変なのよ?嗜みで付き合うのは」
「旦那様のここ最近の悪習を鑑みれば、如何ですか?」
「お父様の?そうね……」
お酒を飲んで、お酒を飲んで、お酒を飲んでいたらしいわ。パブにも足繁く通い詰めていたとか………………………―――――――――ドガガシャンッ!という音が響いて、はっ!?とアタシの意識は正常さを取り戻した。
背中から後ろの勉強机に倒れて、もたれ掛かり、規律正しく並び整えていたインク壺、万年筆、文具は床へと転げ落ちて乱雑に散かり、どれ程の勢いで、そこに勉強机があったのが救いという状態で、アタシは勉強机に支えられ辛うじて膝から崩れずにんでいた。
誰であろうと漠然と目の前に絞首刑台へと飾り立てられた階段が現れれば、誰であろうと英知の詰め込まれた脳髄も一瞬で白痴となるのは避けがたい事で、正体を元の位置へと戻した今でもアタシは…何も考えられずにいた。
可能性があるのならその選択肢は正当だと、現実から目を背けんと喘いだ。突きつけられる確固たる証明で、あの女がディラン・メイヤー名義のアタシの総資産を全て、アタシの総資産を漏れなく、アタシの積み上げた全てを台無しにしたという現実を受け止め…きれずに一拍の心神喪失に襲われて、ようやく少しずつ思考は明朗になり始める。
このアタシは完全にしてやれたわ!あの女に!!
そうお父様は泥酔していたのだから、あの女が腐った果実の胸を焼いて不快を誘う下卑た言葉でも、耳元で騒々しく囁けばアタシの宣託を受けずとも、ええ!署名をするわ。
あの女の為に!
「ッ!?」
怒りと興奮は胃痛と頭痛の二重奏として、アタシの体の中で演奏が始まり意識をかき乱す耐え難い激痛を現出させる。胃薬…いいえそれよりも一息をついて、精神の安息を計らないと胃薬だけで昼食も夕食も事足りてしまうわ。
水差しからガラスのコップへ水を灌ぐ前に、扉の近く壁に掛けてある呼び鈴を4回鳴らす。1回、2回、3回で含む意味は違って、4回はベルガモットの香りの心地よい紅茶を可及的速やかに、アタシはとっても不機嫌。
終わったなら苛む体に鞭打って、胃薬を直ちに水と合わせて飲み干す、そうすれば痛みは和らいで、今度は喉の渇きが顔を出して水差しを再度手に持ち…。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッッ!!!」
堪え切れず汚らしい濁音を口から発し、衝動の赴くままに水差しを壁に投げつけたわ。
本当はもっと、もっと、もっと!!口汚く怨嗟の言葉を吐き出したい!されども慎み深い淑女とは、自らの感情は我が手足とする強かさを育んだ者の事。髪を掻き毟り、癇癪という激情で口を動かす者の事では決してあっていいはずがないわ。
湧き上がる憤怒を抑えて、肩で息をするという不作法をささっと咳払い誤魔化し、いずれ運ばれてくる紅茶を待ち侘びつつ、アタシはアタシが最大の武器とする冷静さを取り戻した……一間前の醜態は無かった事にして。
ええ、冷静である事、それこそ予想外を覆す最善の在り方。お父様、ジョシュア、あの女、他にも、思考頭脳は見識無き輩と共に歩んで来たからこそ断言する、窮地に浮足立ち続ける者に破滅あり。すぐに地に足を、大樹が根を張る様に大地に仁王立ちする者こそが勝利者で、歴史を紡いできた。
そうよキャスリン・メイヤー、ここは分水嶺なのよ。辛うじてご破算直近の首の皮一枚、皮一枚でも繋がっていれば、ほとんど皮だけ繋がった状態の腕は辛くも縫合を可能とする。
サマースキルさんの言い分を冷静に聞き取れば、再来週まで執行猶予が残されているのよ。劇的な展開を演出さえ、不得手とする即興劇の公演を開けさえすれば覆せる。
「冷静さを取り戻せたようですね。こちらを」
アタシの立ち振る舞いを見極めると、サマースキルさんは懐から何かを取り出した。
何かしら?と受け取ってみれば二通の手紙、一枚は見覚えのある雑把に円形だけの印璽が封蝋に押された埃臭い手紙、もう一枚は品性の無い方面で見栄えのある成金臭い印璽が封蝋に押された手紙。
2通の暗示はここまでの演目は全て、テンプル翁の手の平の上で公演されていた、という心底顔が引き攣りそうな暗示。
「やってくれるのね」
「翁は即興が出来てこその劇だと、切り札はある、と思わせた時点で真贋など有耶無耶だろうと勝機、勝ち切れるかは当人の本領次第」
「……まあいいわ、ええ、演じ切ってみせるわ。祝席はソーセージ&マッシュの美味しいパブでお願いね」
手紙を愛用の手持ち鞄に収め、アタシは運ばれてきたベルガモットの香りが心地よい紅茶を飲み干して、今晩の予定を運んできた女中に告げて、お父様が帰宅する時間を見計らうあの女が余計な事をしないように、すぐに眠たくなってしまうブレンドのされた紅茶を入れてあげるよう命じてから、アタシは夜分に栄える身支度を始めた。